みんな不幸になる

 尼崎の夏ははやく過ぎていく。というのは、高校野球の甲子園大会があるからで、例年、我らが阪神タイガースは「必ず首位で帰ってきます!」なんて死亡フラグというべきか、いさましい鬨の声をサンテレビのインタビューに残し、ダナキル砂漠を越えるぐらい過酷な長期ロードに乗り出す。ファンはかざしたトラッキーの手を振りつつ泣いて見送る。疲れが溜まりやすくなるし、それに、ホームでの試合と違い、阪神園芸の名手たちがマウンドを投げやすいよう馴らしてくれることはない。負けが嵩み、順位は脂ぎった壮年男性の前髪のように後退していく。城下町こと阪神尼崎商店街のアーケードを見上げれば、あやしい虎柄の金魚とともにぶらさがるマジックとは名ばかりの謎の数字は、勝ってないくせ目を離したすきに減り、文字通りのマジックナンバーと化す。この季節、私たち阪神ファンは、だんだん縦縞がうすれてあおい夏毛に変わるかのごとく、一時的にオリックスファンになりすますこともある。むしろオリックスから来てくれたのにごめんね、西くん、でも援護しないのはファンじゃなくて打線だよ。オリックスも、イチローや超絶イケメンの王子様こと星野伸之がいたころが全盛期で、とくに近鉄と悪魔合体したあとは、「スターダスト打線」と監督直々に揶揄されるぐらい残りカスだったはずの楽天にさきに優勝されるなど、しばらく低迷していたが、最近は山本由伸をはじめ何故か名前に「山」がつく投手陣と、吉田正尚やらラオウやら紅林やら、わかい好選手たちが出てきて、あの「がんばろうKOBE」の熱狂を思い出させる。高校野球はといえば、尼崎の高校は、二回戦、序盤に中軸がまさかのスーサイドスクイズという、勝負手からの一点リードで進めるも、試合巧者の名門校の真綿で首を締めるような搦め手にハマり、「魔曲」とも称される相手校のおどろおどろしいチャンステーマに浮き足立つ形で、7回裏ワンアウト満塁からイージーな送球エラーとバント処理を焦ったフィルダースチョイス絡みの大量失点があって、泣きながら砂を集めるが、近所の砂だとおもえば一層ものがなしく、ベスト4には今年も同窓会ぐらい顔なじみの面子が並び、一校だけ場違いの新興校がサラダバーをうろつくように気まずそう。大阪代表が地方大会のあやしいガンながら150㎞/hを記録したという左のエースを温存したまま勝ち進んでいたため、ベスト4の相手はどこも流行りといおうか打線に左が多いし、いわゆる「甲子園の魔物」がよっぽどはしゃぐのでなければ、今年も大阪で決まりだろうと思われた。やっぱり大阪府大会の決勝戦がいちばん面白いよな、と、深酒ののち寝坊して観に行けなかったことを悔やむ。ビールをそれほど美味しくかんじないようになった。ヤクルトぐらい毎日飲んでいればそりゃそうなるだろう、という趣きもあろうが、徐々に、瀬戸内の夏らしい、むきだしの肌が茹だって「おい、もう一杯!」と野暮ったく呼びかけてくるような蒸し暑さが薄れつつあるのだ。夕暮れどきには秋のはじまりを告げるちぢれ雲がくれないに焼けている。なにかが燻っているようなさびしい匂いが林檎で甘くしたカレーの匂いに溶け、くしゃみを鼻水とともに薄暗いキッチンへまぎらせれば、とおくから稲の花粉がおとずれたのか、目元がしめっているのであった。

 夏美が、欲しいものがある、というので、いまさらなんだ、と前のめりに尋ねたところ、スマホの充電器を送ってほしい、とのことである。なるほど、インスタをずっと更新してないと思ったら、バッテリが切れていたのか。まあ更新したければもっと早く言い出しただろうから、更新したいことがなかった、というのも正直なところだろう。そして今になり、彼女はその対象を見つけたのだと知る。

