夏の白雪

@tententen10tententen

第1話

 透き通るように青い空。その中に悠々と浮かぶ船のような入道雲。少し熱気を含んだ風が僕の体を優しく撫でる。

「あぁ〜」

 どこまでも続く広大な夏を感じて、意味もなく僕は叫んだ。「こんなに暑い日はアイスが無いと」などと遊びに来た友人が言い出すものだからつい僕もその気になって口がアイスを求めてしまった。コンビニにアイスを買いに行くぐらいすぐだろう、なんて思いなが外に出てきた自分を深く恨む。普段ならコンビニから自宅まで、坂を登っておおよそ五分とかからない。しかしこの異常な夏の暑さ、足取りは重く足が度々止まってしまう。

 この炎天下をこのペースで歩いていてはアイスが溶けてしまってもおかしくはない。どうにか力を振り絞って、少しだけ歩くスピードを上げた。

 こんな時、魔法があればアイスを溶かさずに運ぶことができるのに。

 そんな現実味のない考えが頭によぎった。この猛暑日、熱さで頭がダメになったのかもと思って自分で自分を鼻で笑う。

 しかし、ふと思い出した。僕は一つ、魔法を知っている。




 僕の家族にはとある習慣があった。

 その習慣というのは冬の季節の半ば、十二月頃に雪が降ったら車で自分たちの住んでいた山から一つ隣の山まで行って、全長約一キロメートルもあるトンネルをくぐるというもの。それはどれだけ寒くて外に出たくない時も、どれだけ疲弊しきった日でも例外なく行われていた。

 我が家の習慣、定例行事、儀式とも呼べるそれは僕が物心つく前から行われていたらしく、もしかすると父や母が祖父母に連れられて子供の頃から行われてきた儀式かもしれない。詳しい起源は分からないが、儀式として確立されていたそれは、数をこなしていくうちに僕にとってはクリスマスとなんら遜色ない、冬場になくてはならない目玉の行事になっていた。

 一見意味がわからないこの儀式が幼い私の心を魅了した理由、それこそが深く魔法と関係している。

 その魔法というのは、山を登りトンネルに入る直前まで車窓から見える景色は雪でただ少し冷えただけのコンクリートの一面・・・しかし一度長いトンネルを抜ければ、まだ誰にも手をつけられていない処女雪を着飾った雪景色に世界は姿を変えた。

 この不可思議な現象に驚いた僕が父に尋ねると、父は少し笑いながら「魔法や。魔法」と言った。

 原理も理屈もさっぱりわからなかった幼い頃の僕は父の言葉を信じてこれを魔法と呼んで、この儀式をサンタと同様のものだと認識して毎年の楽しみにしていた。

 しかし少し時が経つとこの儀式は、姉の中学入学、父、母の多忙と様々な要因が重なり、僕が九歳になった頃には忽然と姿を消していた。子供の頃の記憶力とは残酷なもので、どれだけお気に入りのものであっても時間が経つとそれを忘れてしまう。それは僕も例外ではなく、数年間姿を表さなかったその儀式は記憶の中からすっぽりと抜け落ちてしまった。




 さらに時は進んで中学二年の夏。

 雲一つないかんかん照りの太陽の下で部活動に勤しむ最中、一度だけ儀式を思い出したことがある。

 キンキンに冷えたコーラを飲みたい、今すぐクーラーの効いた部屋に飛び込みたい。そんなことを考えている時にあの儀式が頭をよぎったのだ。

 もしかしたら、あの魔法は夏の今でも続いているのではないか、そう中二の僕は考えた。

 でも、サンタはいなかった。あの魔法も何か理屈があったはずだ。流石にありえない。

 足りない頭でそう考えたのだが、昔から特別人よりも暑さに弱かった僕はどうしても夏というものに耐えることができず、部活動の休憩時間、やぶから棒に仲の良かった友人に言った。

「冬、見に行かん?」

 僕のその言葉に友人は最初こそ笑わなかったものの、詳しく事情を話すと、これでもかというほどに腹を抱えて笑っていた。今思い出しても恥ずかしいが、思春期の当時はもっと恥ずかしかった。

