乙女は揺れ惑う
翌日、時刻は昼を過ぎた青空の下。
フィアルの口からは「ふぁーあ」と、
人の往来も多い王都テレシアルの中央通りを、フィアルとリミーナは並んで歩いている。
グレーの石レンガが敷かれた長い下り坂は、二台の馬車がすれ違ってもまだ余裕があるほどに広い。様々な商店の色鮮やかな看板が目立ち、いつ通ってもあれやこれやと目移りしてしまう場所だ。
二人の両腕の中にはパンや野菜が詰まった大きな紙袋が抱えられており、今日は明日に迫った礼拝とは別に、日々の食材の買い出しに駆り出されたところだった。
柔らかい日差しに油断をしたわけでもなかったけれど、フィアルのそんな大欠伸を見たリミーナがけたけたと笑い出す。
「寝不足じゃん」
フィアルが昨夜寝付けなかったことは、リミーナにも知られてしまっているのか。きっとその訳も明日に迫った個人的な礼拝についてのことだろうと、リミーナも考えているのだろう。
またからかわれるネタを与えてしまったか――とフィアルは考えるけれど、考えたところでもうどうしようもないので「はいはい」と目を伏せて頷いた。
両手いっぱいに紙袋を抱えていてフィアルの視界も半分ほどが埋まっている。それが幸いか、通行人からは目隠しの役割も果たし、欠伸をしたことは隠してもらえた。
紙袋からは焼きたての長いパンが飛び出していて、その香ばしい匂いが鼻先に漂い、それがより一層眠気を助長している節もあったけれど。
「楽しみなのかな? 心配なのかな?」
リミーナも前が見えないほどの紙袋を抱えているため、二人して人の往来がある道を歩くことには細心の注意を払っている。ただこういった買い出しの風景も慣れたもので、話す余裕は持ち合わせていた。
「……どっちもだよ」
渋々正直こたえたフィアルに、リミーナも「だよねー」と笑う。
修道女にとって他人の願いを聞き届けるという行為は一人前の証だ。テレシアル大教会の中ではまだまだ見習いの立場であるフィアルにとって、それは嬉しくないはずもない。
先輩たちのようにうまくやれるだろうかという不安も付き纏うし、その相手がシレイスだということに緊張も覚えている。
それに事情も事情だ。シレイスは見習い騎士として、遠征のために街を離れることになる。今までずっと一緒にいた彼が遠くに行ってしまうようで、それも不安の一つだった。
だが、そんなことを考えたところで、フィアルの中で「そんなことはもう、どうでもいいでしょう」と囁く紅き乙女としての自分もいる。
ただでさえこれからしなければならない大仕事を前にして、フィアルの中では思考が入り乱れぐちゃぐちゃだ。
それをできるだけ表には出さないように取り繕ってはいるけれど、だから、昨晩はあの後こっそり自室へ戻ったところで眠れるはずがなかった。
「危ないよっ」
リミーナの声で、フィアルはハッとする。
ぼーっとしてしまっていたのは、考え事が頭の中を
その際、紙袋の中から飛び出した赤い林檎が二つほど、ころころと下り坂を転がって行ってしまう。「あぁぁ」と思わず声を漏らすフィアルに、「あちゃー」とリミーナが笑っている。
フィアルは「笑い事じゃないよ」と思いながらも、自分のせいだからと反省をこぼして、おじいさんに頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「いいんじゃよ、お二人さん、大荷物で大変じゃな」
おじいさんは軽い会釈をして通り過ぎて行く。
道を転がって行った林檎たちは、この下り坂だ、自然と磨り潰されたジャムのようになってしまうだろう――と、フィアルももう追いつくことを諦めていた。
ただそんなフィアルの考えとは裏腹に、二つの林檎はごとりと何者かの黒いブーツに当たって動きを止めた。革のガントレットがはめられた手が二つの林檎を拾い上げる。
