第40話贖い

マグリットの身体で隠されていた世界が、僕の前に突きつけられる。

若々しい新緑の輝いていた草地は、腐り落ち。

咲き乱れた薔薇の香りは、饐えた腐臭に取って変わっていた。

そこらじゅうに転がる塊は、呻く声がなければ誰も人間性だとは気付かないだろう。


「そんな…、…」


僕は息を詰まらせた。

呆然としばらく周囲を見渡してから、空を見上げると、地上の惨劇など知らぬような蒼天が広がっている。

その僕の瞳に、一匹の鳥がマルム王国を目指して、飛んでいくのが映り込んだ。


「こんな…、…僕が…やったのか…?」


呟いた途端、現実の重さが僕を押し潰す。


人の罪を許せと願った母を裏切り。

自分のようになるなと祈った父に逆らい。


子供から

恋人から

父から

母から

公国から


全ての人から僕は、大切な人を奪ってしまった。

妹を失った僕と同じ悲しみを、背負わせてしまったのだ。

激しい後悔と罪悪感が嵐となって僕を襲う。

そして、僕の頬に触れてくれていたダリアの指が、力なくローゼリンドの亡骸の上に折り重なった瞬間、堰を切ったように慟哭が僕の口から迸った。


「あ、あ、あ゛あ゛あ゛ッッ」


言葉を忘れ、獣のように咆哮する自分の声が鼓膜をつんざいた。


今すぐ、自分を殺したかった。

僕のちっぽけな命一つでは贖いきれない罪だとしても。

持てる全てを捧げて、償いたかった。


僕は目の前で失われた全てを掻き集めるように、ローゼリンドを、ダリアを、ヴィオレッタを、マグリットを抱き寄せる。

でも、力を失った皆の身体は土塊のように重く、僕の腕では抱えきれずに、たやすく零れ落ちていく。

それでも諦めきれず、壊れた玩具のように同じことを何度も繰り返す僕の元へ、引き摺るような足音が近づいてきた。

その音が僕の前で立ち止まると同時に、不意に剣の切っ先が地面に突き立てられる。

僕は力なく、刃を伝うようにして、のろのろと顔を上げた。

そこには、薔薇色の少女が一人、静かに立っていた。


「フロレンス…?」


黒く染められていたフロレンスの髪は、汗で染料が流れ、元の美しいピンクブロンドの光沢を取り戻していた。

汗の匂いに混じって、焦げ付くような異臭が鼻腔の奥に張り付く。

公国の守護者であり、戦乙女として争いに身を投じるフロレンスの姿が、そこにあった。


彼女は僕を見下ろしながら、片手を差し伸ばした。


「ジーク…、まだ、間に合う。まだ、救われる、君も、君の妹も、公国も」


僕は一瞬、何を言われたのか理解できずにいた。

それでも、言葉の一滴一滴が身体に少しずつ染み込んでいく。


「本当に…?」


突如として与えられた希望が信じられなくて、僕は呆然と呟いた。

フロレンスは答える代わりに、僕に問い掛ける。


「罪を背負い、償う気はあるか?」


その言葉に僕は、神に救いを求めるように両手を差し伸ばし、フロレンスの手を掻き握ると、額を彼女の指に押し付けた。


「償いたい…、…どんな事でもするから…っ、…───っ」


僕の両目から、滂沱の涙が溢れて地面に落ちていく。

許されなくていい。

そんな事は、望まない。

ただ、この背負った罪に見合う罰を、どうか与えてほしい。


僕の答えを聞いた瞬間、フロレンスと僕を取り囲むように炎が地面に円を描き、風を孕んでゆっくりと渦を描き始める。

顔を上げると、紅蓮の焔が徐々に勢いを増していくのが見えた。

陣を描いて踊る焔が地面を照らせば、人々の死に様が、生々しく照らし出される。

自分の罪を頭に焼き付けるように、その光景を見つめていると、横たわっていた人影が一つ、蠢いた。

動かなくなったトーラスの巨躯の下から這い出し、覚束ない足取りで立ち上がったその影は、アスランだった。

アスランは太陽のように輝く黄金の瞳に怒りを宿して、フロレンスを睨み据えていた。


「フロレンス…、…貴様、これが狙いか…っ、このために、全てを、国を、民をっ、犠牲に捧げたのか!!」


血を吐くように絞り出された怒号に、フロレンンスが透き通った美しい微笑みを向けた。


「アスラン殿下、この悲劇は私の罪です。私が、選んだこと…どうぞ、惜しみ無く罰をお与え下さい…過去で、お待ちしております」


一人取り残された僕は、戸惑いながらフロレンスに問い掛けた。


「どういう…、…意味…?」


アスランの方を向いていたフロレンスの顔が、再び僕を見下ろした。

フロレンスの薔薇色の瞳には、後悔も、人理も、善悪も、全て振り切った者特有の、透徹した美しい狂気が宿っていた。

剣を支えに膝を付いたフロレンスは、大切な人達の亡骸に埋もれる僕に片手を伸ばして、抱き寄せる。


「ジークヴァルト…、…私は貴方を…愛してる。失くせないほどに。世界と天秤にかけて、貴方を選んでしまうほどに。貴方に罪を背負わせてでも…私は貴方のことを、諦められない」


血と、腐敗臭に混じって、フロレンスの匂いが僕を満たす。

僕の蟀谷にフロレンスの頬が触れると、涙が僕の肌を濡らした。


「ごめんね、こんな私が貴方を愛してしまって…どうか私を、許さないで」


フロレンスの押し殺した静かな嗚咽に、僕の心臓が握り潰される。

全ては、僕の弱さが招いたことなのに。

僕は両腕を伸ばすと、傷ついたフロレンスの身体を掻き抱いた。


「フロレンス…泣かないで。僕は、君を…───」


愛してる。


そんなこと、言えなかった。

殺した人々を忘れ、大切な人々の亡骸の上で、愛を求めるなんて。

罪の深さに恐れおののく僕を罰するように、円を描いていた焔が一際激しく燃え上がり、僕とフロレンスの髪を舞い上がらせる。


「戻ろう、ジークヴァルト。ローゼが待ってる過去に…全ての罪が起こる前に、贖いを」


僕を宝物のように抱き締めるフロレンスが、囁き掛けた。

そして、フロレンスは空を鋭く見上げ、猛り声を上げるように、誓言(せいごん)を高々と唱える。


「断罪と焔のルベルよ、人理の超越者よ!刻を越え、人の摂理を振り払い、贖罪の為に今一度の奇跡を示せ────」


同時に、焔は天を貫くように燃え上がり、僕の視界を深紅に染め上げる。


肉が

骨が

魂が

世界が


全てが灼かれていく激痛と輝きの中で、僕の意識は光に飲み込まれていった────

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