第9話 あなたは私の敵になる

 次の日、あかねは上機嫌で廊下を歩いていた。


 一つはまだ試作中だが、一定の目処がついたことで、肩の力がいい感じに抜けてきた。少しずつだが、大きなプロジェクトは動き始めている。まだ細かい仕事は無数にあるだろうが、それはおいおい片付けていけばいい話だった。


 その時、茜の思考を、後ろから響いてくる足音が遮った。


「茜様。あの……庭にどなたかいらっしゃるようなのですが、お通ししてもよろしいですか?」


 不安げな顔でメイドが聞いてくる。茜は回廊の窓から外を見やった。


 確かに、誰かが庭でぽつんと立ちつくしていた。父の仕事相手で、取り残されてしまったのだろうか。それとも、間違って入りこんでしまったのだろうか。茜にはさっぱり分からなかった。


「ご存じないのですか? 受付が通してしまったのかしら」

「詳しいことも聞かずに通すなんて、受付がそんな気の利かないことをするはずがないけど……分かった、私がそれとなく話を聞いてみるわ」


 そう言われて、メイドはようやくほっとした顔を見せた。


 茜は庭園に降りていく。唐突に神月家の庭に現れたのは、上品な緑色の着物をまとった女性だった。髪は金髪で青い目、外国人なのは間違いない。しかし、茜はその顔に見覚えがない。美人ではあったが、何を考えているか分からない底知れなさがあった。


「……父のお客様でしょうか? 私は徳三とくぞうの娘で、茜と申します」

「いえ、あなたを探しておりました。お初にお目にかかります」


 その声音を聞いた瞬間、茜は思った。──西園寺さいおんじに似ていると。


「ここのところ、ずいぶんわたると親しくしていただいているようで。どうも、ありがとうございます」

「ということは……」

「申し遅れました。私は西園寺千春さいおんじ ちはる、渉の母でございます」


 丁寧に挨拶されたことに頭を下げながら、茜は想像が当たっていたことに驚いていた。西園寺の仕事に実家は関わらないと聞いていたが、それならなぜ母親がここにいるのか。


「あなたにどうしてもお伝えしたいことがありましたので、渉の身内と言って中に入れていただきました。もう少し待つつもりだったのですが、早くお会いできて良かった」


 そう言って女性は顔を硬くした。


「確認しますが、あなたが渉の事業を手伝っているというのは本当ですか?」

「はい」

「強引に乗り込んで、渉が断れなかったのでは?」

「それは違います。きちんと二人で話し合って決めたことです」


 茜は苛々してきた。西園寺とはうまくやっているつもりなのに、この女は何が気に入らないのかと眉をすがめる。正直、茜が一番苦手なタイプだった。


「あなたが国外の事情に詳しい、というところまで疑っているわけではございません。今まではあの子も不満を言っていないようですし。ですが、ビジネスを本格的に指揮して動かすとなると、向いていないように思えるのです」


 ずっと監視していたことを千春は案に示す。まだ沈黙する茜に向かって、千春はさらに言った。


「あなたの仕事は、全てお父様やお兄様から回ってきたもの。あなたのためにと、甘すぎる庇護者たちが選んで回してきたもの。そんなひどい状態で、一から立ち上げる難しい事業に参加できると? そぐわないとは思いませんか?」


 痛いところをつかれて、茜の胸が一瞬ざわついた。後ろに身を引きそうになって、あわてて思いとどまる。


「私は器の小さなあなたを止めるために来たのです。何もできないまま終わって、あの子の心に失敗経験が残るようであれば……それは将来の大きな妨げとなります。それをただ見ているだけというのは、母親としては本当に忍びないもの。分かっていただけますね?」


 茜は沈黙し、考えた。誤解だと弁明することは無意味、この女は茜を非力な女と判断し、計画からはじき出すつもりだ。そう言われて茜が傷つくことを理解した上で、正面からずけずけと物を言っている。