「ええよ。早めの冬休みやな」

 恥ずかしさからいてもたってもいられなくなってその場をさろうとした僕の背中越しに友人は言った。

 振り返ると少し僕を小馬鹿にするように友人は笑っていた。

 今思い返すと、どう考えてもあれは恥ずかしがった僕に対する冗談や嘲りのようなものだったと思う。しかしその返事をそのままの形で受けとめた当時の僕は、その返答にとても喜んで集合場所と時間だけを伝え、友人の話も聞かずに部活動の練習へと戻った。話も聞かずに自分の用件だけを伝えて離れていく僕の背中を眺めて友人はあんぐりとしていたらしいが、どこかに出かけるのが好きだった友人は結局僕についてきてくれることになり、この日の部活終わり僕と友人は二人で件のトンネルに向かうことになった。




 部活が終わって、一度家に戻って昼食を急いで食べてから友人と自転車に乗って合流した。時刻は確か午後三時頃だったと思う。

 まだ気温が下がり始める前、眩しい日差しが僕らを焼く。夏が僕達を包み込んだ。

 自転車さえあればどこにでも行けると信じていた僕達は、例のトンネルがある山を見上げて、旺盛に自転車を漕ぎ始めた。

 まだ体も小さかった僕は、十メートル余りの坂道も数十メートルに感じて、ものの数分経つとすぐに息を切らして自転車を漕ぐのを諦めた。それは友人も同じだったようで、自転車を降りながらチラリと後ろ斜めを見ると同じように息を切らす友人の姿が目に入った。降りしきる蝉の時雨を一身に浴びながら、精一杯に体を使って自転車を押して山を登る。数分自転車を押して坂道を登った後、度々後ろを振り返っては歩いてきた道と景色を眺めて、トンネルとの再会をまだかまだかと待ち侘びた。

 

 

 

 小一時間ほど山を登って、友人がまだ着かないのかとうるさくなり始めた頃、僕は少し年季の入った看板を見つけた。


 『長尾山トンネル この先』

 

 そう書かれた看板を見て、疲れ切った身体は活気を取り戻す。

 自転車を押したまま、少し駆け足気味でその看板が指示する方向の坂を登る。人の生活音は無く、自然に住む生き物たちの声だけがあたりに響く。坂を上り切ると、方々に枝や茎を伸ばした緑に囲まれて、ひっそりと、それでいて堂々と待ち構えていたトンネルが、睨みつけるように僕達を見下ろしていた。

 暗く出口が見えないそのトンネルはどこか不気味さを孕み、どこか神々しさも含む独特な雰囲気が漂わせていて、一歩近づいただけでも僕は身震いしたのを覚えている。

 足を止めて正面に立つと、トンネルは強く僕たちを威嚇する。

 最初こそその雰囲気に気圧された僕たちだったが、トンネルから溢れ出るその冬を思い出させるような冷たい空気に引き込まれるように僕達は恐る恐るトンネルににじり寄った。

 側によると、より強く感じるその冷気にブルッと身を震わせた。

 僕たちは互いの顔を一度見合った後、吸い込まれるように自転車を押したままゆっくりとトンネルの中に足を踏み入れた。

 一歩中に入ると外の蒸し暑い空気とは違う冷たい空気が僕たちの肌を撫でた。さらに進むと暗闇が僕たちの視界を占領して、トンネルの中がまるで世界から切り取られた異空間のような気がして止まなかった。蝉の声も気が付けば消え失せて、もの寂しい静けさがトンネルに響いた。

