母娘の写楽

 福島の日本酒は金賞に輝いた銘柄の数で十年近く日本一の座を譲っていないぐらい美味だという。日本酒というものは地域に根差していることが多いから、尼崎の安居酒屋で福島ブランドに預かれることはなく、此処へ来て初めて飲んだ「写楽」や「飛露喜」といった上酒は、当たり年のボジョレー・ヌーヴォーよりも芳醇である。食後、それこそぴかぴかのワイングラスに注げば水より透き通った酒精がきんいろの光を帯び、愁香さんとふしだらな下着一枚同士、あられもない猥談を笑いながら、妖艶な香りとともにゆっくり楽しんだ。酒の匂いを呼気に漂わせて部屋へと戻れば、冬馬は「嫌な大人が来た」と顔をむくれさせるのだが、いつもより濃厚に腕を絡ませ「あの夜が忘れられないの」と耳元で囁いてみたりする。「うざい!」と顔を赤くして厭う冬馬がまたいい肴なのだ。

 冬馬のため、という献身さはあったのか、なかったのか。単に飲みたかっただけか。この夏でいっとう蒸し暑い夜があり、わたしは「写楽」の一升瓶をテーブルの上に、どん、と置いて、飲みましょう、と愁香さんに迫った。いつも笑っている表情がいっそう綻んだ。恋が逃げようとするので、文字通り首根っこを掴み彼の目の前に空いたビールグラスから零れるぐらい日本酒を注いでやった。半分も飲まないうちに潰れた。ちょろい。が、問題は愁香さんである。一合のぐい呑みでも三杯や四杯飲んだ程度では「これ、水?」という具合に顔色ひとつ変えない。空いた一升瓶が床に転がっていく。苦しくなってきたのはわたしだった。相変わらずにこにこ笑って、

「あたし、娘とサシで飲むの、夢だったんだよね」

 と言う。

「娘じゃねえよ」

 酔っていたのだろう、素で言った。呂律が回らない。が、意識ははっきりしている。わたしは愁香さんに言わなければならないことがあった。

「娘だよ」

 愁香さんの表情にうっすらと雲のかかる満月のような陰りが現れた。

 思ったより驚くような話ではなかった。何で今話すのかな、という現実感だけなかった。でも全部を話したくなるぐらい深い夜で、全部を受け入れてもいいぐらい豊かな夜だった。福島の日本酒が頑なな気持ちを溶かすための触媒だったんだろう。

 わたしの本当の母は、春子ではなく、愁香さんなのだという。父親も、恋ではない。わたしの本当の父、それは冬馬の父でもあるらしいのだが、津波に巻き込まれて行方不明だそうだ。わたしが春子や恋に似てないことは察していたし、友だちや先生に「鬼っ子」だと嗤われることもあった。それに、ふたりはわたしほど酒に強くない。酒に強いのは愁香さんのほう。わたしのルーツは福島にあったのだ。

 そもそも春子のことは母親だとは思ってないし、友だちみたいだったというか、だからといって、今さら愁香さんのことを母親だと思えるはずもない。いくつかは寂しくなった。が、寂しくなかったところが心の一角にちゃんと残っており、それは、世界中でたったひとり、冬馬だけはわたしの家族だという確信だ。愛する、とはこの気持ちなのだろうか。わたしはその確信を、確証に変える必要があった。

「恋のこと、どう思ってるんですか?」

 酔いがいよいよ回るより前に尋ねなくてはならなかった。極めて理性的に、わたしはそのことを愁香さんに尋ねたかった。

「例えば恋と愁香さんが結婚して、わたしもここの家の子になって、冬馬と四人で暮らす、とか、そういう陳腐な願望があるんじゃないですか?」

 責めているような口調になったのは、愁香さんのことを責めていたというより、自分を責めたかった。その四人での福島の暮らしは、わたしにとってもすごく理想的で、幸せなものであるかのように感じられた。わたしはその暮らしを色や音や味噌汁の沸き立つ匂い付きで思い浮かべることができる。残酷だと思う。ひとり置き去りにされるのは春子だ。冬馬も、愁香さんも、ついでに恋も、好きだけれど、わたしが本当に好きなのは、春子だったのかもしれない。

「とにかく、君がどうしたいかは、君が決めたらいい」

 大人扱いのようなぞんざいさで、愁香さんは言い、日本酒をぐいっと喉に流し込んだ。わたしは彼女のぐい呑みに自分のぐい呑みを衝突させる。試合を始めるときのゴングみたいに陶器がカンと鳴った。

「冬馬が父親を必要としてるんじゃないんだよね。あたしが、恋にいちゃんを必要としてるんだ」

 何時かの台詞を繰り返し、アンニュイに小首を傾げた。彼女もわたしも黒いキャミソール一枚、殆ど裸でぶつかり合っている。ほのかなピンク色に染まった乳房が色っぽい。大きさはわたしと同じぐらいだった。春子はぺちゃんこなのに何でわたしだけ、と、子どもの頃は男女同じ教室で着替えるプールの授業が憂鬱で、生理もクラスで一番に早く、でも春子がハーゲンダッツのいちご味でお祝いしてくれたのが嬉しかった、と、何で今思い出すんだろう。

