第6話 行きは酔い良い、帰りは怖い

 一橋ひとつばしとの会食から数日、あかねはスマホを手元から離せなかった。あれが全て仕組まれたことで、不穏な陸斗りくとから連絡があるのではと少々怯えていたが……結局何もなかった。


「……お兄様の差し金じゃなかったってこと?」


 茜は少しほっとし、次の週末にようやく警戒を解いた。心置きなく西園寺さいおんじに会えると分かれば、やっておきたいことがある。


「足先を冷やすのは良くありませんよ。うら若い女性が」


 植草うえくさが苦い顔で言うのにも構わず、茜はサンダルに素足で部屋を飛び出した。目指すのは、高峯たかみねの働く厨房だ。


「お嬢様、また会食のご予定ですか? 日取りはいつに?」


 幸い、高峯はそこにいた。フォンドボーの味を見ていた彼は、茜の姿を見てとって顔をあげる。


「それはまだ決まってないんだけど、この前ね……」


 茜からブランデー羊羹の話を聞いた高峯は、目を輝かせた。


「洋酒と和菓子ですか。面白い組み合わせですね」


 奇妙な顔をされるかと思ったが、そこはやはり茜と違って料理の知識があるからだろう、高峯の反応は実に柔軟だった。


「こちらでも作ってみてくれないかしら。もちろん、素材は栗や羊羹でなくても構わないから」

「それならあれもこれもアレンジで作れる……いやあ、腕が鳴ります」


 高峯はうきうきと、厨房の隅からノートを出してきて何やら書き付け始めた。この調子なら任せておいても大丈夫、と判断した茜は部屋に戻る。


『新しい和菓子のアイデアがあるから、うちでまた試食会やらない? 都合のいい日を教えてね』


 西園寺にメッセージを送り、その返事を待っている時だった。違う相手からの連絡があることに気づき、茜は目をすがめる。


『この前は傘をありがとう。おかげで濡れずに辿り着けたよ。いつ返せばいいかな?』


 一橋からだった。メッセージの下に傘の写真がくっついている。


『別に急ぎませんので、ご都合の良いときにどうぞ。兄に渡してくださっても構いませんよ』


 一橋に返信してから画面を見直すと、西園寺からメッセージが来ていた。ぜひ試食会に参加したいとのことだったので、茜は日付確認の返事を送る。すぐに反応があった。


『大丈夫、その日は空いています。できれば高峯さんとお会いして、話がしたいんですが……お兄様は……』


 文字にしなかった無言の中に、西園寺の感情の全てがある気がした。陸斗がトラウマになっている現状に茜は舌打ちしつつ、メッセージを返す。


『安心して。お父様もお兄様も不在よ』

『分かりました。では、当日楽しみにお伺いします』


 これで一つ用はすんだ。茜は、一橋の画面を開いてみる。


『陸斗とはちょっと……また、適当な時に返しに行くよ』


 茜はメッセージを読んで、眉をひそめた。


 どうしてかは不思議でならなかったが、一橋のメッセージからは何か恐怖のようなものが漂ってくる気もした。西園寺の件と合わせて、これでもう二回目だ。


「……あの兄、一回私がシメとかないとダメじゃない?」


 背後にいた植草がおののくような低い声で、茜は呪詛の言葉をつぶやいていた。




「前回に続き、お招きありがとうございます」


 西園寺は無事に、約束の日時に神月こうづき邸にやってきた。それでも若干おずおずしているように見えるのは、前回のトラウマか──カーテンの中のことを思い出しているからか。茜は一瞬ひやりとして、無理矢理手を取って彼を食堂に押し込んだ。


