祈りの歌声
その日は教会も普段の厳かで静かな雰囲気とは打って変わって、朝日が顔を出しはじめる早朝ともなれば、慌ただしく人がバタバタと行き来する事態だ。
時間が経つにつれ、いても立ってもいられなくなるようなそわそわとした気持ちに襲われて、フィアルは不安で溢れた胸の前で左手を握る。
右手には教会で使われている教科書を開いており、直前となった今にまで礼拝に関しての作法や歌の復習をしていた。
「どうしよう」
そうリミーナへ詰め寄ったフィアルは既にいつもの修道服へと着替えを済ませていたが、リミーナはまだまったりと気だるそうに着替えをしていた。
彼女が大きな欠伸をこぼす様子は、朝から元気にフィアルのことも起こしてくれる普段の印象とはだいぶ違う。時刻はいつも起きる時間よりもだいぶ早い早朝で、毎日八時間は眠りたい、と豪語するリミーナにしてみれば寝足りないのだろう。
「え、フィアル……何?」
寝ぼけた
「うまくできるかな」
すっかり目も覚めてしまっているフィアルに反して、リミーナは普段通りといった調子で、「フィアルなら大丈夫でしょ」と適当な返事しかしてくれない。
フィアルの中でも「まあ大丈夫でしょう」と楽観する気持ちと、「本当に大丈夫かな」という不安な気持ちが入り乱れていた。
それはまたしても紅き乙女として目覚めてしまった弊害であるのかもしれない。
いくら何度世界を灼いてきた身だとしても、フィアルとして覚える拭えない不安や緊張というものをどうしても感じるらしい。
今さら復習のために教科書を開いたところでそこに書いてあることが頭に入ってくるはずもなく。結局はリミーナに教科書は取り上げられてしまって、無情にもぱたりと閉じられた。
「フィアルはいつも、なんでもできちゃう優等生なんだから!」
親友はそう言って背中をぽんと軽く叩いてくれはするけれど、フィアルは「でもぉ」と情けない声をこぼして背中を丸めてしまう。
「大一番、シャキッとしないと!」
落ち込んだフィアルの様子が面白かったのか、リミーナはそんなやり取りをしている間にすっかり目も覚めたようで、にこにこと笑っている。
リミーナはそのままクローゼットの中から修道服とセットになるベールを取り出すと、髪をひとまとめに首の後ろに回してそれをかぶった。
「はいっ」とフィアルにもベールを手渡してくる。
フィアルは教科書の代わりに渋々それを受け取って、同じように髪を首の後ろへ回してベールをかぶる。
そうこうしているうちにグランマより言いつけられている集合の時間は迫っていて、「ほら、行くよ」とリミーナに両肩を押される形で、フィアルは自室を出た。
部屋を出たところで決心が一つついたのか、階段を下る頃にはフィアルの背筋にも力が入ってしゃきりと伸びる。それもまた、本堂大広間に近づいている緊張のためでもあったのかもしれないが、そこへ足を踏み入れるときには、二人ともしっかりと一人前の修道女らしいキリリとした顔つきになっていた。
三階まで吹き抜けとなるテレシアル大教会の本堂には窓も多く、至るところから燦々と顔を出す朝日が降り注ぐ。白色を基調とした大広間は眩しいほどだ。
天井部は綺麗な紅色を主軸にしたステンドグラスで彩られていて、本堂中央へは紅い光が差し込んでいた。それを『赤薔薇の光』だと称した人もいたらしい。フィアルやそこで暮らしている修道女たちには見慣れた色だとしても、そうして大きな礼拝のために彩られている本堂からはいつもと違った印象を受けた。
既に大勢の兵士たちが礼拝のために集まっている。皆一様に白銀の鎧を装備し、腰や背中に得物を携えてきちりと整列していた。
普段は男子禁制で人の出入りも少ない大教会も、この日ばかりは大勢の人が出入りすることが許可されている。昨日からこの日のために、先輩修道女たちは掃除や飾りつけに奮闘し、フィアルやリミーナもそれを手伝った身だ。