「ちゃんとおる?」

 少しばかりの恐怖心が心に生まれた僕は、ぎゅっとハンドルを強く握りながら友人に声をかけた。

「おるわ。当たり前やん・・・そっちこそちゃんとおるよな?」

「おる。ちゃんとな」

 声をかければやはり友人の明るい声が耳に届いて僕はほっと胸を撫でた。しかし会話が終われば静寂はすぐに追いついてきて、暗闇と一緒に僕を深く包み込んだ。

「向こう側がほんまに冬やったら、何する?」

 静寂の恐怖に耐えかねた僕は再び友人に質問を投げかけた。

 少し考えるそぶりを見せた後にいくつか思いついたと言った友人は、でもまずはと前置きを置いて「写真とるやろ」と言った。

 自分たちが置かれた状況とかけ離れた現代的な返答は、僕の心に漠然とした安心感を与えて夏の暖かさを思い出させた。

「そっちは何するん」

 今度は友人が僕に尋ねた。僕は特に悩む事もなく、友人の方を向いて言った。

「俺は・・・」

「おい、見ろよ。あれ出口や」

 僕が返事を返そうとすると、遠くに見えた出口に差し込む光を指差しながら友人が言葉を遮った。普段ならば「話を聞け」と笑いながら言うところだが、この時の僕はついに訪れた冬との再会の兆しに興奮して、友人と共に歓喜の声を上げた。

「雪!雪見えるか!?」

「よう見えん。白いのは見えるけど雪か光かわからん」

 トンネルを歩いて暗闇にすっかり慣れた僕達の目には、外から差し込む光はあまりにも眩しすぎて外の景色をよく見ることはできなかった。

 隣を見ると友人はすでに自転車にまたがって走り始めていて、僕も後を追うようにペダルを漕いだ。

 出口までの距離は一五〇メートルはあったと思う。

 ただがむしゃらに自転車を漕いだ。

 一回転、二回転、ペダルが回るたびに出口に近づいていくのを目で、耳で、肌で感じた。あんなにも遠い場所だと感じていたあの場所が、もうすぐ目の前にあると思うと僕はいきりたつ感情の念を抑えようともせずに、ただ声にならぬような歓喜の声を叫んだ。

「出口や!」

 友人がそう声を上げたと同時、清涼な風が頬を撫でた。あまりの眩しさに思わず目を瞑る。身を焼くような日差しを肌で感じた。トンネルの中では聞こえなかった蝉時雨が僕達の体を覆った。


「・・・夏や」

 友人が呟いた。

 ブレーキをいっぱいに握りしめながら、僕もすぐに目をひらけた。

「夏や・・・」

 はてしなく、どこまでも続く処女雪を期待した地面は、夏の光を長時間浴びてフライパンのように熱くなったコンクリートが大半を占めていて、先を見つめるとゆらゆらとのぼる陽炎も見えた。

 冬は何処にも見当たらず、ただ夏が広がっていた。

「写真、撮る?」

「・・・一応」

 山を覆い尽くす緑と、少し日が傾き始めた空を見た。不思議と暑さは感じなかった。少しだけ、前に進んだ。心地よい薫風が僕らの汗を冷たく冷やした。綺麗に整備された道路の先をぼんやりと眺めていると一台の乗用車が見えた。僕達は夏の中で顔を見合って笑った。




 昔の思い出を振り返っていると、気が付けば坂を上り切っていた。もうあと少しで家に着く。少し後ろを振り返った。

 あの頃ほどではないが、景色は美しく目に映る。

 結局僕達はあの日、冬を見ることはできなかった。でも、確かにあそこに魔法はあった。果てしない、二度と来ないあの一夏の冒険は僕らの心に魔法をかけて、去っていった。形に残るようなものではなかったけれど、あの感覚を今でも確かに覚えている。

 もしかすると魔法というものは誰でも一度は経験したことがあって、小さい頃の記憶と同じように忘れてしまっているだけなのかもしれない。

 そんな事を考えながら家に着いて玄関の扉を開ける。外の蒸し暑い空気とは違った、少し冷えた空気を感じる。

「ただいま」

「遅かったな。アイス溶けてへん?」

 家で僕の帰りを待っていた友人が部屋からひょっこりと顔を出しながら聞いてきた。「溶けとるかも」そう言いながら手に持っていた袋に目をやる。

 ほんのりと冷えたビニールの中を上から覗く。溶けずに冷たいままのアイスが二つ、平然とそこに佇んでいる。

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