「いらっしゃいませ、西園寺様。また腕を振るう機会を与えていただき、ありがとうございました」


 高峯が食堂に入ってきた。彼は西園寺に笑みを向ける。


「そんな、こちらこそお礼を言わなければ。今回も是非、お話ししてみたかったんです」


 ようやく西園寺の声が弾んだので、茜はほっとした。


 高峯の後ろから、メイドがワゴンを運んでくる。それには銀の覆いがかけられた皿が二つ乗せられ、仰々しい雰囲気を放っていた。


「では、本日のお菓子です。二種類ご用意いたしましたので、どうぞお楽しみください」


 西園寺が希望と期待の視線を向ける中、一つ目の覆いが開けられた。入っていたのは、丸い形をした練り切りだ。


「これは見れば分かるわよ。ブドウがモチーフね。ってことはワインが入ってるの?」


 たった今、房から切り落としたような鮮やかな紫色の粒。見下ろす茜たちの視線を受けて、つるりとした表面を誇らしげに示している。


 茜は皿を持ち上げて、匂いを嗅いでみた。酒らしき匂いはほとんどせず、どんな酒を使ったかも分からなかった。しかし楊枝で両断してみると、確かにふわりと酒の匂いが漂ってくる。明らかにワインではない。


「これ、もしかしてラム酒!?」

「はい。ラムレーズンがあるくらいですから、もともとブドウと相性がいいものかと思いまして。こしあんにラム酒を少し混ぜて、ブドウ味の外皮で包んであります」


 茜は説明を聞き終えて、ゆっくりと和菓子を口に含む。ラムのコクと甘味を餡が優しく受け止め、味はしっかりしているのにまるでしつこさを感じない。


「素敵。羊羹もいいけど、こうやってほのかに香るのもお洒落だわ」

「これは美味しいですね。僕、ラムレーズンが好きなんです。アイスの中でも、抹茶の次に選ぶくらいで」


 茜の横で、西園寺があっという間に菓子を平らげている。茜は新たな情報を、頭の中にしっかり書き付けた。


「もう一つのお菓子も、何かびっくりさせてくれそうね」


 茜が言うと、高峯は笑いながらもう一つの覆いを取った。薄い黄色に染まった四角い菓子。形は羊羹に似ているが、透き通っていて中のフルーツと金箔がはっきり見えていた。


「……羊羹、に似てるけど何か違うわね」

「これは錦玉羹きんぎょくかんといって、寒天と砂糖を煮詰めて固めたお菓子ですよ。透明で涼しげなので、夏になるとよく出回ります」


 西園寺がすらすら語るのを、茜はうなずきながら聞いた。


「さすがに西園寺様はよくご存じですね。今回は少し食紅で色付けしているので、色がより鮮やかです」


 高峯も分かってもらえて嬉しそうで、より饒舌になる。


「合わせたのは白ワインとパイナップルです。さわやかな組み合わせになりますでしょう」


 ワインとフルーツの相性は基本的に良い。パイナップルやマンゴーといった南国の果物は白に、ベリー系は赤やロゼに合わせてサングリアにすると美味しいと、茜は経験的に知っていた。それでも和菓子になって現れるとこうなるのかと、茜は驚く。


「新発見ね。他にも色々、合うかどうか試しているんでしょ?」

「まだ手探りですが」


 茜の問いに、高峯はいたずらっぽく笑った。


「実は少し、試作品を作りすぎてしまいまして。お嫌いでなければ、また召し上がってください」

「どうする? 西園寺くん」

「ぜひいただきます!」


 西園寺がいい返事をするものだからどんどん試作品が運ばれてきて、辺りに酒の匂いがたちこめた。茜もワインを追加し、西園寺に勧める。しばらくは、何も無く楽しい時間が過ぎた。


 異変が生じたのは、試食会が始まって一時間ほどしてからだった。西園寺が俯き、体をふらふらと揺らしている。


「西園寺様、どうかなさいましたか?」


 異変を感じ取った蒲田かわたが目を見開く。味に感極まったでは説明できない動きに、茜も注目した。


「すみません……ちょっと、酔ったみたいで……」

「蒲田、手を貸して。西園寺くんを休ませてあげなきゃ」


 その間にも徐々に西園寺が倒れ込んでいく。茜は両腕で彼を支えていたが、重みに耐えきれず思わず膝をついてしまった。


 蒲田に西園寺を渡そうとするも、彼の体が重くてなかなか起き上がれない。なにやらうわごとのようなことを言っている気がして、茜は耳をそばだてた。


「西園寺くん、ひょっとしてどこか苦しいの?」


 そう問うた茜に、目を閉じた西園寺は答える。


「チビ……一緒に寝るかい……」


 茜はゆっくりと息を吐いた。脳裏に、見覚えのある白い毛玉の姿が浮かぶ。西園寺は酔って眠りに入り、今の状況が全く分からなくなっているのだ。驚きも怒りも通り越して、茜は一時呆然としてしまった。


