沈んだ潮騒

 その日の夜、教会に住まう修道女たちがこぞって集まる大広間での食事を終えた後、フィアルは一人足早に浴室へと向かった。

 グランマも含めて総勢十二人。上はフィアルからすると母親みたいな年代の修道女も住み込みで働いている。教会での暮らしは大家族と一緒にいるようなイメージで、本当の家族を失ってしまったフィアルにしても温かく感じる場所だ。


 だけど――と考えて、フィアルは流れる湯を頭からかぶった。

 洗い場が並ぶ白色タイル張りの広い浴室に、床を打ちつけるシャワーの水音が一つ響いている。

 ほんのりと石鹸の香りが漂う爽やかな空気の中、フィアルは一人沈んだ暗い表情をし、壁に手をついた。

 柔肌を伝う水滴がフィアルの肌から渇きを奪っていく。ただ、渇いた心は一層現実と乖離していき、不安が溢れ出した。


――こんな温かい場所であっても、灼いて無に還さなければならない。


 ぎゅっと閉じた瞳の裏に映し出されるのは、いつの日か何度も見たくれないの空。見下ろす灼ける大地に、轟々と音を上げた紅蓮の炎。フィアルの心すら灼くように燃え続ける世界を包んだ紅色が、瞳を閉じれば簡単に思い描けてしまう。

 今はまだ、そんな光景も現実のものではない。

 そっと開いた瞳が映すのは鏡越しに見える己の顔。呆然とした深緑色の瞳が映し出すのは、傷もない柔肌を晒したフィアル自身だ。

 フィアルは覚悟を決めなおしたかのようにして、きゅっと水道の蛇口を閉めてシャワーを止めた。ぽたぽたと紅い髪を伝って流れる水滴を手で払う。ぼわっと赤い炎が燻るよう宿って一瞬、濡れた髪はすっかり渇いてしまった。


 浴室を後にしてバスタオルで体を拭いて、普段着でもある修道服を畳み、薄手の白地の部屋着へ着替え自室へと戻った。

 階段を三階まで上がって、廊下の突き当り奥にあるのがフィアルとリミーナの部屋だ。

 ドアを開けて中へと入ると、既に食事前にシャワーを済ませていたリミーナは桃色の部屋着に着替えていて、退屈そうに足をパタパタと振りベッドに寝転がっていた。


 ベッドが二つ、クローゼットも二つ。机と椅子も一セットずつそれぞれに。部屋に一つある大きな窓には薄いクリーム色をしたカーテンが引かれている。

 修道女に与えられる部屋は簡素なものではあるけれど、必要なものがあれば大抵は買い足してもらえるし、特段不便な生活を強いられているわけでもない。

 ぼんやりと灯る魔導照明がどこか柔らかくいつもの調子で、部屋へ入ったフィアルのことも照らしてくれていた。


「あー、一人でシャワー行ってたんだ! どこ行っちゃったのかと思ったよ」

「うん……少し一人になりたくてさ」


 フィアルは腕の中に抱えていた修道服を自身のベッドの上に投げ出して、水を吸って少し重くなったバスタオルは窓際にかかっている物干し竿へかけた。


「今日のフィアルはぼーっとしてるから、いつも以上に心配だよ」


 別にリミーナへ心配をかけるつもりはなかった。だけど、ベッドの上でくるりと体を回して起き上がったリミーナが笑いかけてくれば、フィアルとしても「ごめん」と笑って謝るしかなくなった。

