そよ風に翠緑の葉がさざめき、アブラゼミの声が響き渡る。この夏の自然を彩る声は昔から何一つ変わっていない。


「コウちゃんか」


 不意に野太い声が道脇の雑木林の中から聞こえてきた。


 茂みをかき分けて鎌を片手に持って出てきたのは、西岡のおじちゃんだった。西岡のおじちゃんはコウジが小学生の時からの友だちだった。この野草は食べられるということ。手入れをしないと林は死んでしまうということ。自然は美しいということ。おじちゃんが自分に語りかけている時の横顔にコウジは憧れていた。


「今日は草刈り?」


「ああそうや。ちょうど今一段落ついたところでな」


 おじちゃんは近くに置いていた一輪車からお茶を取り出した。


「今大学生か」


「まあ、一応ね」


「なんでまだこんなど田舎にいるんや」


「そう言われると……まだなんかなあ……って思っちゃって」


「若いヤツがこんなとこにいたってなんも出来んがな」


「それはそうやねんけどなあ」


 おじちゃんはお茶を煽って深くため息をついた。


「時間あるか」


「そりゃもう、いくらでも」


「草刈り手伝えや」


 そう言って返事を聞く間もなく、おじちゃんはまた藪の中に入っていった。おじちゃんが見えなくなる前にコウジも一輪車から鎌を取り出し、後を追って薮をかき分けた。


 先ほどの夕立で中はジメジメしていて、落ち葉をふむ度に嫌な感触が伝わった。おじちゃんは何も言わず軽快に進んでいくので、なんとか遅れないよう幼い頃の感覚を思い出しながらついていった。


 少し進むと見慣れた小さな栗の木があった。おじちゃんが何も言わずに草刈りを始めたので、コウジもそれに習って同じように、少し離れて草刈りを始めた。草を切る感触が手に伝わって、草の匂いが鼻を抜け、繊維の切れる音が耳につく。昔からおじちゃんに畑や林の作業を手伝わされてもうすっかり慣れていたはずが、久しぶりだからなのか、いやに心地よく感じられた。やはりまだ、どこかこの地を嫌いになりきれていないのかもしれない。


 数分草を刈り続けて額に汗がにじんできた頃、おじちゃんが唐突に話し始めた。


「ここ、覚えとるか」


「まあ、あれだけここで遊んだしなあ」


「ええな。小さい頃の記憶が場所として残っているってのは、本当に幸せなことや」


 おじちゃんの話す内容はイマイチピンと来ていなかったが、久しぶりのおじちゃんの語りは心地の良いものだった。


「コウちゃんはここ好きか?」


 予想していなかった問いに少し口をつぐんだ。言葉を探して空を見上げると、新緑が目にしみた。


「好きかはわかんないけど、嫌いじゃないよ。少なくとも」


 無意識のうちにそう答えていた。おじちゃんはまた何も言わず草刈りを始めた。コウジは仕方なく腰を伸ばして同じように草刈りを続けた。


 おじちゃんが機会を使わず手作業でしている理由は、コウジも気がついてはいた。だからといってそれをおじちゃんに聞いたり、自分からなにか話すということはしなかった。それもまたおじちゃんが意図しているというのも分かってはいた。


 しゃく、しゃく、と草を刈る音が響く中で、コウジはさっき自分の言ったことを考えていた。嫌いじゃない? そんなわけない。本当は嫌いだし、はやくここから出ていってやりたい。でもこの地が離れるのを許してくれないだけだ。好きで留まっているわけじゃない。絶対に。


「好きでもないのになんで出てかんのや。べつに金の問題でもないやろ」


 そう問いかけたおじちゃんの声にコウジはただ笑って返した。何度も問われてきた。友人からも、両親からも。その度にはぐらかして、ただ現状維持を続けてきた。何がいけないのだろうか。別に誰にも迷惑はかけていないじゃないか。そう言い聞かせて逃げてきた。


 仮に理由をつけるとするならば、それは「怖いから」ということになるのだろう。今までの常識が何もかも変わってしまう。


「なあおじちゃん」


 深く息を吸っておじちゃんの顔を見た。


「いつになったら大人になれるんやろな」


 今まで心のどこかに放置していた感情を言葉にして吐き出した。後ろに続けたため息の後、少し間が空いた。


「どうなることが大人なんや」


 おじちゃんが問いかけた。コウジの答えを待たずそのまま続けた。


「先延ばしにした果てにはもうなんも残らんのや」


 そうつぶやいたおじちゃんの顔がどこか寂しげで、コウジには十分な答えだった。


 目を閉じて耳を澄ますとアマガエルの声がきこえた。なぜか嫌に寂しい声だった。



 おじちゃんは先に帰っていた。遠くの方に一輪車と少し背の小さな男の人が見えた。コウジも輪立ちを避けて新しい足跡をわざと付けるようにして歩き出した。


 雨上がりのにおいが体に染み込んでいく。この感覚は都会に行っても変わらないのだろう。


 蝉時雨はアブラゼミからヒグラシに交代したらしい。



 見慣れた平屋に着いて引き戸を開けると、母の声が出迎えた。コウジはその言葉に答えながら靴を脱いだ。


「母さん」


「なあに?」


「一人暮らし、してもいいかな」



 青年の声にアマガエルの嬌声が重なっていた。

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鳴き声 朱明 @Syumei_442

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