 それで私はやっと夏美に今まで言ってなかったことを教えた。母親が私じゃないことは、私を「春子」と呼んだところからして、うすうす勘づいていたんだろう、受け止めていたようだが、あの震災のとき、彼女が福島にいて、被災していたことを知らされれば、「それ、愁香さんにも聴いたけど、ぜんぜん、覚えてないんだよね」と、かすれた声で呻いた。もうとっくに物心のついた小学生だったのだけれど、ショックがひどかったと思われ、引き取ってしばらく、解離性障害の治療にも苦労した、どころか、それでなくても子育てのやり方は手探りだし、人がやさしい尼崎とはいえ事情が事情だけにヘルプを出しにくかったし、デビューしたての恋は原稿に追われていたうえ意外と育児がうまかったのが逆に癇に障り、孤独で、食事のかわりに粗悪なウイスキーを1・8リットルのペットボトルから煽るぐらいのノイローゼだった。見かねた愁香がいちど、尼崎に来てくれて、ほんの数日だが、夏美の面倒を見てくれると、嘘のように夏美は大人しく、笑うようになり、帰りぎわ、愁香が手土産の日本酒とともに残した「別に春子は母親なわけじゃないんだし、適当にやったらいいよ」って彼女らしい投げやりな言葉が、あのときはどんな言葉よりも救いだったっけ。愁香がくれた会津の日本酒はすごく美味く、現金な胃が安酒を受け付けなくなったので、アル中寸前の状態から抜け出すことができたんだ。夏美がすべてを忘れたのも、防衛本能だろうし、どこまで話していいのか悩んだけれど、津波にさらわれて行方不明になったままのほんとうの父親のことは、ぜったい話さないといけないと感じ、私の気持ち以外のすべてを伝えた。どんな父親だったの、と訊かれたが、うまく言葉にならなかったので、すごく顔のいい人だったよ、とそれだけを伝えた。愁香に嫉妬するほどに、というのは、余計な気がして、言わなかった。夏美は、じゃあそれわたしにも遺伝してるね、と無邪気に笑う。そうだ、夏美はほんとうにいい子に育った。手前味噌ながら、私の育て方がよかったのだという自負は正直、すこしある。けれど、どうしても彼女のなかには私が形成しえない素性のよさというものもあり、それこそ父親の海晴さんや母親の愁香から受け継いだものなのだろう。夏美は尼崎の海があまり好きではなかった。友だちから釣りに誘われても、つまんなさそうな顔で帰ってきたとき、ああ、この子は、福島の、潮目の海の子なんだと、消えようもないものを感じる。

 津波てんでんこ、という、あの津波のあとに全国的にもよく知られるようになった言葉がある。津波がやってくる前は、親も子どもも捨てててんでばらばらに逃げろ、と、かつて何度も津波に見舞われた土地を生き残るために伝わった教訓だという。私はその言葉を、あの震災より前に知っていた。他ならぬ海晴さんが教えてくれたのだ。「あの言葉を残酷っていう人もいるけど、ほんとうの意味は、津波が来ても家族みんなが逃げてると信じられるぐらい、お互いを信頼できる家庭を作れって意味なんだよな」と。打ち解けたときに彼の言葉にまじる福島訛りが好きだった。まだ幼い夏美をだっこして寝かしつけながら呟いたその言葉には、そういう家庭を作りたい、という意味も込められていたのだろう。

 津波は、陸に達するとオリンピックの短距離金メダリストほどのスピードがあり、だからこそ津波を見てからでは逃げられないと教えられるわけだが、沖にあるときにはジェット機ぐらいのスピードがある。陸に近づけば近づくほど遅くなり、波が前の波に追いつく形でどんどん増幅していく。よって船は港でまともに津波を浴びれば転覆を免れないため、できるだけ早く出航させる必要があった。それなのに、海晴さんは船をすぐに沖へと逃がさず、港町で避難できずにいるお年寄りたちを一人でも多く船に乗せられるよう奔走した。津波が押し寄せてもなお。

 三十六人。海晴さんが船に乗せたことより助かった人数らしい。彼がいなければ、地震の死者・行方不明者は三十六増えていた。少なくはないだろうけれど、それが海晴さんの命と引き換えだと考えたとき、多いといえるのかも分からない。震災後、関西でも東北でも、数字あそびが始まった。人は数字でしか程度を測れないんだろう。破格な義援金をくれたある野球選手は、年俸調停のおりに「誠意とは言葉ではなく金額」という名言を残したらしい。すなわち数字とはリアリティで、三十六人が生き残ったことや、七千余人、あるいは、二万二千余人の死者・行方不明者はリアルでも、海晴さんが海に消えたことは、ちっともリアルじゃない。