 そんなふいを衝いてくるようにして飛びかかってくるリミーナに、フィアルは予感していたかのように両腕を広げてそれを受け止める。

 リミーナがわしゃわしゃと脇腹をくすぐってきた。フィアルもお返しだ、とばかりにやり返す。

 二人の笑い声が部屋を包むけれど、時間のことを思い出し互いに顔を見合わせて、一頻り笑った後はそれぞれのベッドの上にばたりと倒れ込んだ。


「何かあったの?」


 リミーナと一緒にいる時間ももう長い。グランマ同様、リミーナにも昔から隠し事はできなかった。

 それはただ思ったことがすぐ顔に出てしまうフィアルの正直すぎる一面がそうさせているだけのことかもしれないけれど、ただ、フィアルは天井を見上げながら首を横に振る。


「別に、何もないよ」


 大親友であろうとも、悟られるわけにはいかない。

 だからフィアルはフィアルとして、リミーナとは接して返事をするだけだ。


「そっ、ならいいんだけど」


 フィアルと同じようにベッドに寝転がって天井を見上げているリミーナは、フィアルがそうこたえたところで別に踏み込んで来ようとはしなかった。


「多分、寝不足なのかも」

「えー、いつもきっちり一緒に八時間は寝てるよ」

「それでも……寝足りないのかも」


 それはフィアルの正直な気持ちでもあったけれど。

 まだ寝ていたかった。起きたくはなかった。逃げるわけでもないけれど、そう思ってしまうのは仕方がないだろう。


「これ以上寝て動かなくなったらフィアルは太っちゃうよ、せっかくスタイルもいいのに」

「それは……困るね」

「お姉さんは、心配です」


 そう言ったリミーナの声を聞いて、フィアルはくすりと笑ってしまう。


「お姉さんって。誕生日、一ヶ月しか変わらないよ」

「それでもお姉さんは、お姉さん」

「わたしより小さいのに」

「あー身長のことは言わないで! これから伸びるんだから!」


 いつも通りのなんともない就寝前のちょっとしたやり取りではあったけれど、リミーナと話していたら不思議と気持ちが軽くなるようで、フィアルの表情は自然と綻んだ。

 がばりと体を起こしたリミーナは、ぴょんっと飛び跳ねるとフィアルのベッドへ、フィアルの横へと飛び乗った。


「にへへ」


 天井を見上げていたフィアルの視界に、憎めない変な笑みを浮かべたリミーナの顔が飛び込んでくる。


「な、何よ」


 リミーナの言いたいことがわかったような気がして、フィアルはそっと顔をそらし、頬を赤くした。


「そんなことよりも、どうなの」

「どうなのって?」

「ほらー、グランマにも頼まれたでしょ」


 やはりその話だったか――と、フィアルは「はぁ」とため息を一つ吐き出す。


「別に、わざわざわたしに頼まなくたっていいのに。祈りができる人なら、ここには他にいっぱいいるんだから」

「そうじゃないでしょー、シレイスは、フィアルに、頼みたいんだよ」


 シレイスはフィアルとリミーナの幼馴染であり、幼い頃寂しさを埋め合った仲間であり、フィアルにとっては特別な意味を持つ男の子だった。

 昔から活発で二人にとってはリーダーみたいな存在で、歳は同い年だけれど、守ってもくれる兄のような存在でもあった。

 フィアルもシレイスの気持ちは知っている。フィアルも同様に、でいたことに変わりはない。互いに素直になることはできなくて、いつも横でリミーナにからかわれ続けていた。


 しかし、今となってはもう、素直になることも許されない。フィアルからしてみれば、は口にするのもおこがましい想いになってしまった。

 彼が知っているのフィアルはもう、この世界にはいないのに。


「楽しみだけど、ちょっと心配でもあるよねー、礼拝と旅立ちは明後日だってさ」


 それだけ言ってベッドから飛び降りたリミーナは、自身のベッドへ再び寝転がるように飛び跳ねる。

 埃が少し舞って部屋の魔導照明に照らされ、きらきらと輝くように降り注ぐ。

 フィアルがぎゅっと瞳を閉じれば暗闇が広がって、次にもう一度目を開けたときには部屋の照明も落とされていた。カーテンの隙間から差し込んだわずかながらの月明かりが、こぼれるように薄暗い天井へ広がっている。


「じゃあ、寝不足のフィアルちゃんは早く寝ましょうねー、おやすみ!」


 冗談交じりに笑ってそう言うリミーナはひと足早く毛布をかぶって、フィアルが返事をしようと迷った数秒の間に寝息を立てはじめた。

 体を起こしたフィアルは一人、「眠たかったのはどっちなんだか」と呆れ笑いをこぼし、改めてベッドに寝転がる。


「楽しみ、かぁ……そんな気持ちも、もう嘘みたい」


 リミーナが聞き耳を立てている様子もなく、ひとり言は薄暗闇へと消えていく。

 フィアルはリミーナに「おやすみ」と返事をする余裕もなくて、ただぼんやりと、天井へこぼれた月明かりを眺めていた。



◇◇◇



 皆が寝静まった頃合いを見計らって、フィアルは物音を立てないようにそっと教会を抜け出し、その裏手に回った。

 教会の裏手には断崖絶壁となった岬があって、海に向かって墓地が広がっている。誰のものかわからないものもたくさんあって、中には戦争で命を落とした者も多くここに埋葬されていると聞いたことがある。


