冬馬の告白

 結局わたしが選んだのは、「制服で踊ること」だった。尼崎にいたときと変わらない、ただし、背景は福島だ。例えば帰還困難区域の廃墟の前で踊れば、制服姿とのギャップが相まって注目を集め、陳腐でちょっともの悲しい炎上芸でも見るかのように面白がった投げ銭が叩きコメントと共にたくさん入っていたと思う。でもそれは、わたしが求める注目のされ方ではなかった。そういう風に集めたお金を愁香さんと冬馬には渡したくない、と、たぶんふたりにとってはどうでもいいから、勝手な感傷なのかもしれないけれど、とことん勝手であろうと決めた。わたしは福島の、有り触れた風景の前で踊る姿をいくつもインスタに投稿した。ずんぐりの洋梨がカゴ一杯に積まれた果物屋さん、切り通しに架かる歩道橋の下を二両の列車が真夏の光を跳ね返しながら擦り抜ける駅、桜がもうもうと緑を萌え上がらせる並木道、まっくろに日焼けした半袖半ズボンのちびっこたちが先を争うように笑顔で駆けていく水族館……。そのどれもがわたしの好きな景色で、好きになったということを、復興の証として世界に伝えたい。肝心のクラファンは、インスタで「いいね!」が入らなかった日の深夜に立ち上る「社会から自分だけ取り残されたような虚無感」を煮詰めて味わえるぐらい集まらず、夏休みも残り一週間というところで、達成率は僅か数%。それでも楽しかった。動画は全て冬馬が撮ってくれた。彼を軽自動車の助手席に乗せて速度違反を怒られながら福島を駆け回るのも楽しかった。冬馬もそこそこ楽しんでくれてたんじゃないかな。最初は嫌そうだったけれど、少しずつ動画の見せ方のアドバイスをいっちょ前にくれるようになったり、それはそれで居丈高な口上がウザかったが、ふたりで作ってる動画だと思えば、他の誰でもない、わたしにとって福島に来た意義は此処にあった。

 その日、わたしたちは海に来た。この海からわたしの福島は始まったのだ。ここで冬馬に出会い、福島を知り、魚が美味しくて、たぶんお父さんはここに眠っている。一通りの動画は撮り終えていたから、さいごに撮るなら、この海が良かった。

 冬馬に撮ってもらった動画をインスタに投稿した後、わたしはスマホを冬馬に向けた。

「……なんだよ」

 冬馬は慌てた調子で顰めっ面を小さな両手で隠した。おいおい、わたしに似たいい顔が台無しじゃないか。

「あんたもなんかしゃべりなよ」

 そう言い、わたしはカメラのフレームに笑っちゃうぐらいあおい海としろいシャツで所在なく佇む冬馬を収める。夏休みの絵日記を締めるならきっとこんな光景がいい。スマホをタップするとぴろんという音がして、録画が始まったことは冬馬にも伝わったんだろう。人差し指と中指の隙間から睨んできた。

「……なんかってなんだよ。知らねえよ。夏姉が勝手にやってることだろ」

 うーん、そうじゃないんだよなあ。わたしは冬馬の可愛いところ、たくさん知ってるよ。チラシ寿司をおかわりするぐらい好きなところ、エプロンを後ろ手で結んだときにいつも縦結びなところ、お腹が弱くってトイレが長く出てきた時の凄くむすっとした顔、何一つ心配することがなさそうな寝顔、たくさん見てきたよ。見せてやりなよ。あなたがわたしの大好きな弟だってことを。インスタにはたっぷり自慢してきたけど。

「言ってなかったけど、クラファンで集めたお金、愁香さんと冬馬にぜんぶ渡しちゃうんだよね。まいったかコラー」

 ピエロみたいに片足を上げておどけながら言ってみた。

「は!?」

 冬馬は目をぱっちりと見開き、口をあんぐり開けた。そうそう、その顔。

「それがわたしの夏の思い出なのです。ここに来た理由なのです。たぶんね。わたしは、愁香さんと冬馬には幸せになってほしい。というか、恋ではなく、わたしがふたりを幸せにしたい。大切な家族だし、わたしは福島が好きだから。なのでもう、覚悟して、幸せになっちゃってください」