紙袋に詰まった食材の山を避けるように顔を覗かせた二人は、その相手をまじまじと見つめてしまった。
身に纏うのは王国から支給されている軽めに設計された白銀の鎧。刻まれたテレシアル王国の紋章が、その者の騎士としての身分を示すかのように輝いている。
耳にかかるほどの赤茶色の髪、キリッと開いた目元に、藍色をした瞳がきらりと清らかに光った。朗らかな性格を表したかのように笑みを浮かべる小さな口元は、男性にしては整いすぎている印象が強い。髭もまだ生えていないつるりとした顎に、すっと通った鼻筋。
ひと目して周囲の女性の注意を惹いてしまうような男が、二人に向かって拾った林檎を掲げ、手を振った。
「お、こんなところで偶然だな」
声もよく通る明るい声色だ。
体も昔は二人とそう変わらない大きさだったのに、今ではもうフィアルが見上げるほどに背が高い。
大きな歩幅で近寄ってきた彼は、拾った林檎をそっとフィアルが抱えている紙袋に戻して、そのままあたかも紳士的な態度のままに、フィアルの腕から紙袋を奪い取った。
彼が上げた「よっと」と担ぎなおす声を耳にしながら、フィアルは呆然とそうされているがまま、空いてしまった腕へと目を落とす。
「噂をすればなんとやら、じゃん」
茶化すように口にしたリミーナが「わたしの分は?」と慣れ親しんだように聞けば、彼は朗らかな調子で「ほら、もう俺の両手も塞がっちゃった」と笑った。
フィアルが少し見ない間にも、また身長が伸びた気がする。それは見習い騎士としての日々の鍛錬で体が作られているからなのだろう、気のせいではないはずだ。
「シレイス……」
フィアルが彼の顔を見上げてその名を呼べば、「おっ」とシレイスは目を見開いてこたえてくれる。
「なんだ、フィアル。疲れた顔してるな」
そう言われてフィアルは慌てて両手で顔を覆った。
何か表情に出てしまっていないか、不安になったからでもある。
紅き乙女として、そんな失態を犯すはずがない。そんなはずはないのに――と思いながらも、頬が紅潮していく自覚はあった。
「シレイスにはやっぱわかる? フィアル、昨日から眠れなかったんだって」
リミーナは紙袋を抱えたままシレイスの横に並んで、告げ口をするように言う。
それを聞いたシレイスは「へー」と頷いて、ただフィアルからは顔をそらして空を見上げた。
「ま、目元のくまが少し目立つんだろうな。フィアルの肌は白くて綺麗だから」
恥ずかしくもなることをこんな街中、大声で口にされて、フィアルはそっと周囲を見渡した。
ただ、道の真ん中で立ち話をする三人のことを誰も気にした様子はなく、フィアルはどこか安心するように息を一つ吐く。そして、顔を覆っていた手の隙間から目元を出して、リミーナに訊ねた。
「そんなにわたし、くまが目立つ?」
「うん。まあ、シレイスと、わたしくらいにしかわからないと思うけど」
強調するように彼の名前を呼んでリミーナが笑った。シレイスもそんな二人の会話を聞いて微笑ましそうに頷いている。「もー、からかわないでよ」とフィアルは両手を振りリミーナに一歩詰め寄って、それに対してリミーナは舌をぺろりと出し、「にへへ」と憎めない笑顔を浮かべてきた。
昔から変わらない。
孤児院で出会い境遇に共感し、ともに寂しさを埋め合わせた、いつもの調子。
そこにあったのは、いつも通りの三人の関係だったはずだ。
だが咄嗟に、そうではない自分自身に恐れを感じて、フィアルは一歩後ろへ下がってしまった。
そんな間にもシレイスがリミーナに何やら話しかけていて、リミーナはそれにこたえている。最近はどうだ、とか。騎士団も明日から大変そうだね、だとか。
二人の声がフィアルにも聞こえているはずなのに、どんどんと二人から距離が離れていくような、そんな錯覚に襲われた。
久々の幼馴染三人での時間は、フィアルにとっても嬉しい時間ではあった。