 フィアルは広がる星空を見上げ、墓石の合間を縫って海のほうへと一人歩く。

 虫の音も聞こえない星空の下には、ざぁざぁと遠くから潮騒が鳴り響き、風はなくても香る生温かい潮の匂いが鼻を突き抜ける。雲もない星空はきらきらと輝いて、一筋走った流星もあちらこちらで目についた。


 岬の先端に辿り着いたフィアルは、そこに立つ一本の大木に手を触れて足を止めた。

 切り立った崖の下、その先には暗い暗い大海原が広がっている。その向こうには遠くに島国があって、果ては大陸に続いて大きな世界が広がっているはずだ。

 フィアルが灼くことになる、人々の繁栄の上に成り立った世界が。


 フィアルが右手を前に伸ばすと、どこからか現れるようにして、その手のうちに紅蓮の聖剣が握られていた。フィアルの意思一つで自由自在に呼び出せるそれは、夜のとばりの下であっても白銀の刃を輝かせる。

 その刃に反射して、フィアルの深緑色をする冷淡な眼差しが映った。


――こうして実際にこれを呼び出せてしまうということは……夢ではないよね。


 夢であればよかったのに、そんな風にも思ってしまう。

 紅蓮の聖剣を手にしているところは、誰にも見られるわけにはいかなかった。ルームメイトであるリミーナにも、グランマにも、教会で暮らす他の修道女にも。

 眠れないのをいいことに、こうしてそっと頬をつねるかのように確かめたのだ。抜け出すタイミングは今くらいしかなくて、夜間の外出は禁じられている教会の掟を破った。


 それに、夜にもなったしそろそろだろう――とフィアルが考えたところで、背後に気配を感じ取る。

 右手を振って聖剣から手を放せば、紅蓮の聖剣は夜の闇に溶けるようにして消え去った。呼び出すのが自由自在であれば、隠してしまうこともまた自由自在だ。


『目覚めたようね』


 フィアルとそう変わらない声色で背後から声が聞こえた。

 フィアルがそっと振り返れば、自身の影が伸びるように広がって、紅い色が浮き上がる。

 紅き乙女に付き従う、紅き影。フィアルはそれをそう呼んでいる。


「えぇ、起きてしまった」

『百年ぶり、ごきげんよう』


 従うとは言うもののどこか偉そうな口調だ。

 フィアルと似たような形を象り、手を払うかのようにし、顔色もないというのに笑ったように紅き影は言った。


『今回は修道女なの?』

「……そうみたい」

『人の世界って、様々ねぇ』


 百年を繰り返すこの世界に生まれる紅き乙女にとっても、そのカタチは時々によって違う。

 灼いて無に還して再びやりなおす百年は同じだけの時間ではあるけれど、同じ時間を繰り返しているわけでもない。

 人はその時々に繁栄の形を変えて百年を繰り返す。

 それが、この世界に定められたルールだから。


『ま、おまえが目覚めたってことはこの百年も終わりよね』


 フィアルはこたえることができず、ただ己の役割を胸の中で反芻するように思い返して頷いた。


『もうじき世界が終わる。そして、また次の百年に進みましょう』

「……えぇ、わかってる。近々、灼く」


 紅き影には顔がないけれど、フィアルは真っすぐと眼差しを向けて口にした。

 フィアルが紅き乙女として目覚めた余波は、時機にこの世界にも現れる。それが時々に名残を落とす原因でもあるのだろうことはフィアルもわかっていた。紅髪の話しかり、決してフィアルが灼いても消すことはできないモノとして、世界には残り続けてしまう。

 目覚めたからには、早く終わらせなければならない。


『役目は忘れてないようね』

「忘れるはずが、ないでしょう」

『ならいいわ、そうしてまた、のよ』


 紅き影はそれだけ言って、フィアルの影に溶けるようにして消えていった。


 そんなことは今さら言われなくてもわかっている。

 それがルールで、それが背負った責任で、それが約束だ。

 輪廻転生を繰り返し、この世界を全て灼いてしまわなければ、

 だけど今は少しだけ、紅き乙女としても落ち着く時間が欲しかった。


 会話が止んで潮騒が響く中、一陣の風が紅い髪を舞い上げ吹き抜ける。

 フィアルはそっと振り返り目を細めて、暗い海の先を見据えるようにしばらく立ち尽くしていた。



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