本堂の中央に兵士たちが並び、修道女たちは皆、脇の壁際に並んでいた。フィアルとリミーナも顔を見合わせて、先輩たちに倣って横に並んだ。
王国の偉い方々も参列しているらしく、兵士たちの中には緊張した面持ちの者も多い。
フィアルはそうして並んでいる兵士たちの顔をちらりちらりと眺めて、その中にある知った顔を探した。案の定、兵士たちの中にシレイスの顔を見つけて、「はぁ」と安心しながらひと息吐き笑みをこぼす。
リミーナはそんなフィアルの顔を見て「うぷぷ」と笑うのをこらえるように口元を抑えた。
シレイスはしっかりと白銀の鎧を着こなし、いつも通りの朗らかな表情のまま、本堂正面で煌く白を基調としたステンドグラスを見上げている。子供の頃から知っている顔つきも、そうして見ると大人びて凛々しくなった。
「すっかりかっこよくなっちゃったよね」
小声で言ったリミーナに、フィアルも「そうだね」と静かにこたえた。
「そこは、素直なんだ」と笑ったリミーナの声は聞こえないふりをして、フィアルが祭壇のほうへと目を向ければいよいよ礼拝がはじまるようだ。
正面のステンドグラスの下、祭壇には並べられた数々の金の燭台の上で蝋燭の炎が揺れている。祭壇の前は階段一段分ほど高くなっており、その壇上へグランマがゆっくりと上がればそれだけで場の空気は一層引き締まった。
グランマの横には一人の修道女が付き従っている。彼女は修道女たちの中でも一番年上の副院長だ。
副院長の両手には先日リミーナが倉庫から掘り出した両手大の銀色の聖杯が抱えられており、それは倉庫で見つけた時とは見違えるほどにピカピカに磨かれていた。
つい先日まで誰にも忘れられて、倉庫の、それも一番底のほうにしまわれていたなどとは、この場で話したところで誰も信じないことだろう。
フィアルの横で、リミーナは「ふふん」と得意気に鼻を鳴らしている。
まあ見つけたのはリミーナの手柄なのだから、そう思う気持ちはフィアルもわかりはする。だけど子供っぽい――と苦笑してしまって、そんなフィアルに気づいたリミーナが「何よ」と言いた気にジトッとした眼差しを向けていた。
二人が視線だけを合わせて笑っている間にも、厳かな雰囲気を保って静寂に包まれた本堂では礼拝の儀式が進んでいく。
銀色の聖杯に祝福の水として酒が注がれて、そして、続けて本堂の奥に設置されているパイプオルガンから静かなメロディが流れ出した。
伴奏担当の修道女が慣れた手付きで一音一音、音色を奏でるために鍵盤を弾いている。
いつかリミーナが『わたしもあれが弾きたい』と語っていたことをフィアルは思い出して、それも懐かしく思いながら耳を傾け、進む礼拝を見届けた。
それから旅立つ兵士たちに向けて、修道女一同から歌が送られる。
フィアルとリミーナも覚えた聖歌の一節を口ずさみ、旅立つ皆の無事を願い、想いを込めて祈りを捧げた――。
礼拝の儀式は順調に厳かな雰囲気のままに終わりを迎え、フィアルたちは騎士団を送り出すこととなる。
◇◇◇
騎士団へ送る礼拝が終わり兵士たちも旅立って、本堂はがらりと人もいなくなり普段以上に静かになった。
他の修道女たちが片付けや朝食を取りに解散を言い渡された中、フィアルとリミーナはグランマとともに祭壇の近くに立っている。
他に残されたのはシレイスと、その師匠であるリミーナが言う『いつものおじさん』だ。
「うちの弟子のわがままに付き合ってもらってすまないね」
優しそうに目を細めて軽く頭を下げたおじさんに、フィアルとリミーナは首を横に振って笑顔でこたえた。
「いえいえ」
「これも幼馴染の縁ですからっ」
グランマはそんな風にこたえた二人のことを微笑ましそうに眺めてから、フィアルの肩をぽんと叩いた。
「では、フィアル、頼んだよ」
「は、はひ!」