ただ、今となっては、その関係ですら他人事のように感じてしまう。
終わる世界にある、断ち斬らなければいけない事柄の一つでしかない。
それが悔しくもなり、そんな想いを噛み殺すように奥歯を噛み締め、二人には気づかれないよう空っぽになった右手を握る。
「で、フィアルはどうなんだよ?」
ふいに形のいい眉を上げて訊ねてきたシレイスに、フィアルは「えっ?」と大きな声を上げて聞き返してしまった。
瞬時に振り解いた拳にはじんわりと汗が滲む感覚があって、それを悟られないように修道服の裾を握って誤魔化した。
シレイスは「ん?」と眉を動かしてそんなフィアルを見つめていたが、話を変えるように言葉を続けた。
「本当に、寝不足みたいだな……明日のこと、緊張させちゃったか?」
そう聞かれて、フィアルは慌てて「ううん」と首を横に振る。
「そんなことないよ。嬉しかったのは、本当だし……ただ……」
シレイスへ正直にこたえていると、つい口にしてはいけないことまでぽろりと吐き出してしまいそうになる。俯いてしまったフィアルは誤魔化すように笑みを浮かべて、「ううん」ともう一度首を振って顔を上げた。
「ただ……わたしでもうまくできるのかなーって。先輩やグランマみたいに、かっこよくさ」
テレシアル大教会の祈りには特別な意味合いがある。時にそれは聖歌合唱と称されて、歌を元にしたものなのだ。
祈りを込めて、歌を天へと捧げる。
それが誰に向けてのことなのか――きっともう、この世界の誰もが知りはしないことなのだろうけれど。
シレイスは「なーんだ、そんなことか」と笑って、紙袋を左腕にひとまとめに抱えて、フィアルの頭にぽんと右手を置いた。
「かっこよくなんて、張り切らなくたっていいだろ。フィアルだから俺は頼んだんだ」
その感触は子供の頃から残る、フィアルの名残だ。
いつも優しい手がフィアルの紅髪を撫でてくれた。『綺麗な色だね』と初めて亡くしてしまったお母さん以外の人に言われて、明るすぎる自身の髪色を恥じていた幼きフィアルの心を解いてくれた、優しい感触だ。
その手は段々と大きくなっている。騎士になることを認められ、剣を握って国を守れるほどに大きくなった手だ。
ただ今だけは――そんな優しい言葉をかけてほしくはなかった。フィアルは咄嗟にその手を振り払ってしまった。
フィアルが「あっ」と声をこぼしたときにはもう遅く、シレイスはどこか気まずそうに手を引っ込め紙袋を抱えなおす。
ただ、リミーナが二人の間に流れた一瞬の微妙な空気にも気づいたように口を挟んだ。
「ひゅー、お熱いね。昼間から、道のど真ん中で」
いつも「ならいいけど」と全てを許してくれるリミーナにも認めたくないものがある。変わらないでいた三人の形が壊れてしまうことを、リミーナは恐れている。
フィアルはそんな想いにも気づいてしまって視線を落とし、行き場をなくしている手を下ろす。フィアルが「ごめん」と呟けば、シレイスも「こっちこそ」と恥ずかしそうに呟いた。
ただ、シレイスはすぐに気持ちを切り替えたように一歩を踏み出して歩きはじめた。
「ま、こんな重そうな荷物、二人だけじゃ大変だろ」
そう言って教会のほうへ向かって進むシレイスに、フィアルとリミーナは顔を見合わせ、慌てて後を追って横へ並んだ。
「運んでくれるの?」
フィアルも気を取りなおして聞けば、「あぁ当然だろ」とシレイスは頷いた。
「仕事は? 勤務中じゃないの?」
「これも見回りの一つってことで」
「サボりって思われても、わたしは知らないよ」
「大丈夫だって」
フィアルがすっかりいつもの調子を取り戻せば、リミーナも満足そうに抱えた紙袋の陰で笑っていた。
二人はシレイスを挟んで横に並び歩きはじめる。
