津波てんでんこ

「風だな」

 お父さんが呟いた。風が吹いたかは分からなかった。けれど、お父さんがそんな怖い表情で海を見たことはなかったので、きっと来るんだろうと分かった。

「夏美、家へ帰れ。お母ちゃんと一緒に山へ逃げろ。分かんだろ、真っ赤な鳥居が並んでるお社さんだ。階段の途中によく一緒に握りめし食った石碑があって、貞観のでけえ津波もそこまでしか来なかったらしい」

 お父さんはもう一杯の日本酒をお母さんに強請る時でも口にしなかったような優しい声で言い、わたしの背中を大きな手でぽんと叩いた。

「お父さんは?」

 慌ててぎゅっと手を握り、尋ねると、

「俺は船を出す」

 と突き放すような口調で答えた。津波が来たら、男は船を沖に逃がす、女は子を山に逃がす。この地方に古くから伝わる教えだった。

「行かないで」

 切り傷だらけの逞しい指にわたしの頼りない指を絡め、聞き分けのない幼な子みたいに訴えた。

「死なへんがな」

 けれどお父さんはわたしの手を離し、振り返りもせずに、海へ走って行ってしまった。

 家に帰るのは難しくなかった。それに、神社のある山に逃げるのも、よく友だちと鬼ごっこをして笹の隙間を潜る裏道にも詳しかったから、簡単だったと思う。でも、お父さんの口調に表れていた死相が気になった。というのは後に気づくことだが、わたしは首を掴まれたように坂道を引き返し、お父さんの背中を追った。

 津波てんでんこ、というこの地方固有の言葉がある。津波が来たら、親も子も捨てて、てんでばらばらに逃げろ、という、かの大震災が遺した禍を受けて全国に広まり、残酷さとともに津波の悲惨さを知らしめた言葉なはずだった。が、この言葉の本意としては、残酷なものでは全くない。子どもの頃に、この言葉を教えてくれた先生が言った。「津波があっても、それぞれが逃げていると信じられるぐらい、信頼のある家庭を作りなさい、という意味なのよ」と。だとしたら、わたしはお父さんのことを信じていなかったに違いなくて、でも愛してはおり、信じることは愛することだけれど、愛することは信じることではないのだな、と、要介護の義母を見捨てることができず津波に呑まれたあの先生が、子どもの喧嘩を叱る代わりによく見せた困り顔の笑みを思い出す。

 震源より南に離れたこの地方の震度は6強だったという。小さなものではなかったけれど、全壊した家屋は古いものを除けばそれほどなく、思ったより大したことないな、と見慣れた町並みを見て思った。歩いている人はおらず、みな津波を恐れ逃げていたわけだが、ここ数日続いていた地震でも大きな津波の発生はなかったこともあり、どちらかというと冒険気分でゴーストタウンと化した町を散策した。山にへばりつく平地に開けたささやかな港町で、わたしはこの町に時々漂う生魚の匂いが好きだった。その磯臭さに誘われるまま海辺へ出ると、津波の第一波が訪れた。

 思ったより大したことないな。やはりそれが実感である。殆どの波は防潮堤に堰き止められ、僅かに漏れた海水が犬の多い町によくある電信柱の小便みたいにコンクリートを浸したものの、その程度だった。防潮堤によじ登って海を眺めると、潮がかつて見たことがないぐらい引いており、漁船の群れがこんな速く走れたんだと驚くようなスピードで次々と沖へ白い航跡を引きながら去っていった。