 言いながら、語尾が湿り、わたしはきっともう福島に来ないだろうなあと思った。恋もそうだろう。ということは、彼の小説を読んでいて思った。戸棚の奥に隠されている本の束を見つけたので、葷酒の甘ったるい匂いにうっとりしつつ、表紙が色褪せた昔の作品から順に、冷たい台所の床に三角座りして汗をかいた麦茶を減らしながら読み直した。デビューしたのは震災直後の新人賞だったか、ベストセラーになった代表作は文庫化もされ、当時は本屋の雛壇に面陳されることも多かった、と胸に抱えてレジに運ぶ時の恥ずかしさやら誇らしさと共に覚えている。仰々しい帯の文言を引用すれば「震災文学」の第一人者として知られた彼は、震災の悲惨さを人間のえぐみから抽出して表すノンフィクション風純文学を得意とし、津波によってどれだけの人が苦しめられたか綿密な取材に基づいただろう描写を尽くしており、原発事故について電力会社や政府を責める直喩は苛烈だった。たぶんその頃、恋は福島に移住することを真剣に考えていたんだろう。本棚に並んでいた資料の中に住まい作りの雑誌が混じり、一際カラフルな付箋を生やしていたことを思い出す。恋と春子はわたしの目の前で夫婦喧嘩をしたことは一度もなく、ただ必ず仏頂面を揃えてミスタードーナツに出かけたから丸分かりで、移住に関しふたり揉めていた場面も想像に難くない。しかし、福島の復興が進むにつれ、彼の筆も少しずつ和らいでいった。彼本来の優しい筆遣いが戻った。彼の最新作は、赤ペンで汚れた原稿用紙を取材用に使っているノースフェイスのビジネスリュックに見つけてこっそり追ったのだが、読む人が読めばそうだと分かる私小説だった。自分にとっての復興は終わった、とプロット代わりの表紙に走り書きのメモが踊り、津波に浚われた親友が遺したかつての憧れの妻と、その息子と暮らしているうち、娘が自分を連れ戻しに来るという、どたばたコメディで、わたしの描かれ方が切れキャラだったからだいぶ不満は覚えたものの、地元に残してきた妻の描写が抱いた時の体温を感じられるぐらい愛おしく、きっと彼はもう福島を離れるんだろう。そしてこの小説を読めば、春子も許してくれると思う。屈託がなくて、ちょっと女にだらしない「尼崎のジャンレノ」が軽薄なくせ憎めない文体に宿っていた。恋は、間違いなく愁香さんを好きで、でも手を繋いだことすらないんだと小説に教えてもらい、フィクションでぐらい抱いたらいいのにな、と下品な含み笑いを浮かべた。恋がさいごに選んだのは、上品で、美しい福島の描き方だった。夜ノ森の桜並木のバリケードが午前0時に解放されるラストシーンは不覚にも泣いてしまい、原稿用紙に落ちた涙の大粒を慌ててシャツの裾で拭った。彼にとっての復興は終わったのだろう。わたしにとっての復興もだ。やがて、愁香さんにとっての復興も終わり、冬馬にとっての復興も終わっていく。人間は思ったよりタフだ。悲しいぐらいに。忘れていく。

「は!? 勝手なこと言うなよ! 夏姉が遊ぶ金欲しいっつうから仕方なく手伝ってやってんじゃねえか。知らねえよ、なんだよ、うちらの金って」

 そうかそうか、わたしの遊ぶ金なんかのために、君は電信柱によじ登ってまで最適なカメラアングルを追究したり、インスタに疎いおじいちゃんに絡まれた時わたしの代わりに謝ってくれたり、深夜わたしの動画編集に付き合ってくれて熱いコーヒーをドリップで淹れてくれたりしたんだね。その言葉は、ローカルに保存して泣きたい夜に聞き直したいぐらい嬉しいよ。

「そうなのです。うちらのお金なのです」

 スマホのカメラを自分に向けた。

「冬馬は、わたしの大切な弟です。愁香さんは、わたしの大切なお母さんです。世界でたったふたりだけの、血の繋がった家族です。頂いたお金は、わたしたちで使います。家族の復興のために使います。例え離れても、お互いを思い、愛し、幸せを祈るように使うことを、ここに誓います」

