奇跡の子

 暇を持て余したので、甲子園へ行くことにした。尼崎からであれば、高度経済成長のころは公害で知られていたらしい東西の大動脈である43号線沿いに、電動アシストはおろか変速機すらないチェーンが錆びたママチャリでも三十分走ればいける。40㎞制限のはずの道をびゅんびゅん左から追い抜かしていく芦屋ゆかりのポルシェやBMW。県境をこえるとパトカーが待ち構えてるけどね。横断歩道のない交差点をのっぽな歩道橋で越えるのは難渋するが、ちょうど頭上を阪神高速が通っており、北側にほどよい日影を作ってくれていた。ほんとうは優勝候補である大阪代表の試合が観たかったのだけど、相手もそう強くない一回戦とはいえ観客は多いだろうし、正直、りっぱな舞洲ベースボールスタジアムで行われる大阪府大会の決勝のほうが、「阪神タイガースより強い」と揶揄されるぐらい、プロ顔負けの熱い試合だと知っていたので、地元・尼崎の市立高校が目当てである。市立とはいえ、沖縄のチームに代わって吹奏楽部が応援を手伝うこともあるほど甲子園のお膝元、野球のレベルはかなり高く、元ヤクルトの「ブンブン丸」はじめ、一線級のプロ野球選手をおおく輩出している。まっさおな空の入道雲がたけだけしい高校野球びより、アスファルトから立ちのぼる熱気にねばっこい汗がじわじわと噴き上がり、Tシャツが背中に糊付けされて、武庫川を立ちこぎで越えるときのかぐわしい潮風がぱっつんの前髪がういた額に気持ちよかった。球場に入るなり、販売よりも試合展開に気がそぞろな売り子さんからかちわり氷を買い、やはりそれほど人が多くなく、スポーツ新聞に赤を入れた競艇のページを枕に居眠りしていたり、週刊朝日の甲子園特集と双眼鏡をしきりに持ち替えながらスカウトの真似事をしていたり、阪神タイガースの05年優勝記念メガホンを握ってフェミニストなら卒倒しそうなほど口汚い野次を飛ばす尼崎らしい観客の隙間を縫って、そろそろ年齢的に長時間座るのが辛くなってきた石より硬い外野席のはじっこに混ざる。夏美の中学の同級生もいる高校だったので、保護者のなかには知った顔があった。わけてもらった消費者金融の広告つきの団扇で火照った顔をさましながら、左後方のバックスクリーンに点灯するスコアボードを覗き込むと、締まった投手戦の中盤といった様相、たこ焼き屋のように0ばかり並んでいる。そろそろ爪楊枝がほしいな。体もまだ堅いだろう初戦、ほどよい緊張感で臨めているのか、高校野球らしくなくエラーが記録されていない好ゲームだ。ツーアウト一塁、さらに塁に出せば得点圏で上位打線に回ってしまう重要な局面、おおいかぶさるようなバスター気味のカット打法で速球を粘られたあげく、打たせにいった外角低めに逃げるゆるい変化球を、待たれていたのか背のひくい相手打者にちからいっぱい引っ張られたものの、ダウンスイングでボールの上っ面を叩いたんだろう、鈍い金属音ののち、三遊間へのバウンドが高い打球に砂煙が舞う。トップスピンのかかったむずかしい打球の跳ねぎわを、尼崎の高校の遊撃手が逆シングルでなんなく捌き、スナップのきいたサイド気味のジャンピングスローで二塁に送球した。そうきわどいタイミングでもなかったが、前かがみにベースを睨む塁審が威厳をしめすような間をおいてアウトをコールし、両校の席から歓声と嘆声が交錯する。私も割れんばかりの拍手で応えた。いきおいそのまま地面にたおれ土まみれになった遊撃手が、早足でベンチに戻ってからようやくちいさなガッツポーズを作ったのが遠目にうかがえて、頬がゆるむ。

「あれ? 春ピーじゃない?」

 後ろから声がかけられ、ふるいアイドルに由来するその仇名で私が呼ばれるのは珍しかったので、怪訝に思いながら振り返ると、神戸から尼崎に避難してきて以来つづいている幼なじみが、両手でひさしを作りながらまぶしそうに微笑んでいた。高三のときおなじクラスで、その後の進路は大学に行った彼女と行かなかった私とで別れたのだが、家がおなじ団地のなかにあって、震災ののち一人暮らしだった私は時々ごはんをご馳走になったり、那智勝浦の川沿いのキャンプに誘ってもらったり、つかず離れずの付き合いが続いていた。夏美と年のちかい息子がいたので、いまはそういうことも減ったけど、夏美がまだ幼いころは交通公園で子どもらにバドミントンをさせつつ、子育ての相談にもよく乗ってもらっていた。大学のときの合コンで知り合ったという旦那さんが市役所勤めで行政にくわしく、市営住宅を借りる折りも便宜を図ってもらったのである。

