006 橘兵衛

 橘が目を覚ましたのは、病院の個室のベッドの上だった。

 体中の痛みと、グルグルに巻かれた包帯のせいであれが夢ではなかったことをまざまざと思い知らされた。

 しかし痛み以外の彼の五感には奇妙に現実味がなかった。医者から何を聞いても周囲の何を見ても薄皮二枚ほどはさんだように感じられ、全てが他人事にしか思えなかった。

――残念ですが――

 目の前の医者の口が金魚のようにパクパク動いて、何かをしゃべっている。

――奥さんとお子さんは、助かりませんでした――

 タスカリマセンデシタ。

 そんなことはとうにわかっていた。とうの昔に。あの夜に。


 橘が目覚めてから一週間後、あのときの男女が彼の病室を訪れた。二人ともあの日と同じ黒のスーツに身をつつんでいた。

 男は短髪で、刑事だと言われても信じてしまうほど鋭い目つきを持っていた。女はストレートの黒髪をショートボブにして細いフレームの眼鏡をかけている。

 あらためて間近で見ると、二人とも荒事には似つかわしくないととのった顔立ちをしていた。それぞれの顔の作りに似ている部分はなかったが、二人の放つ空気には共通のにおいが感じられた。

 男は八十神やそがみ響也きょうやと名乗り、女は間堂まどう桐子キリコと名乗った。

 だが今の橘にとって、他人の名前は意味を持たない単なる音の羅列でしかなかった。聞き終わった次の瞬間にはもう、橘の頭の中からその音はあとかたも残さず飛び去っていた。

 女はあのときの非礼をわび、男は人狼を取り逃がしてしまったことをわびた。

 橘の身体からだの状態などの当たりさわりのない会話が終わったとき、女が病室の扉に内側から鍵をかけた。

「ここから先は、他言無用でお願いします」と、女が表情を変えずに言った。

 橘がうなずくのを待つと、彼女は立ったままゆっくりと語り始めた。

 彼女の話によれば、彼らは厚労省内部の「ある組織」の係官であるという。組織については詳しく話せないものの、妖魔や魍魎もうりょう専門の駆逐くちく部隊だという。

 橘も以前からそういった組織があるといううわさは耳にしていたが、どうせ都市伝説だろうと思っていた。それが実在した。だが橘にはそれになんの感慨もいだけなかった。だからどうしたというのだ。何もかもがもうどうでもよかった。

 その組織が長らく追っていた人狼が、あの日たまたま橘の家の近くに逃げ込んだという情報を得て、二人はそれを捜索していたのだという。彼らが橘の家に入ってきたのは、橘と人狼との争う物音が聞こえたからだった。

――ヤツは、必ず我々の手で処理します――

 男が橘に向かって深く一礼した。女も一拍遅れて深々と腰を折った。

 橘はその動作を目にしても一切なんの感情も示せなかった。

 礼を終えると、女は黙ったまま橘の方をしばらくながめていた。

――それから――

 女は一瞬そう言いかけ、眉根をよせるとまた黙りこんだ。

 彼女が初めて見せた人間らしい表情だった。

 やがて女が意を決したように、再び口を開いた。

――あなたには二つの選択肢があります

 橘がぼんやりとした頭のままでうなずく。

――ひとつは、この事件について、文字通り「忘れる」こと――

――忘れる――?

――はい。我々の組織には人の記憶を一部だけ消去できる技術を持った係官がいます――

――消去――?

――はい。その技術を使って、この事件の記憶をまるごと消すことが可能です――

――事件の――?

――ええ。もしお望みでしたら、奥さんとの出会いからあの夜の間までの、奥さんの記憶を消すことも――

 橘の内部で、何かがブツンと音を立てた。

 次の瞬間、周囲の音、光、におい、触感の情報が、激しい流れとなって一気に橘の中になだれ込んだ。

 妻との記憶を消す、だと?

 視界の中の景色が目まぐるしくグルグルと回った。気を失いそうになるほどの衝撃が、橘の脳天からつま先までをくまなくガンガンと打ちながら駆けぬけた。

――いや、だ

 それだけは絶対に。

――え?――

――嫌だ

 いやだイヤダ嫌だイヤダいやだイヤダァァァ――。

 ここが病院であることも忘れ、われ知らず橘は叫び出していた。両のほほを熱い何かがとめどなく流れては落ちた。橘は大声で叫びながらだだっ子のように首を振り続けた。

 いつのまにか男が橘の両肩をがっしりとつかみ、静かにゆすっていた。

 男の顔には、一言では言い表せない複雑な表情が浮かんでいた。

 彼の手に込められた力加減の意外な優しさが、橘の心に少しずつ冷静さを取りもどさせた。やがて潮が引いていくように、橘の叫び声が止んだ。

 男がゆっくり橘から手を離す。

――殺す――

 それまで思いつきもしなかった言葉が、橘の口をついてこぼれた。

――殺す。あいつは俺が必ず殺す。殺してやる――

 口に出してみると、ずいぶん前からそれが本心だっかのように、その言葉はゆっくりと橘の心にしみ込んでいった。

 出しぬけに、コンコン、と病室の扉をノックする音が聞こえた。女が中からかけていたロックをはずす。

 静かにドアを開け、黒縁眼鏡の長身の男がゆっくりと入ってきた。二人によく似た雰囲気の、黒いスーツの男だった。

 男は自己紹介もそこそこに、自分は橘に「ふたつ目の選択肢」を持ってきたのだ、と告げた。

 それが橘と賀茂室長との、初めての出会いだった。


 退院した後、ほどなくして橘は警察をやめた。

 元の上司は「ゆっくり休んでから次を考えろ」と言ってくれたが、休むつもりなどみじんもなかった。

 病院で賀茂からスカウト話を聞いた橘は、少し悩んだあとでその提案に乗ることにした。妻のかたきを討つには、個人で動くより組織の力を利用したほうがてっとり早いと判断したからだ。