 それがわたしにとっての、福島の復興なのです。

「え、夏姉、……尼崎帰んの?」

 ずっと意固地だった口調がふっと力を失った。わたしを不安そうに見ている冬馬は、これまでで一番いい表情だった。

「うん、この夏が終わったら、帰るよ」

 こういう形で伝えてごめんね。でもわたしは、冬馬とか、愁香さんとか、福島のことは、決して忘れないと思う。

「……ずっと福島にいてくれると思ってた」

 馬鹿だな、冬馬。そんなわけないじゃん。君は本当に可愛いね。いつもぶっきらぼうだったけれど、ちょっとはわたしのことを好きでいてくれてたのかな。愁香さん含め、三人で暮らす生活のことを想像してくれてたりしたのかな。いやきっと、この長い夏休みの延長線上に、当たり前にあると思ってくれていたのだろう。震災の前の生活がそうであったように。わたしは震災の年産まれた冬馬が知らなくてよかった喪失を体験させるのかもしれない、と目を瞑れば、この夏に見たたくさんの喪失が超高速スライドショーのごとく目蓋の裏を焼くように明滅し、さいごに現れる冬馬にとってすら不誠実でしか有り得ない自分を今までの何時よりも省みるけれど、だからと言って福島に残るのは違う。ここに来てもよかったのかな。それは正直、今でもそう思う。

「いいよ、帰れよ。その代わり、そのカメラ、俺に向けろよ」

 冬馬は、ふう、と溜息を吐き、この夏をたっぷり吸い込んだ海を背景に、表情を整えた。雲ひとつなくて、波は立っておらず、耳を傾けてくれているように静かだった。スマホを冬馬に向けると、彼はにっこりと微笑む。こんなふうに笑えるんだ。

「夏姉に言いたいことがあります」

 威勢だけはいいくせ、手に掲げた紙が見えるようなひどい棒読みで、その文章を何時か何処かで考えたことがあったのかもしれない。とにかく表情は彼の中に滞まっていた全ての澱が溶け出したかのように穏やかだった。

「僕は、この海が好きでした。この海を眺めているのが好きでした。このひろいひろい海を越えれば、どこへでも行けると思ってた。僕にとってはこの海は、なにもなかった、その、震災後の自分にとって、希望そのものだったんです」

 震災、と口にしたところで僅かに言い淀んだ。頑張れ。

「海の向こうに行きたかった。これ以上、母ちゃんに迷惑をかけたくなかった。ずっとそう思ってた」

 そのことは知ってた。でも、こんなに表情を強張らせるぐらい、思い詰めてたことは知らなかった。

「でもそんなとき、僕のところに、夏美っていう、僕の姉だという人物が現れたのです」

 冬馬が思わせぶりにスマホから目を逸らす。いや、目を逸らしたのは、スマホからではなく。

「その名前のとおり、夏に来ました。びっくりしました。僕に姉がいて、尼崎に住んでるということは、母ちゃんから聞いていました。でも、会えないんだよってことは教えてもらっていたし、僕にとって姉は、夏姉は、死んだのとおなじような存在だった。その夏姉が、来た。おどろいた。幽霊だと思った」

 この先を語らせていいのだろうか。躊躇した。死んだのと同じような存在、というのは、暗に、彼の、わたしたちのお父さんのことを仄めかしているのだろう。わたしは今、冬馬の傷を抉ってるだけじゃないのか。それを言えば、わたしが福島に来たこと自体、加害でしかなかったんじゃないか。当事者でないことは受け止められていたと思っていたけれど、彼との距離を受け止めたことはなかった。

「その夏姉がね、海の向こうには、天国があるよって言ったんです。僕は、海の向こうにはアメリカがあると思ってた。そうじゃないって言われてるみたいで、びっくりして。たぶん夏姉は、僕に、生きてほしかったんだと思う。そのことに気づいたのは、ほんと、最近なんだけど。海の見え方が変わった。海はこれを越えていくものではなく、越えてくるものを待つ場所になった。待っててもいいんじゃないか、そう思ったんです」

 わたしはスマホを構えたまま、こっそり録画を止めた。

「父ちゃんは死んだと思ってた。それを待つ母ちゃんは馬鹿だと思ってた。そのくせ、僕なんかのために新しい父ちゃんを探そうとするのが、すごく嫌だった。でもそういうのぜんぶ、待っててもいいんじゃないか。そう思ったんです。それが生きるってことなんじゃないかって」

 さいごの一文は、冬馬が作った元々の台本にはなかったんだろう、いきなり自然体になった。ちゃんと受け止めたかったけれど、ぼろぼろの表情を隠したくて、スマホを掲げたままにしたが、震える手から滑り落ち、ぽす、と音を立てて銀色の砂が汗まみれの筐体を受け止める。その傍を二匹の蟹が泡を吹きながら横に滑っていった。

「そのことを教えてくれた夏姉のことも、僕は待ってようと思います。待つのが得意なんですよ。福島の人は。へっ。覚悟しろこのヤロー。いつまでも待っててやるから、ときどき思いだしてください。僕は、夏姉のことを……」

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