 津波に呑み込まれる直前、海晴さんが私にくれたメールがあるというと、夏美は、転送して、と強請った。私にとってそのメールは宝物であり、罪深いものであったから、誰にも見せないつもりだったが、世界中でたったひとり、夏美だけはそれを見る資格があるかもしれないな、と思い、ウェブメールに転送しておいた彼のメールを重要フォルダから見つけ、噛みしめるように読み直したのち、スクリーンショットを取得し、LINEで夏美に送った。わずかな文面でも、スマホの解像度はそれなりに高く、今月のギガが切れた通信速度はたよりないから、送信にはなにかがわだかまっているような間があった。

『恋のこと。そろそろ許してみる気になったりしてる?』

 話をひとしきり終えたころ、夏美は声をひそめてそのことを尋ねてきた。そもそも私たちは何のために喧嘩をしているのだろうか。許されるべきは、恋なのか、それとも、私なのか。

「私は、恋を引き留めたらいいのか、背中を押したらいいのか、分からない」

 そう答えると、夏美は即座に、

『決まってんじゃん。ばか』

 と言い、そのまま電話を切ってしまった。調子がいいかもしれないけれど、夏美がいちばんに考えてくれてるのは私だと思う。そして私のことをいちばんに考えてくれてるのも、また夏美だ。私は夏美を幸せにした。だから、私も幸せになっていいのかもしれない。この物語は、誰もが幸せになる形でないと終わらないのかもしれないと考える。愁香も、恋も、冬馬くんも。たぶん夏美もおなじように考えているだろう。冬馬くんが実の弟であることは知っただろうか。彼が心臓の欠損を抱えており、あと一年も生きられないことは知っているだろうか。その一年は、長いのか、短いのか、ただ幸せになるのがみな同時ならば、不幸になるのもまたみな同時なのではないか。一年という期間は、私たちの仮初の幸せに与えられたタイムリミットともそう遠くない。冬馬くんの心臓に欠損を与えたのは私かもしれない。あのとき、私が愁香とちゃんと接することができていれば、夏美を連れていかなければ、それとも、愁香を連れていっしょに帰っていれば、なにごともなく冬馬くんを産むことができていたのではないか。もっとちゃんと繋がれたらよかったのに。震災後の神戸と福島のように。「絆」という、あまり好きでなかった言葉のことを考える。もしもほんとうに、みながひとつになれたなら。震災の物語は、誰もがひとしく幸せになる形でしか終わらない。けれど、死者も幸せになる道なんてないに違いなくて、なおさら数字あそびではなく、ひとりの死をすべてのように悲しみたい。

 数日後、夏美に送ったLINEに既読マークが付いていた。ウィルキンソンの段ボール箱いっぱいに詰め込んだお菓子とともに充電器を送った宅配便が届き、スマホのバッテリが回復したんだろう。二枚のスクリーンショットには、私と海晴さんがかわしたさいごの会話が写っている。14時51分。私は<絶対に帰ってきて。死ぬのは許さない>と人生でいちばんはやいポケベル打ちでメールを送った。海晴さんはすぐに<絶対帰るから、それまで夏美を頼む>と返事をくれた。震災直後、ほんのわずかな時間だけ、携帯の電波は通じていたらしい。そのたよりない糸をたぐるように、海晴さんがさいごの言葉を伝えたのは、愁香ではなく、恋ではなく、私だったのだ。私が海晴さんに送ったメッセージを読んで、夏美は私の気持ちを汲み取ることができただろうか。あのメッセージにつづいた、私の身勝手な告白には、より赤裸々な気持ちが表れていたが、それを夏美に送るのは躊躇われた。

 津波によって家の土台以外のすべてがさらわれた土地に、一本の鉄塔だけが残されていた。そのてっぺんから、夏美が救い出された。その鉄塔は南京錠に封鎖されていたし、子どものちからでは決して達することのできない高所にどうやって上がることができたのか、不思議に思ったみなは残されたまっぷたつの南京錠を訝しみつつ、夏美を「奇跡の子」と呼んだという。低体温症で頬があおじろく、目の焦点があわない彼女に会った私は、ふたつのことを思った。ひとつは「夏美を私に託したのは海晴さんだ」ということ。

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