 見た目はおしとやかな女性だが、獰猛な獣を相手にしているような気がしてきた。 西園寺のまわりにこんな火種が隠れているとは思っていなかった茜は、唇を噛む。


 未熟なところがあるのは否定しない。仕事は神月こうづき家関連のものだし、最終決定にはいずれも父か兄の許可がいることも事実だ。


 懸命にやってはいるつもりだが、茜がいない方が西園寺が助かるとしたら。その可能性があるなら、ここは身を引くべきではないのか。


 そう思った茜の脳裏に、西園寺と高峯たかみねの笑顔が浮かんだ。落ち着いて息を吐くと、思考がまとまってくる。


 さっきのは根拠もなにもない、危険な考えだ。するなら、西園寺はきちんと正面から引導を渡してくれるはず。それをいくら母親とはいえ、この女がやっていいわけがない。


 茜は猛烈に腹立たしくなってきた。怒鳴ってやりたいのを我慢して、代わりに長く息を吐く。しばしにらみ会ってから口を開いた。


「……千春様。残念ですが、私が退任するかどうかは責任者であるご子息が決めること。お母様とはいえ独断で動かれるとは、少々過保護かと思われますが」

「それが答え?」


 押し黙っていた茜が言い返すと、初めて千春の顔から少し余裕がなくなった。


「西園寺様からきちんとした説明があれば、自身の身の振り方を考えます。ほとんどなんの説明もないまま辞めろと言われても、お断りするしかありません」

「……どうしても、ですか?」

「どうしてもです。聞こえませんでしたか? それしか話がないのでしたら、お帰りください」


 茜はあえて満面の笑みを浮かべ、落ち着いて答えた。内心では、この女とは話が通じない、決定的にわかり合えない、と思いながら。


「忠告のつもりでしたが──邪推されて、警察でも呼ばれてはかないませんものね。今日のところは帰ります」


 やや語気を強くして、千春は茜に背を向ける。


 その背中が小さくなるまで見送って、茜はようやく息を吐いた。切羽詰まった事態だったが、なんとか一人で切り抜けた。


「……大丈夫ですか、茜様……?」

「ええ、ありがとう」


 追おうとしたが、茜は自分を押しとどめた。追いかけてきて気遣ってくれるメイドに礼を言ってから、警備の者に連絡を取り、女の動向を追うよう指示する。


「あの過保護な母親、どこまで見越しているの……?」


 視線に混じっていた毒を浴びせられたようで、茜は身震いした。大人しくしていたら、千春は何をしてくるか分からない。


「逃げるつもりは、最初からないわよ……!」


 戦うために必要なのは情報だ。茜は千春の周囲を、徹底的に探ってやると決めた。




 神月家を後にしてしばらくのこと。傍らに控えていた護衛が、車中の人となった千春に耳打ちしてきた。


「つけられている? ああ、放っておきなさい。どうせ、西園寺を騙っていないか確かめに来ただけだろうから」


 車は西園寺家に向かっていた。追跡されたところで、千春には痛くも痒くもない。


 油断しているところをついたからか、初対面はそれなりにうまくいった。渉が抜擢したからどの程度の女かと思ったが、安い挑発に乗って感情をむき出しにしてくれた。


 千春がわざと感情的にみせて帰ったことなど、茜は分かっていないだろう。


「あなたが恐れていることが、これから次々起こるわよ。坂を転がり落ちるようなこの事態に、いつまで耐えられるかしらね?」


 茜がもう一つ大事なことに気付かなかったのを、千春は見抜いていた。それに気付かない限り、よほど注意を怠らなければこちらの負けはない。


 素直に聞けばいいものを、詭弁を持ち出して逃れようとした。束ねる度量も持たないくせに、美味しいところだけ持っていこうとした。──千春には、茜がすでにいまいましいものとしかうつっていない。


「許さないわよ、生意気な年増が」


 千春のつぶやきが、車内に低く響いた。その冷たさに狼狽した運転手が、思わずハンドルを握り直すほど、それは容赦のない声だった。




 仕事を終えて帰ってきた茜は、普段着に着替えるとすぐにベッドに寝転がった。ひどい身なりだと自分でも思うが、今は構っている余裕がない。


「あー……苛々する……」


 まだ問題が解決していないのだ。千春が今度攻めてきたらどうするか、という肝心の迎撃策が見つかっていない。警備には通さないよう言ってあるが、自宅を離れたらどこから湧いてくるか知れたものではなかった。


「……冷静に考えれば、邪魔にかかったってあの女に大した利益はないんだけどね」


 合理的とかそういう次元ではない、女と女の意地のぶつかり合いになってしまっていることを嘆きながら、茜はゴロゴロと寝返りをうった。


「お嬢様? どこか、お加減が悪いのですか?」


 植草うえくさが声をかけてきた。茜がそれに曖昧な返事をしていると、今度は蒲田かわたが様子を見に来る。


 茜は蒲田に、千春とのやりとりの全てを語った。


「そんなことがあったのですか……それは、申し訳ありませんでした」


 詳細を知ってうめき声をもらす蒲田に、茜は無理をして笑う。重い空気を切り裂くように手を振ってみせた。


「蒲田や警備の人の手落ちじゃないわよ。だから、叱ったりしないでね」

「しかし……」

「本物だったんでしょ? あの車」


 茜はすでに、車が堂々と西園寺家に入っていったという報告を受けている。少なくとも、真っ赤な偽物という可能性は激減していた。


「調べてもらってた、西園寺千春についての詳細は分かった?」


 それを聞いて、蒲田は胸元から手帳を取りだし、目を落とした。


「通りいっぺんのことは、一応。千春というのは帰化してついた名前なので、もとはフランスの女性です。西園寺様のお父様が日本人で、向こうで仕事をしているうちに親しくなられたとか」