 この高さならお父さんを見つけられるかな、と町を振り返ろうとすれば、わたしの腕が強く掴まれた。

「夏美! てめえ、何で逃げてねえんだ!」

 お父さんだった。血色を失ったような顔と言葉の乱暴さに驚いたけれど、それよりもお父さんに会えた安心感のほうが強かった。

「お父さんは何で逃げてないの?」

 お父さんに抱きついて、悪戯っぽく尋ねる。ほら、どうせ津波なんて大したことないんでしょ。

「ジジイとババアが気になっちまい残っててよかった。いいことはするもんだな。夏美を失ったら、お母ちゃんに顔が向けらんねえ」

 お父さんはわたしの体を離し、答えになってるのかなってないのか震える声で言い、思い詰めた表情でスマホを叩いた後、頬に無精髭が刺さるぐらいのキスをして、わたしをおんぶしてくれた。小学校に上がると早くも一緒のお風呂に入ってくれなくなった照れ屋のお父さんがそんな風に接してくれたことはなく、わたしは多分その時、初めて事の重大さを思い知った。

 無音に近いぐらい聞こえていなかった潮音が、壊れたラジオみたいなノイズを紛らせながら、加速度的に響きを増していった。お父さんの怒った肩の向こうには、真っ黒い壁のような波が、いや、海がそのまま押し寄せてくるのがハリウッドの映画みたいに見えた。

「行くぞ、しっかり捕まってろ!」

 わたしを背負い直し、地下足袋を器用に脱ぎ捨てたお父さんは、父兄リレーのアンカーでヒーローになった運動会の時よりもずっと速く、飛ぶように走った。けれど、陸に上った津波は、多少速度は衰えるにせよ、オリンピック短距離の金メダリストほどの速さで遡上するという。振り向かなくてもすぐ傍に津波が迫っているのが分かった。めりめり、という、住宅の押し潰される音が襲いかかるように追いかけてきた。

「冬馬だな」

 お父さんは肩で息をしながら言った。

「お母ちゃんのお腹の中にいる子、チンコあるらしい。楽しみだろ。夏美に弟ができんぞ。男の子は母親に似るっつうから、きっと目がくりっとしたかわいい子だぜ。名前は冬馬にしよう。なっ。冬海と迷ってたが、冬の海は縁起がよくねえ。馬だ。相馬の野馬追を思わせるような、強い子に育ってくれ」

 お父さんは、港町の荒くれらしくなくギャンブルは「お母ちゃんがうるせえんだ」と指で逆さのOKマークを作って頻りに断っていたが、競馬が好きで、賭けることはわたしの知る限りなかったけれど、テレビの中継はよく観ていた。逃げ馬が好きだった。特に牝馬のダイワスカーレットが大好きで、桜花賞のウオッカとの叩き合いは繋いだ手に汗を滲ませてテレビを睨み、騎手・安藤が右手を天に突き上げて入線したあの感動的なシーンは抱き合って喜んだ。並んで競馬を見ている時、わたしはこっそりお父さんを見ていた。口を尖らした難しい表情が破顔する瞬間を逃したくなかった。わたしはお父さんが大好きだった。

 その時、わたしたちの目の前に鉄塔が現れた。頑丈そうに見える上、梯子がかなりの高さがある天辺まで伸びており、昇れば津波をやり過ごすことができそうに見えた。が、鉄の扉は立派な南京錠で封鎖されている。お父さんは逞しい臑毛の両足を金網に踏ん張って引き千切ろうとしたけれど、びくともしないうちに、家や木や車を呑み込んで泡吹いた黒い海がそこまで迫っていた。

「お父さん!」

 叫ぶと、お父さんは、

「なじょだらっ!」

 と呼応するような猛々しい声で吠え、鉄の扉に上半身を叩きつけるような頭突きを決めた。それは殆ど奇跡と言って良かったし、この話を知った近所の幾人かは、「何で新しくしたばかりの南京錠が割れたんだろう」と狐につままれたような顔を揃え、わたしを「奇跡の子」と呼んだ。

 とにかく扉を擦り抜け、お父さんはわたしを鉄塔に向かって力一杯ぶん投げた。何とか梯子にしがみついた瞬間、ゴッ、と音を立てて、すぐ足元を濁流が駆け抜けていった。

「おとうさああああん、いやだあああああ」

 それでもわたしは暴力的な轟音の狭間にとても優しいお父さんの声を聞いたんだったと思う。お父さんはわたしに、冬馬を頼む、と、そう言ったのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る