第7話 信用ならない男

「ねえっ、UFO!」


 指さす雲には、すでにそれらしき影すら消えていた。けれどいましがた目にした円盤の光は、鮮明にまぶたの裏に焼きついている。


 グレイのくたびれた深緑のジャケットを引っつかんで、ナジャは声高にくり返した。


「UFO! いた! 見た!」

「あー……期待させて悪いけど」


 連なって蛇のようになる建物ビル群の、煉瓦屋根を越えたあたりでバイクは停留する。


 グレイはナジャを抱えたまま器用に腕時計のつまみを操作した。すると文字盤がぼんやり光をたたえはじめ、短針と長針がそのうす明かりに溶けるようにして見えなくなる。なにをしようとしているのかと、騒ぐことを忘れて釘付けになるターコイズの瞳を、オイルの染みて少し黒ずんだ人差し指が誘導する。


 腕時計の光が立つ、その先。

 分厚い雲が幾重にもかさばる空に、またもや円盤が青白い光をまとって現れた。


「あっ! えっ?」


 ようやくナジャも円盤と腕時計との関係に気づいて、小刻みに首をふって見比べる。


「ま、魔法……?」

「ははっ、魔法ときたか」グレイはつまみをぐりぐりと回して、円盤をナジャのすぐそばまで近づけた。「水蒸気をスクリーンにして、光で構成された立体的な映像を投影してるんだ——はやい話が、ただの幻だよ」


 おそるおそる伸ばされたナジャの指先は、円盤をあっけなくすり抜ける。


「幻……」

「そ。門外不出の最先端技術」


 自称新聞記者は、弧を描くくちびるの前に人差し指を立てて、そっと片目をつぶった。


 ……どっと疲れにみまわれる。

 地上に来てからというもの、塔から落ちたり翼を奪われたり、取材につれ出されたかと思えば、今度は機関車の爆発予知。最先端技術だかなんだか知らないが、あげくの偽UFOでついに糸が切れてしまったようだった。


「そう気に病むことでもないさ」


 からだじゅうの息を吐き尽くすような深いため息をついたナジャを、グレイはとくに気遣わしげといったふうでもなく見やる。


「どこからどう見たって、あの塔は中心街ナツネグでも旧市街ペルポネでもなく雲の上に建ってる。次また彼らに絡まれたら、あの雲を踏んでぜひ玄関からお訪ねくださいとかわしておけばいい」

「……そっちは、とくに気にしてない」

「ああ、じゃあ翼の件が気がかりだったか。大丈夫、いくら俺だって天使サマ相手に本気で悪さするつもりないって。ちゃんと返す」


 いけしゃあしゃあとのたまう。


「懸念事項は晴れたな。嬢ちゃん少し疲れてるみたいだし、デートも今度にするか。このまま塔までエスコートってことでいいか?」


 ジョークだとするなら笑えないし、本気で言っているのなら正気を疑うセリフだった。


 五時間後には、大勢の人を乗せた機関車が爆発するかもしれない。グレイもその光景を目にしているどころか、時間を割り出したのはほかでもない彼自身だ。まるで忘れてしまったかのようにふるまう意図が知れない。


 ナジャのじとりとした視線を受けて、グレイは肩をすくめた。「もしかして機関車のことだったかな」首の後ろをかきながら、わざとらしい大声をあげておどけてみせる。


「……もちろん忘れてたわけじゃない。ただ、のことが君の気を病ませるとは思わなかっただけさ」

「どういうこと? 天使のあたしが、人間たちを見殺しにするわけないでしょ」

「違うのか? だって君は、終末を止めるつもりなんかさらさらないだろう」


 正面から心臓を刺されたようだった。

 ナジャには、実際には心臓なんてものはない。それでも胸の辺りに、つららを落とされたような冷ややかな衝撃があった。あるいはその冷たさは、ナジャを見据えるグレイの目つきから受けるものなのかもしれなかった。


 片時も崩れることのなかった軽薄そうな笑みが、目もとだけ完全に剥がれている。

 敵意や害意といった直接的な鋭さがあるわけではない。底のない沼をのぞいたような、執拗に絡みつく感情があった。


 憎悪に近く、ともすれば愛情めいたものがにじみだしそうな。


 こうも重く、容赦のない情を向けられたことはない。ナジャは本能的に逃げ出したくなった。その気配を察してか、からだに巻きつく男の腕があらためて天使を捕えなおす。


「……しゅ、終末ってなんのこと」

「逆さの塔は保管庫だ。旧世界から新世界への引き継ぎのために、君は『価値あるもの』を回収しにきた。そうだよな、塔の管理人」


 確信を持った問いかけだった。


「……あんた、何者なの」

「言わなかったか? 俺はグレイ。この街で細々と暮らすしがない新聞記者だよ。そんなことより、いまは君に取材中なんだけどな」

「それだけ確信を持ってるのに、あたしの答えが必要? どう首をふっても好きなように捉えるんでしょ」


 グレイは『うさんくさい新聞記者』の顔に戻って、腕時計をカシャリと鳴らした。「ん、天使はどんな表情もさまになるな」写真を撮られたと気づいて、ナジャは全身の毛を逆立てるようにして彼を睨み上げた。


「まあまあ、そう警戒するなよ。終末を止めようみたいな、大層なことは考えてないさ。ただ、天使にとっての人間なんてものは、俺らにとっての蟻みたいなものだろうと思ってたから。汽車の爆発を君がそこまで気にするってのが、単純に意外だと思っただけだ」

「あんたのこと、なに一つ信用できない」

「いいんじゃないか? はじめの印象が最悪なほど、あとは上がるだけ、なんならかえってロマンスが生まれるってのがセオリーだろう。俺はあんまり漫画はたしなまないがな」


 ロマンスなど生まれる余地があるだろうか。彼のほうにも、初対面であるはずのナジャに煮えたぎるような愛憎を向けるほどには天使に思うところがあるらしい。


(……なんにしても、いまはこのひとの協力がなくちゃなにもできない。悔しいことに)


「とりあえず君は、機関車の爆発を止めたいわけだ」

「協力するかわりに、今度は塔のものをよこせとゆする?」

「まさか。俺だってオルランディアの民の一人だ。感謝こそすれ、ゆするなんてとんでもない。さ、僭越ながらこのグレイ、天使サマを汽車までご案内しましょう」


 しばらくこの男と離れられないと思うと頭痛がしたが、彼のために大勢を犠牲にするほうが問題だ。ナジャはせめてもの抵抗で顔を背け、突き飛ばしたい衝動はぐっと耐えた。

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