一時の逢瀬

第26話妹の秘密

カンディータ公爵家に帰った途端、僕の身体から一気に疲労感が溢れ出た。

身体にのし掛かる疲労感は亡霊のように張り付き、重く、妹の部屋に入った途端、崩れ落ちるような勢いで僕はベッドに仰向けに横たわった。


「もう駄目だ、もう無理だ…」

「どうぞお楽になさって下さいませ。ジークヴァルト様」


玄関か連れ添ってくれていた妹付きの従女であるヴィオレッタとダリアの二人は、四本の手を伸ばしてくる。


「すぐにコルセットを緩めますね!お化粧も落とさないと、肌が荒れてしまいますから」

「お湯は用意して御座います。お入りになられますか?」


ダリアの手がドレスの後ろ釦を外すと、コルセットを緩めていく。

窮屈に締め上げられていた肋骨が解放されて一気に肺が膨らんだ。

身体が解放された途端、押し込められた思考ごと詰まっていた空気が抜けていくようだった。

身体をほぐすように捩って仰向けになると、素早くダリアが僕の顔に張り付いた白粉を落としていく。

足元ではヴィオレッタが僕の靴とストッキングを脱がしてくれていた。


「二人とも、ありがとう。後は自分でやるから、休んでくれ」


二人を下がらせて、このまま眠ってしまおう。

僕は上半身を起こすと欠伸を噛む殺しながら、二人に告げた。

それに待ったを掛けたのは、ヴィオレッタの淡々とした声だった。


「承服いたしかねます。ジークヴァルト様はお髪に香油を塗るのも、梳かすのも面倒臭がってしまうでしょう。私たちにお任せ下さいな」


ヴィオレッタは、まるで僕の考えなどお見通しだと言わんばかりだ。

その横で、脱け殻となったドレスやストッキングを拾い上げて腕に抱ていくダリアは、明るく笑っていた。


「ちゃんと綺麗にしたら、ゆっくり気持ちよぉく休めますから、ね?ジークヴァルト様」


どうやら、僕の怠惰な思考は見抜かれてしまっているらしい。

二人の言葉を聞くと、僕は諦めてベッドから立ち上がった。

女性物のドロワーズ姿をさらし続けるのは、湯浴みや着替えを手伝ってもらうのが当然な貴族であっても、どうしようもなく恥ずかしい。

たとえ、ヴィオレッタとダリアが気にしなくとも、だ。


僕はさっさと湯に浸かって身体を清めてしまうために、室内靴を引っ掻けて隣室へと向かった。


白く広い浴室は入り口と衝立で仕切られ、ワゴンには香油や石鹸が置かれている。

僕は衝立の内側に入ると、室内靴を脱ぎ捨ててひんやりとしたタイルの上に足をつけた。

ドロワーズを脱ぎ捨て全身に湯気を浴びると、肌が暖められるようで心地よい。


「ふぅ…、…今日はどうしようかな」


僕は一人小さく吐息を吐き出すと、ワゴンへと向き直った。

ワゴンの一段目には数十種類の精油とオイル、ハーブウォーターが青いパルファム瓶に詰められて並んでいる。

どの香りを使うか、その時の気分と肌の調子を読み解いて選ぶのが従女の腕の見せところの一つであったが、ここ最近は僕が行っていた。


「ラベンダー、カモミール…ゼラニウム。あとは…夜だし、ベルガモットも入れよう」


精神的な穏やかさをもたらしてくれるラベンダーとカモミール、ベルガモット。肌を整えてくれるゼラニウム。

僕は選んだ瓶を並べていくと、湯船に落としていく。

ラベンダーの柔らかさ、カモミールの優しさがふんわりと広がり、ゼラニウムの華やかさが色を添える。

最後にベルガモットが加えられると、全体が引き締まった。


緩く湯を掻き回してからお湯に浸かると、銀色の髪が湯船に散って溶け込んでいくように広がる。

僕が肩まで湯に浸かると同時に、寝室から通じる扉が開かれた。


「失礼いたします。ジークヴァルト様!お身体とお髪の手入れをさせて頂きますね」

「ああ、よろしくね。ダリア、ヴィオレッタ」

「今日の香りも素敵ですね。これは……ベルガモットですが、大丈夫ですか?」

「ああ、ローゼの肌は弱いから直接使わない方が良いけど、僕なら問題ないよ。それに今は陽射しも出てないしね」


流石、ローゼリンドの従者だ。

太陽光とベルガモットオイルが反応すること、肌に対する刺激が強いことをしっかりと学んでくれているようだ。

勉強家のダリアに、僕は少し申し訳なさを覚えると眉を歪ませた。


「本来はダリアの仕事なのに、僕が取ってしまってごめんね。君はよくやってくれているのに」

「いいえ、ジークヴァルト様の植物研究の知識は、公国内でも随一ですから!お話できる機会が得られるなんて、ダリアは嬉しいです!」


職責を主人に奪われるのは、従女として失格を言い渡されるようなものだ。

だが屈託もなく、まっすぐに受け止めてくれるダリアの性根に僕はいつも慰められる。

そして、従女としての職務を全うしながら時おり姉のように叱ってくれるヴィオレッタにも、救われる思いだった。


────だからこそ、二人に心配をかけるわけには……いかないよな


僕の手を柔らかな布で洗い、指先をほぐすヴィオレッタに伺うように視線を向けると、ヴィオレッタは早咲きの菫のように澄んだ瞳を僕に向けた。


「どうかなさいましたか、ジークヴァルド様」


ヴィオレッタに誘われて、僕の髪を洗うダリアの猫のように大きな瞳もこちらに向けられる。

二人の視線に晒されて、僕は叱られるのを覚悟で口を開いた。


「……明日、フロレンスと出掛けるんだ。屋敷を抜出して、町のお祭りに行く約束をしてしまって」


言い終わると、気まずくなった僕はお湯の中に口許まで沈んでいった。

こんな時に幼馴染みと出掛けるなんて、緊張感の欠片もないと叱られても仕方ない。

苦言を受け入れる覚悟で上目に二人を見上げると、ヴィオレッタの淡々とした声が耳に届いた。


「それはようございますね。十分お気を付けて頂かなければなりませんが、少しでも気分を変えられるのは良いかと存じます」

「じゃあ、町娘の衣装を出しておかないとですね!お髪の手入れも少し手抜きしないと」


二人の言葉に驚き、思わず沈めた顔を勢いよく湯から出すと、頭上で取り交わされる会話に目を白黒させた。


「え、二人とも怒らないのか?」

「ローゼリンド様とフロレンス様は以前から内緒で街に出掛けになられておりましたので。お断りになる方が、疑われるかと」

「え!?」


ヴィオレッタの言葉に、思考が置いていかれる。

悪戯っぽい部分も含めて、完璧な令嬢として社交界に君臨していた妹のイメージが、砂上の城のようにあっけなく崩れていった。


ダリアも知っていたのだろうか。

僕はヴィオレッタから、マイペースなダリアへと視線を向ける。

溢れ落ちそうに見開いた僕の瞳に、髪を手入れしてくれているダリアの悪戯っぽく笑う顔が映り込む。


「フロレンスと出掛けてたこと、ダリアも知ってたのか?」

「はい!」

「お嬢様でも、協力者がいなければ外出を誤魔化せませんから」


二人から返ってきたのは、至極当然の言葉だった。

僕はひどい目眩を覚えると、片手で左右の蟀谷を押さえながら、浴槽の縁に頭を預けて天を仰ぐことになった。

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