「何と間違えられているかと思ったら、あの犬なの。妙に気安い感じなのもこれで納得ね……」


 茜は寄ってきた蒲田に手伝ってもらい、なんとかソファの上で膝枕の体勢までこぎつける。つくづく陸斗に気付かれなくて良かった。


「ふう」

「大丈夫ですか、お嬢様」


 茜はようやく解放され、わずかに痛む腕を動かした。大変だったが、西園寺の顔に楽しげな色が浮かんでいるのを見ると、その苦労も吹き飛んだ。


「一緒に寝たい気もするけど……眠ったらもったいないよね……」


 どんな夢を見ているのか。ありえないことではあるけれど、その夢の中に入って一緒に遊んでみたい。茜はそう思いながら、じっと西園寺を見つめていた。


 それから小一時間、西園寺は幼い子供のような顔で眠っていた。


「……ん」


 ようやく西園寺の喉が小さく動いた。茜の膝から起き上がった彼は瞼をこすり、まだぼんやりとしている。放っておいたらまた眠ってしまいそうだったので、茜は小さくつぶやいた。


「夢にお兄様は出なかった?」


 その言葉を聞いて、西園寺は一気に我に返った様子だった。真面目な顔をして、茜の方を見る。


「すみません。少量なら大丈夫かと思ったんですが、美味しくて食べ過ぎてしまいました。……何か、失礼なことをしませんでしたか?」


 心配そうな西園寺に対して、茜は首を横に振った。内心では大いににやついているのだが、顔には出さない。


「別に。まあ酔って横にはなってたけど、それ以上のことはしてないわ」


 そこへ高峯が白湯を持ってきてくれたので、西園寺は大いに恐縮した。


「もうそのくらいでいいわよ。それより、パーティーの細かいところを詰めておかないと」

「そうでした。来て下さる方はいそうですか?」


 西園寺は仕事の話をし出すと元に戻った。


「ええ。仕事関係の人だけでも、けっこう乗ってきてくれたわ。少なくとも百人規模にはしたいんだけど、そちらはどう? 会場の確保、お願いしてたわよね」

「場所は決まりました。ずっとお世話になっていたシェフが、レストランを開いているんです。そちらを一日借りました。テーブルウェアなどは、希望を伝えれば先方が選んでくれますよ。……ただ、規模的に百人は厳しいかと思います」

「その半分ってところ?」

「そうですね。最初はそれくらいの規模でやってみたいです」


 茜は頭の中で算盤をはじいた。あの人は呼ぶ、あの人は今回は遠慮してもらう……と整理していくと、なんとか人数は半分くらいにできそうである。


「分かった、調整するわ。うちで招待する人についての細々したことは、こっちに任せて」


 西園寺はそれを聞いて、高峯に向き直った。


「アフタヌーンティーに使うお茶や洋菓子の部分は、レストラン所属のパティシエさんにお願いします。和菓子は高峯さんに作っていただいて、持ち込む形でも構いませんか?」

「可能でございます」


 西園寺の問いに、高峯はうなずいた。


「じゃ、決行は二週間後の土曜。それまでに何か必要なものがあれば、連絡して」


 この茜の一言で、和菓子お披露目パーティーは本格的に動き出すことになった。




「……いよいよ、プロジェクトの第一歩が始まるのね」


 その夜、招待状やメール、メッセージをあらかた送り終えてから、茜はつぶやいた。正直、巨大市場の開拓に繋げるには足りない。今はまだかなり細い糸が繋がったにすぎなかった。


 それを作っていく途中で消耗するかもしれないし、かなり酷評を受けて続けられなくなる可能性もあった。理解を超えたことが簡単に起きるのが国際ビジネスだということは、茜もよく知っている。


 それでも。


「大丈夫」


 それでも、きっとうまくいくという直感があった。それを大事に守るように、茜は胸の前で手を組む。


 目を閉じる。意識の中に、微笑んでいるたまきの顔が浮かんだ。


「見てて、お母様。お父様とお兄様をふっとばせるくらい、私はたくましくなってみせるから」


 誓いを立てる茜に、ただ月光が静かに降り注いでいた。

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