そのまま街を出て街外れへ。シレイスは教会の近くまでフィアルとリミーナについて来てくれて、三人はいつものように他愛のない話を繰り返した。
◇◇◇
テレシアル大教会を囲う赤薔薇園の入口で、三人は足を止めている。
シレイスがそこまでは抱えてくれていた荷物を「はい」とフィアルの腕の中へと戻した。
フィアルがどしりとした重みを両腕に抱え、視界を塞いだ食材の山の横から顔を覗かせれば、シレイスは爽やかに笑って二人に頷く。
「ここまでだな」
大教会は礼拝の時や特別な事情がある時を除いて男子禁制、それがグランマの定めた一つの掟でもある。
「うん」と頷いたフィアルに向かって、シレイスは手を上げた。
その手をフィアルの頭に乗せようとしたのだろう。フィアルが少し身構えれば、シレイスは手を引っ込める。彼はそのまま誤魔化すよう朗らかに笑って「じゃ、また明日」と手を振った。
そのまま去って行こうとするシレイスへ、フィアルは慌てて声をかけて呼び止める。
「ねぇ、シレイス!」
「ん? なんだ?」
「……遠征って、自分で志願したの?」
フィアルが少し悩んでそう聞けば、シレイスは「あぁ」と明るく頷いた。
「そうだ、これも一つの騎士としての経験。まあ、何があるかはわからないけどな」
もう長年行われていなかった騎士団の遠征だ。
国同士の情勢に詳しくないフィアルにも、近く何か大きな動きがあるのだろうことは予測がつく。それは紅き乙女としての長年の経験でもあって、百年の眠りから目覚めたタイミングでは大きな戦が起こっていることも多い。
シレイスは、それ以上はフィアル相手でも話せない、といったような表情を見せて口を噤んだ。
「そっか……」
フィアルが頷けば、「それだけか?」とシレイスは首を傾げた。
「うん、それだけ」
「悪いな、心配かけるかも」
そう申し訳なさそうに笑うシレイスに、リミーナが元気な声でこたえた。
「心配だけど、シレイスなら大丈夫でしょ! わたしも聞いたよ、剣の腕は期待の新星だって!」
どこから聞いてきたのか、あまり外部に漏れることもない騎士団内部の話だろう。リミーナの情報網は侮れない。
シレイスは照れくさそうに笑って頭を掻いている。そんな気持ちも誤魔化したかのように手を振り上げて背中を向けた。
「じゃ、また明日」
「うん、明日……朝、祈りの場で」
フィアルはそれにこたえて、両腕に紙袋を抱えながらその背中を見送った。
柔らかい日差しを白銀の鎧が反射している。腰から提げている鞘には剣が納まっていて、それは国を守るための刃であると同時に、人を傷つけるための刃でもある。
遠くなっていく背中は昔に比べて大きくなった。
「ここまで運んでもらっちゃって、大助かりだね」
フィアルの横に並んで同じように背中を見送っていたリミーナが笑う。フィアルはそっと顔を向けて、「うん、頼もしい」と笑い返した。
「もう、くたくただよ。フィアル、帰ろ!」
フィアルが「うん」と頷けば、くるりとターンするように
フィアルはゆっくりとその後を追って、ただ、足を止める。そっと振り返った先、まだ見える遠くなっていく幼馴染の背中を見つめていた。
――もう、あなたの知っているわたしは、どこにもいないのに。
振り払ってしまった手に感じた寂しさはフィアルのモノであって、だけど、振り払った手はフィアルのモノではなかった。
それを一人噛み締めて、フィアルは遠くなっていく男の背中を見つめている。
戦地へ赴く一人の騎士を見送るような眼差しで、きっといつの世も人は変わることがないのだろうという寂しさと諦めを宿して。
――何度灼いたって人の世は変わらない。争いは繰り返されて……だから、世界は終わるんだ。
それは背負ってしまったがゆえの、虚しさでもあったのかもしれない。
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