005 銀狼

 たちばな兵衛ひょうえは迷っていた。

――君に、新しく編成されるチームの担当官を引き受けてもらいたい――

 賀茂室長からそう告げられたのは、十日前のことだった。

 タクシーの窓から、ぼんやりと外をながめる。

 十一月の長野の山々は、美しい紅葉こうようで彩られていた。赤や黄色、オレンジの葉が、森の中に魔法のような色彩を広げている。

――少しだけ、考える時間をいただけませんか――

 その内示を、かるがるしく受ける気にはなれなかった。詳細な任務の内容を聞けば聞くほど、橘の心にはほの暗い疑念がシミのように広がっていった。

 年端としはも行かぬ子供たちをひきいて関東最大の怨霊に立ち向かうという夢想じみた計画。果たしてそんなことが本当に可能なのだろうか?

 考える時間を欲した理由はもうひとつあった。橘は執行係官としては一線の現役だった。身体からだはどうあれ、自分ではまだ一線の現役の気概きがいがあると信じている。

 橘は座席の横に立てかけた一本の松葉杖に目をやった。ここ半月はんつきほどの彼の相棒だ。

 橘がこの仕事についてから、早いものでもう五年がたつ。

 それ以前の彼は埼玉県警の刑事課に所属し、日夜街をさまよい犯罪者を追いつめていた。明けても仕事、暮れても仕事。それが彼の日常の全てだった。

 転機が訪れたのは妻との出会いからだった。彼女は同じ署内の交通課に勤めていた。男女の機微にうとい無骨な橘の心を彼女の優しさが徐々につつみ込み、最終的に二人は結婚にいたった。

――ひょうくんは、もっと笑わないとだめなんだよ。そんなんじゃ、生まれてくる子供にも怖がられちゃうよ?

 記憶の中の妻が、目立ってきたおなかをさすりながらほほえむ。

 橘はいかにも無理やりといった感じの笑顔を作る。

――こうか?

――ダメだよ、ぜーんぜんっダメ。もっとこう、にぱぁーって感じで――

 妻の幻影が、橘の両ほほをつまんで外側にぎゅうっと引っ張る。

 短い妄想から現実に戻ると、急なむなしさが彼を襲った。

 彼女はもうこの世にはいない。そのやわらかなぬくもりは、彼の前から永遠に失われてしまった。

 残された者の喪失感は、時間がたてばきっとえる。

 そんなふうにたくさんの人から言われたが、あれから六年たってもその喪失感は少しも埋まらなかった。多分一生、埋まらないのだろう。


 あれは六年前、六月のある日だった。小雨こさめが静かに降り続いていた。

 妻のおなかに新しい生命が宿ってからは、できるだけ早く帰宅するよう心がけていたが、その日は逮捕した被疑者の調書をまとめるのに時間を取られ、帰宅が深夜になった。

――今日はもう、たぶん寝ているだろうな――

 彼はできるだけ音を立てないように、そっと玄関のドアを開けた。

 最初に異変を感じたのは鼻からだった。動物園か牛舎にでも足を踏み入れたかのような、獣臭けものくさが家の中にただよっていた。続けて金属のようなにおいも鼻をついた。仕事がら慣れ親しんだそれは、まぎれもなく人間の血のにおいだった。

――フシュル――フシュルル――

 台所からは荒い息づかいの混じった、低いうなり声が聞こえてくる。

 最悪の光景が頭をよぎった。

――どうか無事でいてくれ――

 それだけを、ただそれだけをせつに願った。

 台所の引き戸を開けると、残酷な現実が目の前に広がっていた。

 妻の身体には、大きな生き物がおおいかぶさっていた。

 初め、橘にはそれが熊であるように思えたが、すぐに間違いであることに気付いた。その体つきは熊とは全く異なり、まるで人間の身体を縮尺だけ変えて巨大にしたかのようだった。

 その動物の身体は短く逆立つ銀色の体毛に覆われ、その顔は鼻から口にかけて細長く伸びていた。

 妻の腹は無惨むざんにも切り裂かれていた。腹の中からは内臓と、橘の子供だったものがはみ出していた。

 妻の腹に頭を突っ込んでいたが、橘の方にのっそりと顔を向けた。たくさんの牙が並ぶ大きな口の周りは、鮮血でどろどろに汚れていた。

 それを見た瞬間、頭に血が上った。

――うぐるらあああああぁーっ――

 自分でも何かよくわからない言葉を叫びながら、橘は腰の特殊警棒を抜き、そいつに向かって突進した。

 フォームも何もなく警棒をやみくもに振り上げ、力任せに殴りつける。

 ガキン、という音だけを残して警棒が宙を舞った。

 まるで巨大な鉄のかたまりでも殴ったかのような衝撃が、右手を通り抜け脳天に走った。右手が、痛みとしびれでまるで言うことを聞かない。

 次の瞬間、そいつが橘に向かって左手をブン、と振った。一見軽く振ったように見えたそのフックが、橘の身体を軽々と吹き飛ばした。橘は引き戸を二枚ぶち破り、廊下の壁に激突した。

――げふっ――

 口から血痰けったんが出た。肋骨ろっこつが何本か折れた感触が伝わる。内臓にもダメージを負ったかもしれない。

 身体が全く動かなかった。痛みだけが原因ではなかった。完全に、相手の圧倒的な力に、身体と意識がのまれていた。

――フシュルル――

 やがてそいつの生臭い息が、顔の前に迫ってきた。銀色の毛並みの一本一本まではっきりと視認できる距離だ。

 突然、子供の頃に見た絵本の挿絵さしえのイメージが、橘の頭の中でそいつとつながった。

――おおかみおとこ人狼じんろう――?