 蒲田はページをめくりながら続ける。


「始めは後ろ盾もない状態でしたが、人心を束ね部下からの信頼も厚い。今では結婚に反対していた大刀自も、彼女に一目置いていると聞きます」


 茜は、千春の姿を思い浮かべた。そんなに逸材には見えなかったが、彼女には別の顔があるらしい。


「千春様には三名のお子様がいらして、渉様はその長男にあたられます。ちなみに子連れ再婚でしたので、渉様は前の旦那様とのお子さんですね。下二人は日本人とのハーフなので、もう少し日本人寄りの外見をされていて、渉様とは似ていないようです」


 西園寺が明らかに日本人離れした顔をしていると思ったら、そういう事情があったのかと茜は納得した。


「今分かっているのはそのくらいですね。向こうもガードが堅くて、疑わしい噂くらいしか集まりませんので」


 色々知人に聞いているところだからもう少しお待ちを、という蒲田に茜はうなずいた。内心ではかなり焦っていたが、それを蒲田にぶつけるのは違うと分かっていたのだ。


 しかし、蒲田は全てを見透かしたように薄く笑う。


「気にしても仕方ありませんよ。とりあえず、今は茜様にはやるべきことがおありでしょう?」


 茜は自分の無様なありさまを見た。苛立っているのは、臆病さの裏返しだ。それを責めるでもなく、蒲田は穏やかに言ってくれる。


「……仕事が残ってるわね」

「そうです。相手は茜様の気力を削ぐために意地悪を言っているのですから、乗ってやる必要などありませんよ。一時的にショックを受けるのは仕方の無いことですが、ずっと疑っていいことは一つもありません。茜様は、ちゃんと自分の力で居場所を築いていらっしゃるのですから」


 蒲田にそう言われ、茜の心の中はすっと凪いだ。自然と深呼吸が始まり、だるかった体にも活力が戻ってくる。


「蒲田は私を信じてくれる?」

「もちろんでございます。明日も気をつけて行ってらっしゃいませ」


 茜が気持ちよく会社に行くよう仕向ける手段は、かなり手慣れている。人の感情を動かす力を正しく使うとこうなるのだな、と茜は感心した。




 翌日、茜は人々が散らばっていくエレベーターホールで西園寺と出くわした。


「おはよう……」

「おはようございます、神月さん。ベアトリーチェさんから、プレゼン来週末でどうかっていう提案がありましたよ」


 挨拶に不自然なところはない。周囲の人が姿を消したのを確認してから、茜はおそるおそる聞いてみた。


「そのプレゼン……私も、行っていいのよね?」

「もちろんじゃないですか。今更ダメなんて言ったって、絶対に神月さんは納得しないでしょう」

「そ、そうね」


 西園寺の様子はいつも通りだった。つまり、千春が神月家を強襲したことは知らないのだろう。


「そういえば、もうすぐ母の日ね。お母様には何かさしあげるの?」


 茜は千春の情報を収集するため、さりげなく話題を変えてみた。


「母はバラが好きなので、毎年出身地であるフランス原産の品種を贈っていますよ。そのほかはまあ、年に応じてですね」


 フランスにも母の日はあるが、日本と違ってカーネーションを贈る、とかいう決まった風習はないのだそうだ。西園寺は最近はほとんど、食べれば消えるケーキなどを贈るという。


「そう。ゆかりの地のものっていうのはいいアイデアよね。……で、お母様はどういう反応を?」

「とても喜んでくれますよ。母はぱっと見は冷たく見えるんですが、とても温厚な人ですから。神月さんとも気が合うと思います」


 何かを思い出して西園寺は笑っていたが、茜はそれどころではなかった。合うわけないだろ、という内心の叫びが届いていなくて本当によかったと思う。


 やや引っかかりを感じながらも、茜は話を続けた。


「それで、当日のことなんですが。ベアトリーチェさんのオフィスへお菓子を持って行くので、少し早めに向かう予定にしようと思っていて」

「いいわね。誰か一緒に来るの?」

「茜さんの他にはうちの運転手が来るだけですけど、何かありますか」

「い、いえね。今は不審者が有名人を襲ったりする事件もあるじゃない? 杞憂かもしれないけど、その運転手以外には具体的な予定を言わない方がいいと思うの」


 会場に千春が紛れこむような事態だけは避けたい茜は、いつも以上に必死になって西園寺に言い訳をした。狼狽しているのを悟られないかと思うと、背中に嫌な汗がわいてくる。


「そうですね、大使に何かあっては大変です。同行する者にも、口止めをお願いしておきましょう」


 西園寺が気にした様子がないので、茜は心底ほっとした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る