また来世で

『あのね、こっちに震災のことを記録したカフェがあってね。そこで写真集買ったの』

 一日一回、必ずかけるように、と約束していた電話を取るなり、夏美がはずんだ声で教えてくれた。滑舌がよいので、今日はめずらしく酒を飲んでないらしい。

『津波の被災地にさ、いろんな遺品が残ってたんだけど。その写真を撮った写真集なの。泥だらけの生徒手帳とかね、水をかぶったそれぞれの時間で止まった時計とか、あと赤ちゃんの服とか。すごい怖くて、でも、気持ち悪かったりもして』

 キッチンの端っこに据えたペットボトル用ゴミ箱に背中を預けるかたちで座り込み、隣家のやたら亀がおおい古池で湧いている蚊に刺されたふくらはぎを掻きながら夏美の話に耳をかたむけ、ああ私は、震災のことを教えるために夏美を福島に送ったのかもしれないなあ、と、心臓がはねる一方、いつものパニックディスオーダーではなく、心が落ち着いていくのを感じた。

『でもね、そのなかに、ひとつだけ、すごくいいな、と思えたものがあって。あのね、高校の、黒板なの。教室は津波に流されたんだけど、黒板だけは残ってて、さいご、生徒たちが書いたチョークの文字が、だいぶかすれてるんだけどちゃんと読み取れるの。忘れないでって言ってるみたいに』

 そうか、三月十一日は、ちょうど学校が春休みに入る手前だ。震災直後、私と恋が福島にかけつけたときも、避難所の体育館には「卒業証書授与式」の垂れ幕がきれいなまま壇上にぶら下がってたっけ。教室で津波におそわれることも知らない高校生たちは、黒板になにを残したのだろうか。「うん」とちいさく相づちを打ち、話の先をうながす。蚊に刺されてぷっくり膨らんだ肌にいつのまにか爪で十字の跡を刻んでおり、カトリック系の高校で救われたことなんか何もないと思っていたのに、ぴりぴりと痛かった。

『すごいの。ふつうにね、卒業式を終えた子たち特有の、のんびりした、ちょっとふざけた、カラフルな文字が黒板には躍ってたの。なかには「また来世で」みたいな言葉もあったりして、笑えないんだけど、ぜんぜん明るいの』

 夏美の言葉に、私もまた高校生だったあのころを重ねようとする。うまく重ならないのは、時代の違いか、倒壊と水没の違いゆえか。が、土地の違いではないはずだ。福島の震災ののち、県外への避難先として、意外と多かったのが沖縄だった。そしてまた、関西に避難してきた人も多かった。とりわけ原発事故に追われた避難民たちは、噂というのは怖いもので、各所で「福島くん」と呼ばれたり「放射能が伝染るから近寄らないで」と言われるなど差別を浴びたが、基地問題がのこる沖縄や、かつて震災を体験した関西では、あたたかく迎えられることが多かったという。

『でね、その文字のなかに、「○○先生、ずっと好きでした」ていう言葉があって。ピンクのチョークでね。好き、のところだけ筆圧が弱くて、でも消えてなくて。もうそれで、泣けちゃって。というのはね、わたし、こういうふうに人を好きになったことはないなあ、というのが寂しくて。でもそんなこと、もちろん彼氏には言えないから、真っ先に、春子に伝えたかったの!』

 電話のむこうで、夏美は、ふふ、と笑う。夏美の彼氏に会ったことはないが、ハリウッド映画のシールだらけのあかいモトコンポとならんだ後ろ姿だけ写真で見たことはあった。タイトなジーンズできゅっと締まったなかなか好みのお尻だった。というよりも、夏美ですら彼氏に会ったことはないというから、はたして彼氏と呼んでいいものか、それとも私の感覚が古いのか。言い出せないのかもしれないから「べつに会ってきてもいいよ」と旅費の援助をかもしつつ助け船を出せば、「どこに住んでるか知らないし、興味もないし、べつに会いたくないし」とスマホを弄りながらつれないあたり、よく分からない。私ならキスとかそのさきもしたいけどなあ。いまどきの子って、淡泊。インスタという画像や動画を配信する系のSNSで知り合ったらしい。フォロワーという、おそらくファンみたいな存在が、その彼氏には数千人いて、夏美には数万人いる。このあたりになると、私の感覚はいよいよ追いつかない。ただ、すごいなあ、と思うだけだ。夏美にせがまれて、私もインスタのアカウントは取り、夏美と彼氏くんのアカウントだけフォローして、投稿はしないものの、彼女らの画像や動画を閲覧したり、「いいね!」を押してあげることはあった。彼氏くんはカメラマン志望なのか、旅行が好きなのか、日本各地の街角で撮ったおしゃれな写真を投稿することが多く、凝ったアプリのフィルタをかけたうえ意味深なようでよくわからない英語のワンフレーズを添えているため、「意識高いねえ」とからかってみたくもなるけれど、海外のフォロワーから多国語でコメントが寄せられ、英語と中国語ぐらいしかよく分からないが丁寧そうなリプライをひとつひとつ返している。いっぽう夏美が投稿するのはたいていが動画だ。それも、夏美たち女子高生がまっしろいマスクをして、スカートがみじかい制服姿で、ヒップホップライクなK―POPに合わせながらゆらゆら揺れてるものが多い。彼氏くんはためいきが出るほどうつくしい鏡張りの海に絹をうすくひいたような鰯雲が流れていくベストショットを掲載しても数十件のコメントが付くだけなのに、夏美はちょっと制服でエチゼンクラゲみたいにおよいでスカートがひるがえったおりにスパッツが覗くだけで数万のフォロワーが付くあたり、女子高生ってイージー、ってつい口に出してしまったりもしたけれど、夏美もそれは「わかってる」らしかった。「いまが消費期限だから、しっかり消費されとかないと」なんて風呂あがりに泥パックで顔を覆ったまま低脂肪の豆乳をおおきなタンブラーから飲み干してげっぷとともに言ってのけるのは、タフだなと思う。そして事故に由来する立ち入り禁止区域が原発から北西方向になお点在し、十年間手つかずの廃墟や数字のたかいモニタリングポストといった震災の傷がいまだ修復されないままの福島にいる今、下品な言い方をすれば「映(ば)える」動画とか写真はいくらでも撮れるだろうに、そうしないところ、彼女の誠実さをこの日の話からも感じた。