軽く肩を叩かれただけだというのに、その瞬間にずしりとした重さを感じて、フィアルはガチガチに固まった表情で頷き舌を噛んだ。
「あっはっは」と笑ったおじさんに、その横ではシレイスも「くぷふふ」と笑うのを我慢したように顔をそらす。
「笑わなくたって、いいじゃない!」
フィアルが頬をぷくっと膨らませて意見すれば、シレイスは「ごめんごめん」と手を振って、だけど、その顔はやはり笑いをこらえきれなかった様子で目が笑っている。
「もぉー!」というフィアルの抵抗も結局はリミーナにからかいのネタを与えるようなもので、リミーナも「ぷははは」とこらえきれずに大爆笑していた。
ただ、すっかりフィアルの緊張も解けてきたところだ。
「まあまあ」と宥めてくれたのはグランマで、そのままグランマが仕切る形でシレイスへ祈りを捧げるための儀式の準備がはじまった。
いよいよかともなれば、先ほどまでは笑い声に包まれた本堂もしーんと静まり返る。
リミーナとおじさんは近くの席へ腰を下ろして見守ってくれていた。
シレイスが壇上の前で片膝をつき
祭壇の上では祝福の水を注がれた銀色の聖杯が、昇りはじめた朝日を反射して輝いた。
パイプオルガンに向かって座ったグランマが、「今日だけは特別だねぇ」と久々の演奏に張り切った様子で鍵盤を弾きはじめる。ほんのりと漂う薔薇の香りに乗せられて、流れるような指さばきに連動し、綺麗なメロディが人も少なくなった本堂を包み込む。
フィアルが修道服の裾を押さえながら膝を折って屈むと、顔を上げたシレイスが自身の腰に携えていた剣へと手を添える。
オルガンから流れるグランマの奏でるメロディと合わさって、シャキリと鞘を滑る剣が一つの楽器のように音を上げた。
剣は刃をシレイス自身に向けて捧げられ、その柄をフィアルがそっと両手で掴み受け取った。
剣を受け取ったフィアルは立ち上がり一歩下がると、祭壇へ向かい振り返る。そのまま両手で握った剣を胸の前まで持ち上げて、刃を天へと向けるように構え、瞳を閉じた。
――願うは、平和と安寧、旅の無事。
「(進む先で、
口ずさむフィアルの歌声が、オルガンから流れて響いているメロディに乗せられていく。
両目を開いたフィアルは、そっと再び振り返り、一歩シレイスへ近づいた。
改めて
「(守る刃は、勝利の輝き、紅き戦乙女の守護があらんことを――)」
シレイスに向けられた剣はくるりと横向きに構えなおされて、フィアルは剣の腹で一回、シレイスの右肩を軽く叩く。
「(わたしはここにいる――わたしは
そっと頭の上を通って横へずらされた刃が、今度はシレイスの左肩を撫でるように軽く叩いた。
「(わたしは待っている――わたしはここで待っているから――)」
旅立つものへ送られる祈りの意味は、無事を願い、帰りを待つ想い。フィアルは心の底からシレイスの無事を祈って儀式の段取りをこなしていった。
フィアルがそっと剣の刃を引けば、そうしたところで顔を上げたシレイスが立ち上がる。フィアルが剣の柄を向けてシレイスへそれを返し、シレイスはそっと鞘へ戻した。
フィアルはそうして再び振り返って、祭壇へ向かって胸の前で手を組み俯いた。
「(銀の聖杯に、勝利の
フィアルが歌い終えたところで、本堂へ響いていたパイプオルガンの音も鳴り止んでいた。
代わりに、ぱちぱち、ぱちぱちと、少数ながらの拍手が鳴り響いている。
フィアルは一礼してから顔を上げて組んだ手を放し、慌てて振り返った。
参列席でにこやかな笑顔を浮かべているおじさんが手を叩いてくれていて、その横では感動を覚えたかのように目を赤くしたリミーナが、笑顔を浮かべて大きく手を叩いてくれていた。
フィアルが慌ててパイプオルガンのほうへと顔を向けると、立ち上がったグランマは達観したような表情をして大きく頷いてくれる。