「あれ? 由佳じゃん! なんでこんなところにいんの?」

 女子校出身らしいといおうか、きゃー、と手をあわせながら不意の再会をなつかしむ。由佳の息子の光輝くんは夏美の一個下だからいま高校二年生だったはずで、野球の名門でもある西宮の進学校に通っていたはずだが、そこの高校は県大会の決勝で敗退していたから、こんなところで会えるとは思わなかった。

「光輝が塾の講習に行ってるからさあ。暇なんだよね。となるとやっぱ高校野球じゃん。テレビ観てたらさあ、昔の血が騒いできて。どうせすぐ来れるし、と思って、自転車で駆けつけちゃった。ほんとうは大阪代表の試合観たかったんだけど、そっちは客が多いだろうし。市尼は光輝の高校が決勝でサヨナラ負けしたとこだから、複雑だけどね」

 安っぽい白無地のTシャツにくたくたの綿パン、あしもとは裸足にクロックス、そして手ぶらという、ふだんはもっとコンサバの上下にブランド物のハンドバッグでまとめるのだが、近所を出歩くようないでたちの由佳がにこにこ笑いながら言う。つまり、私とおなじようなノリで甲子園に遊びに、というより暇つぶしに来たわけだ。昔の血が騒ぐ、というのもよく分かる。受験勉強が忙しい由佳たちを「力学の補講いかない?」と言いくるめ、よく制服のまま電車を乗り継いで球場に向かったな。メジャーリーグ仕様のグリーンスタジアム。デイゲームでもないのに目のしたを墨汁でくろく塗ったりした。「がんばろうKOBE」という流行語大賞にもなったフレーズに代表される時代だっただろう。阪神よりも近鉄よりもオリックスが好きだった。まだ日本にいたころのイチローが野村ヤクルトの秘策「インハイを攻める」というブラフにチンチンにされ、放課後に放送室をジャックして固唾を呑みつつラジオを聞きながら、オマリーのホームランにみんな抱き合って号泣したっけ。

 由佳の旦那さんは、朝鮮学校とかかわる部署の係長に出世したこともあり、韓国に語学留学中で、息子の光輝くんはまだ高二にも関わらず、阪大薬学部をねらった受験勉強が忙しいらしい。私はといえば、夫の恋は確定申告の漏れで税務署があわれむぐらい小説の収入がとぼしいなか、福島であっちのほうの異文化交流が忙しく、いやはや、絶賛浮気中で、娘の夏美はもう高三なのにろくに勉強せず、いちおう将来のことを考えてはいる風情、私立とはいえそこそこ名門の京都の大学がC判定というびみょうな模試の結果を置き去りに、恋を追いかけて行ってしまった。なんとも恥ずかしい話ではあるけれど、由佳とはナプキンの貸し借りをしたり体位の手ほどきをしあったり、キスも言えない箇所にしたことがあるし、いまさら照れるような間柄でもないので、悩みを洗いざらい打ち明けた。

「夏美ちゃんは、春ピーが実の母親じゃなくって、愁香さんが実の母親ってことは知ってるの? それを知って福島に行ったってこと?」

 由佳にはいろんなことをすでに教えてあるから、なんせ話が早い。恋すらも気づいていないような彼の性感帯まで、スタバの紙ナプキンにM字開脚の絵つきで示したことがある。とにかく口が堅いのが由佳という子だ。オリックスの若月もキャップもといマスクを脱ぐような壁性能である。

「言ったことはないんだよねえ。でも今回の旅で、そのことは知っちゃうんだろうね」

 そう答えてみて、ずいぶんのんびりした口調に自分がおどろく。グラウンドでは整備が行われており、阪神園芸のとぐろを巻いたホースから糸をひく水が音もなくはじけ、球場はちょうど息をつぐみたいに静かだった。トイレに向かう客たちでつぶれたビール缶の散らかった狭い通路が混雑している。かわいいシュシュでまとめたポニーテールの垂れるうなじが色っぽい赤銅色に日焼けしたチアリーディング部が、ハローキティのタオルを輪ゴムで巻いたペットボトルで水分補給を試みるも、この熱気のなか頑固な氷がまだ溶けきっておらず、口に咥えたままべこべこと柔らかいプラスチックを潰して、りんご味のいろはすを押し出すのに苦戦している。フェラチオも知らないのか。若いっていいなあ。

「え、それ、まずくない?」

 由佳は率直に言ってくれる。まずくない、というのは、夏美がそのまま福島に居着いちゃうんじゃないか、という意味なんだろう。

「私はそれでも構わないよ。もともと、夏美は私にとって、愁香と海晴さんからの預かりものだし。いつか返さないといけない時がくるんじゃないかって、そう思ってた」

 欠伸まじりの声があわあわとした。自分で言って、なんのてらいもない本心を口にしてるのだと分かる。分かりきってることを話すときは眠くなっちゃう。たいくつな倫理とか保健の授業で教科書を朗読するみたいに。