 眼前がんぜんの存在が童話や小説の中で見かける空想の産物であることに気づき、橘は安堵あんどした。

――ああ、これはきっと夢だ。悪い夢なんだ。目が覚めれば元の生活に戻り、いつもの妻の笑顔にも会える――

 突然、バアンという音と共に、玄関の扉がり破られた。

 家に飛び込んで来たのは、黒スーツに身を包んだ男女の二人組だった。

 女は素早く拳銃を取り出し、怪物に向けて構えた。

 男は腰に差した刀のつかに片手を添えている。

 女が銃と反対側の手を使って小さな紙片をふところから取り出し、顔の前でシュシュッと軽く振った。

――抜刀ばっとう長野ナガノ――

 女のつぶやきと同時に、紙片はめらめらと青い炎を上げ一瞬で燃え尽きた。炎からもれた光の粒子が男の方に流れ、体をつつみ込む。

 男が腰の刀のつかを軽くにぎった、と思った次の瞬間、人狼の左の手首がごろり、と床に転がった。

 一瞬遅れて血しぶきが舞う。

――グォオオァーッ

 人狼の悲鳴が闇夜やみよに響き渡る。

 居合斬いあいぎりだった。刀をさやから一気に抜き放ち、その勢いのまま相手に一撃を与える技だ。その一連の動きは、剣道でつちかった橘の動体視力を持ってしても、ぎりぎりその一部がとらえられるかどうかの速さだった。

 刀の切っ先が描く放物線めいた軌跡は、刹那的せつなてきなまでに美しかった。刃が肉をつらぬき鮮血が噴き上げるまでの一瞬が、橘の目にはまるで異次元の出来事のように映った。

 橘は今の自分の状況も忘れて、ただその剣技に見ほれていた。

 左手を失った人狼が、手首から血を流しながら激しく荒れ狂い始める。

 テーブルがひっくり返り食器棚が倒れ、おそろいのマグカップが粉々に割れた。

 橘のそばに子供用の小さなプラコップが転がってきた。コップには熊のキャラクターがプリントされている。「まだ気が早いわよ」と妻に笑われながら橘が選んだものだ。橘の鼻の奥で、熱くて塩っぱい何かがあふれた。

――ううっ――――ううぅぅえっ――

 どこか遠くから嗚咽おえつの声が響いてくる。しばらくの間、橘はその声が自分自身からもれていることに気づかなかった。

 床についた手が生暖かいものでぬれている。手のひらを上げてみると赤黒く染まっていた。床には血だまりができている。どこからか出血しているようだ。壁を背にして尻もちをついていた橘の上半身がずるずると床のほうにかたむいていく。

――抜刀ばっとう伊庭イバ――

 女の声がした。紙片から放たれた青い光が再び男をつつんだ。

 男は今度は、刀を抜いて正眼せいがんに構えた。

――はあぁぁっ!――

 裂帛れっぱくの気合と共に男は勢いよく前へと踏み込み、一瞬で人狼との距離を縮めた。縮地しゅくちと呼ばれる技法だった。正眼の構えから瞬時の迷いもなく人狼に向けて刀を振り下ろす。

 しかし人狼は、今までと打って変わった俊敏しゅんびんさを見せて、その攻撃を皮一枚で回避した。

 次の一撃を放とうと身構えた男の前に、あろうことか人狼は橘の妻の身体を投げてよこした。

 男が投げられた身体をかわすため、半歩右へと動く。

 ガシャアアン、とガラスが割れる音が響き渡り、人狼は割れた窓から外へとおどり出ていった。

――ヤツは俺が追う――

 男がそう言い捨て、破れた窓の方へ向かおうとしたが、女の方が彼を止めた。

――待って。今のあなたじゃ私のサポートがないと――

――じゃあ、君も一緒に来い――

――無理よ。この人、まだ生きてる。応急手当と救急車を――

――放っておけばいい。そのうち死ぬ――

 パシン、とほほを叩く音が響いた。橘がのろのろとそちらに目を上げると、女が右手を振り上げているのが視界に入った。

 左頬を押さえている男から、殺気のような何かが急速に去っていくのを感じた気がした。女は携帯を取り出すと、どこかに連絡を取り始めた。

 橘の意識はそこで途切れた――。

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