 未経験者なら通常六ヶ月はかかる研修期間を橘は三ヶ月で突破した。元刑事だということで法律や体術の教科を飛ばせるとは言え、組織の歴史の中でも異例の速さだった。

 彼が武器に選んだのは警官時代とは異なる自動拳銃オートマチックだった。モデルはグロックG43Xのブラックを選んだ。隠匿携帯コンシールドキャリーに向いた横二十八ミリという薄さと、制圧力にたけた九ミリの弾丸が十発入るところが気に入った。弾頭を特殊清祓せいばつすることで種別Hヒューマンの霊障犯罪者のみならず種別Mモンスター種別Pファントムの一部も制圧可能になる。役立たずの警棒を持つのはめ、小型のコンバットナイフに切りかえた。こちらの刀身も特殊清祓済だ。

 現場配置後の彼の成果も目ざましかった。配置開始から一年間でL2・L3クラス種別Mモンスター犯罪者を二桁も狩った。これも組織の歴史では異例のことだった。

 彼は業務の合間をぬって、妻のかたきである人狼の捜査を続けていた。八十神とも個人的に連絡を取り合い、情報を共有しながら進めてきたが、あの日以来銀毛の人狼はぷっつりと姿を消し、その所在はようとしてつかめなかった。

 配属二年目には、彼はもうL1級の妖魔を単独でしとめられるだけの技量を身につけていた。誰もが彼を、次世代のエース級係官になるものと信じた。

 そんなある日、組織専用の暗号化通信アプリにイギリスにいる八十神からメッセージが届いた。

――例の銀狼の手がかりをつかめそうだ。奴はヨーロッパに渡ったらしい。詳細は落ちついたらまた連絡する――

 橘の胸は高鳴った。これでヤツの手がかりが手に入る。ヤツをしとめるチャンスがくる。絶対に許すわけにはいかないかたきだ。必ず見つけ出し、この手でヤツを殺す。

 しかし、その次に橘に届いたのは、八十神と間堂がバチカンとの共同作戦中に行方不明になったというしらせだった。

 橘は心底落胆した。これまでの調査の糸口は二人に大きく依存していた。彼らが行方不明になるという事は、彼にとっては致命的な打撃だった。

 個人でヨーロッパに渡ることも考えたが、ヨーロッパという広大な領域に散らばる手がかりをひとりで追いかけるのは困難だと悟り、あきらめるしかなかった。

 そこから、しだいに橘の中で何かが壊れていった。

 妻の妊娠と共にひかえていた煙草に手をのばした。妻の死以来遠ざけていた酒をふたたび飲み始め、さらに日を追うごとに酒の量が増えていった。

 そのころから橘の夢には妻が時々あらわれるようになった。

 夢の中の妻は何も言わずに、ただ悲しげな表情で橘を見つめるだけだったが、その瞳はいまだにかたきを討てない橘のふがいなさを責めているように映った。

 懺悔ざんげと後悔の思いが、橘の心におりのように溜まっていった。

 ただ、仕事の中にいるときだけは一時的にその感情から逃れることができた。

 だから彼はますます仕事に没頭していった。

 妖魔や魍魎もうりょうを殺す。その一念だけが彼を突き動かしていた。それこそが彼の生きる原動力の全てであった。

 仕事の成果はそれまで以上に出ていたが、当時の相棒バディ迫田さこたは橘の生活の変化に気づいて何かにつけ彼のことを心配していた。

 迫田は身体は大きく顔はごつい岩のようだったが、折にふれて細かな気配りを見せる男だった。

 彼は妻帯者だった。たまに橘も彼の家に招かれ、一緒に夕飯をごちそうになることもあった。迫田夫妻は橘に対して過度な干渉はしなかったが、ほどよいあたたかさで「いつかは再婚を考えてもいいんじゃないかな」とすすめてくれていた。

 迫田はどんな時でも慎重で用意周到な男だった。作戦行動中、彼の携帯していた救急キットや携行食などによって、橘も何度か命を救われたことがあった。

 しかしある日、迫田は仕事帰りに地下の歩行者横断道で刺し殺された。明らかな闇討ちだった。迫田の過去の仕事に恨みを抱いている者の犯行と推測されたが、結局犯人は今にいたっても見つかっていない。その事件は橘の心にもう一つの深い傷あとを残した。

 それ以来、橘はだんだん一人での行動を好むようになっていった。

 しかし執行係官は安全上の理由から、捜査と制圧行動を常に二人一組ツーマンセルで行うことを規定している。彼の独断専行とも思える強引な行動がエスカレートするにつれ、仲間からの不満もじわじわと高まっていった。

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