「でもそれさあ、恋くんもそのまま福島に残るってことでしょ? それは、返すっていうのとは、違うくない?」

 由佳の子どもが大きくなったころ、彼女たちは駐車場がわりのひろい芝生がある三階建てに引っ越したので、そのぐらいから家族ぐるみでバーベキューをすることがよくあった。だから由佳も恋とは面識があり、「だらしなさそうな人だよねえ」と酔ったすえに率直な感想をささやいたり、火遊びの折りには面とむかって説教してくれることもあった。「文春に売るよ!」と市外局番03の電話番号を打ちこんだスマホを水戸黄門の印籠よろしくかざしながら舌鋒するどく迫ったのはまさか本気だったのか、天下の出版社が震災元年のデビューから十年たちすっかり落ちぶれた作家を相手にするとは思えないが。

「恋と夏美がそれでいいなら、私はそれでもいいかな」

 なんかつかれちゃって、と、漏らす。由佳は私から顔を背け、シャーペンの芯が何本乗るか遊んだことがあるぐらい睫毛がカールした目をおおきく開いて、誰もいないグラウンドをしばらく見つめたあと、高校の休み時間にブラックサンダーを賭けて五目並べをあそんだときやたら真剣だったように言葉を置いた。

「愁香さんと冬馬くんがそれでいいなら、とは言わないんだね」

 なかなかに厳しい口調で、言葉だった。

 恋が福島から帰ってこないもうひとつの理由を知っている。愁香の息子の冬馬くんだ。震災の年に産まれた冬馬くんは、うまれつき心臓に欠損があり、このままでは成人できない、と幼いころから言われていたが、宣告された寿命がしだいに短くなり、いよいよ来年の夏を迎えることはできないのだと知ってすぐ、恋は福島に飛んだ。いったい彼になにができるのか分からない。愁香の力になれているのかも分からない。心臓手術の費用として三億円がいると聞いた。うちの家計から出したい、と重い話題があるときはいつもそうであるとおりミスタードーナツで告白されたとき、怒るよりさきに呆れてしまった。コーヒーのおかわりで数時間ねばるうえシュガースティックを持って帰るような、売れない作家の財布のどこにそんな大金が入っているというのか。レシートとおみくじでぱんぱんに膨れ上がったダイソーの長財布を叩けば倍になるとでもいうのか。挑発的に、あなたの印税から出すならいいよ、と答えたのが、結果として恋の背中を押すかたちになったのは否めない。とはいえ、印税なんてよくてせいぜい一割。二千円の単行本がこの出版不況の折りにものすごく運よく百万部さばけたとして、印税の額面として計算できるのは二億円。そこから税金やらを取られれば実入りは半減する。恋は、彼曰く「渾身の、最後の震災文学」でその三億円を稼ぎたいつもりらしかったが、無謀がすぎるのだということを、私はあえて言わなかったけれど、なんで自分で気づけないのだろう。恋にはちょっとそういうところがある。万事においてロマンチシズムが過ぎる。もちろん、それが彼のいいところだと知ってもいる。震災から十年経ち、あのおおげさな復興五輪で元・被災地のきれいなところばかりが映された聖火リレーをピリオドに、いよいよ世論は燃料費の高騰で原発再稼働を支持するぐらい、震災から離れてしまった。恋の作品ふくめ、震災の本がまったく売れなくなった、出版されなくなった昨今、まだ売れてたころは他のテーマでの執筆依頼がたくさんあったにも関わらず、ほとんど断ってなお震災文学にこだわり続けているのは立派だと素直に思う。

 恋が福島にいることで、愁香と冬馬くんがありもしない期待を持ってしまうのではないか。由佳が懸念したのはそこなんだろう。そう思えば、恋を手放した私は優しくない。でも、優しくなれるほど強くもない。

「これ、私の勘だけど、春ピーはたぶん、大丈夫なんだと思うな」

 試合が再開したころ、由佳は鼻のあたまのファンデーションだけ汗でほんのりと浮いたとんちきな表情で、私に笑いかけてくれた。彼女は昔からタロット占いだとか風水が好きで、よくそういう根拠のない言い回しで私を励ましてくれた。今風にいえば「スピってる」ってやつなのかもしれないけれど、彼女はいつもポジティブなことしか言わなかったから、図書室のこっくりさんで白目を剥いて倒れたあげく全校集会できつく絞られた事件をのぞけば、折りにつけ彼女のそういう面には救われていたと思う。

「だって春ピー、震災で尼崎に越してきたとき、もっとひどい顔してたもん。おぼえてる? 奇跡の子」

 由佳のさめた目線が私に与えられる。そうだ、あのころ、由佳も、他の子たちも、私をそういう目で見てたな。

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