その表情を見てフィアルは一気に体から力が抜けてしまった。ふらりと倒れそうになったところを近くにいたシレイスが肩を抱くようにして支えてくれた。
「おいおい、大丈夫かって」
「あはは……緊張が抜けちゃって、入ってた力も全部どっか行っちゃったみたい」
シレイスに寄りかかる形で照れくさくもあったけれど、フィアルとしては苦笑いを浮かべるしかない。
「まあまあ」とグランマもそんなフィアルを笑ってくれていて、そうしてフィアルの大一番、初めての祈りの儀式は無事成功を収めた。
◇◇◇
――紅き乙女としての使命を思い出していなければ、そうしてただ幸せだった特別な時間を噛み締めることもできたのだろう。
無事祈りの儀式を終えることはできたけれど、フィアルはまた一歩遠く、現実が遠ざかったような寂しさを覚えた。ただそのような想いは必死に隠して――フィアルたちは儀式を終えたその足で、シレイスとおじさんを見送るために教会の外まで出る。
シレイスたちには特別に時間を与えられていることらしく、先に出発した騎士団に追いつくためにもゆっくりしている暇はなかったようだ。
「ありがとな、フィアル」
シレイスが白い歯を見せて笑いかけてくる。
フィアルはベールを外して紅い髪を解き、「ううん」と首を横に振って笑顔でこたえた。
「上手にできたかはわからないけど」
「いいや、これ以上ない祝福だ。俺にとってはさ」
朝日に照らされるシレイスの笑顔はより一層眩しくて、後光を受けたようでもあった。
フィアルは恥ずかしくもなり、それを誤魔化すようにもう一度笑う。
シレイスももう一度柔らかく笑い返してくれて、「じゃ――」と、そのまま別れの言葉を口にしようとしたのだろう。ただ、一歩を先へ踏み出したところで、「うっ」と頭を押さえて一瞬苦痛を感じたように顔を歪ませた。
「シレイス?」
フィアルが心配して一歩寄れば、先に進んでいたおじさんも心配したように振り返った。リミーナとグランマも顔を見合わせていて、ただ、フィアルがそっと手を伸ばそうとしたところで、「ははは」と苦笑いをこぼすシレイスが顔を上げる。
二人の視線が交錯し、シレイスはどこか困ったように笑っていた。
「……どうしたの?」
フィアルがもう一度聞くと、シレイスは一瞬悩んだようにしたけれど、口を開いた。
「なんか、前にもこんなことが……あったような気がして。おかしいよな、初めての遠征なのに」
フィアルはそれを聞いて返事をする言葉を失った。
愕然と深緑色をした瞳は瞳孔までもが開くよう大きく見開かれ、時が止まったかのような錯覚に襲われる。さっきまでの幸せな時間も、自分が背負っていたはずの宿命も、その一瞬の間だけは全てを忘れ去ってしまった。
――
ただ表情だけは保とうと意識を持ちなおして、フィアルは「……あはは」と笑い返す。
「そ、そんなこと、あったことなんて、なかったじゃない」
否定するように精いっぱいの誤魔化しの想いを搾って、無意味であるとわかっているただの言葉を吐き捨てる。
「そうだよな、ごめん、フィアル。じゃ、行ってくるよ」
先を急いでいたということもあるのだろう、シレイスはそれだけフィアルに告げて駆け出した。
いくら否定しようと誤魔化そうと、信じたくもない現実が突如、目の前に突きつけられたようだ。彼を送り出すために言おうと思っていた「いってらっしゃい」という別れの言葉を口にすることもできず、フィアルはただその後ろ姿を見つめ続けることしかできなかった。
百年の時を繰り返す中で、稀にそういった者が生まれることがある。
世界に生まれた不具合のようなモノで、決して輪廻の流れに残されてはいけないモノだ。
世界を灼くのとは別に排除しなければ、紅き乙女の目覚めの余波のように世界へ残り続け、いずれこの世界に悪影響を与えるだろう――。
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