「冬馬のことを思い遣ってないんじゃないですか?」

 わたしは愁香さんを睨む。決意のようなものがあった。例えばもし、彼が姉を必要としているのであれば、わたしが福島に来てもいい、と。だから恋を奪わないでほしい。春子には恋が必要なのだ。ふたりは、わたしを愛してくれていることを分かっているけれど、たぶん、わたしがいなくても大丈夫だと思う。どういう経緯でわたしがふたりに引き取られたのか分からないけれど。もともと、いるべきではなかったのだ。わたしは正直、尼崎で、立つ瀬がないような覚束なさを感じたことが時々あり、それは、家庭内に居場所がないとか、そういう思春期特有のうら寂しさではなく、有体な此処ではない何処かへ行きたい逃避妄想でもなく、ただ水が低いところに流れるように、当たり前に、わたしは福島にやってきたんだと思う。

「お金がいるのよ」

 色の薄い唇を緩めてそう言った愁香さんは、撫で肩を崩すとキャミソールの紐が片方滑り落ちて、焦げ茶色の大きな乳輪が露わとなり、それなのに淫らではない、母親の声だった。

 随分と、自分の想像力の欠如を省みなくてはならない話だった。今住んでいるのは復興住宅みたいなもので、本来の家は津波に流されて失くなってしまったのだという。引っ越そうと思えば、それなりにお金が必要。当たり前のことだ。そして家がなければ、復興というものはありえない。そのことも分かる。分からないのは、津波に流された家は、同じ福島でありながら一切の補償がない点だ。原発事故で帰還が禁じられた区域に住むものはそれなりの補償がされるはずだったが、津波に流されたものはそうではない。国が決めたその境界線は目に見えない。差別、だとか、部落、という言葉が柔らかい棘を伴って脳裏を掠める。尼崎の学校ではそういった教育が盛んで、外国人も多く住むし、見た目こそ日本人だがそうでない姓を持っている友人も少なくなかったし、差別をしてはならない、というのはよく教えられ、実感としてもあった。パクちゃんが夏祭りで着崩したチマチョゴリがすごく可愛くてみなで彼女を取り合ったこととか、リーファが電話に出たときの「ウェーイ」という言い方をみな気に入って仲間内で流行ったとか、ひどく子ども染みた割りに、純粋な友だちの実感。差別は心の殺人だという。どうして人を殺してはならないか、という問いには、本当は答えはないのだが、ひとつ、模範的な答えがある。つまり、人を殺せば今度は自分が殺される側に回る、というシンプルな応報論だ。じゃあ死にたい人間は人を殺してもいいのか、と実際にそういう事件は枚挙に暇がないぐらいロジックに漏れがあり、十全な答えじゃないけれど、道徳的であることをいったん捨て置けば、考え方は筋が通る。同じように道徳的ではないものの、どうして差別をしてはいけないのか、という問いには、今度は自分が差別されるから、が答えのひとつとして及第点だろう。誰だっていつまでも強者であり続けることはできないと悠久の歴史や進化論は教えている。大海で隆盛を誇った肉食魚がやがて狭い陸に逃げた猿の子孫に屠られたように。いつか、どこかで弱者になり得るターンがあり、そのときに差別されることになるから、という理解で概ね間違っていないが、より正確にいえば、差別するということは、自分を差別するということなのだ。誰しもが心の中に持っているはずの善良な自分を排斥する。かれはインナーチャイルドに写像を取れば分かりやすい。差別とは、心の自殺であり、心の子殺しであり、思い出殺しであり、そうしないと生きてはいけない面もあるけれど、少なくとも生きている意味はない。それが、学校で教えて貰える教科書の「差別」。他にSNSではすっかりラディカル左翼の音追いピストルとして陳腐化した「差別」もある。尼崎で暮らすものの実感、いや肌感覚はどちらとも違う。あの町には、誰ひとりとしてマジョリティはいない。市長だって、社長だって、期間工だって、新地の風俗嬢だって、みなが等しくマイノリティであり、個人であり、傷つきやすく、傷を持っており、触られたくないと思っている。「俺はお前の傷に触れない。だからお前も俺の傷に触れないでくれ」が、夕暮れの駅前でサラリーマンがワンカップを啜るあの町の限りがない多様性であり、分母に取れば差別はゼロに漸近する。それを以て、福島で、わたしは愁香さんに、冬馬に、あるいは恋に、どうしていいのか分からない。かれらの傷に触れないことが、本当に正しいのか。

 気がつけば眠ってしまっていた。わたしを布団に運んでくれるときの愁香さんの抱きかかえ方は、間違いなく娘に対するそれだった。悔しくて、初めてサシ飲みで負けたこともそうだし、尊敬するのとはまた違ったけれど、わたしは今、愁香さんのことをお母さんだと思う。

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