『わたし、震災というものに、どう向き合っていいのか、分からなかった。正直にそう言ったら、その写真集を売ってくれたカフェのオーナーさんがね、「震災とは不真面目に向き合ってもいいと思うよ」って言ってくれて、ちょっとだけ気持ちが軽くなったの』

 そうか。その言葉は、あのころの私が聞きたかったな。

『春子の体験した震災は、どんなかんじだったの? 福島のじゃなくて、ほら、阪神の』

 芋虫をつぶしたような苦い気持ちをかみしめていると、夏美がそう尋ねてくれた。彼女がそう言ったままの、軽薄な関心がよかった。

「私が体験した震災は、地獄でした」

 だから私もたぶん、軽薄に答えることができた。

「夏美もね、写真とかでは見たことあると思うけど、体験してみないと、あれは分からない。おばあちゃんみたいなことをくどくど言ってるかな。でもね、これだけインターネットが広まって、被災地の動画とか、すごくリアルなYouTubeで観ることができても、絶対に映らないものがあるんだ。私は見たし、聞いたし、人の肉が焼ける匂いを嗅いだし、触って、かすかすの小指の骨を奥歯で味わったから、そうだって知ってる。だから、今あなたがそこで、福島に立つことができて、すごくよかったと思ってる」

 そう話し、私が知る、語ることのできるいくつかを教えた。両親が潰された瓦礫のまえで叫んだこと、上空をいくつも旋回するヘリコプターの空しさ、仮設住宅のうすい石膏ボードの隙間を古新聞で埋めて寒さを堪えたこと、生理なのに替えの下着がなくチョコレート色の日の丸がみじめだったこと、一週間ぶりに入った風呂でやっと生き残ったのだと実感したこと、強姦が流行っている噂を聞いて財布のなかのコンドームを確かめつつ男の人が怖くなったこと、吐く息のおろしたての絵具みたいなしろさ、星空なんて意地でも見てやらないと余震のたび地面を睨んだこと、一度しか泣かなかったこと。やっと涙が出たのがそんなときで死ぬほど悔しかったこと。

 話してみて、思った。このいくつかは、夏美が当時、福島で、ちゃんと体験したことじゃないか。覚えていないのだろうか。思い出させていいのだろうか。壊れた電気ストーブの毛羽立ったコードを仮設住宅のドアノブに巻いて首を吊り死のうとしたことまで話すと、夏美は『やっぱりわたしは、不真面目でいいとは思えない』と低くなった声をしぼりだす。私は何も言えなかった。答えは、夏美しか持ってないからだ。だから『わたし、もうちょっと福島にいたい』という言葉はしっかり受け止め、「ちゃんと帰ってきてね」とだけ伝えた。夏美がスマホだけ持って夜のコンビニに出かけたときよく口にしたようなぞんざいさで。いつか帰ってくるとき、夏美はバイオマスのビニル袋にぶらさげた大好物だというSUNAOの代わり、なにを持っているだろう。愁香に買ってもらったというたくさんの服は持っているだろうか。となりに恋はいるだろうか。わからなくていい。だってまだ、そのときじゃないんだから。ただ私は、夏美がたとえ帰ってこないとしても、過去より未来を愛してほしい。あのときの私が、そう決めたように。愁香にお礼を言いたいと思ったが、伝えたい言葉が見つからず、スマホを置いた。ロックを解除したときだけあらわれる壁紙には、高一の私と中三の愁香が、とがらせた口を揃えたまま不器用なピースサインを並べている。離れる直前、いっしょに徹カラに行った明朝の写真だな。あんなに仲が悪かったのに、どうしてこの写真を選んだのか、分からない。

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