2001年5月4日 朝

 携帯の着信音で目を覚ました。

 俊介は布団に入ったままの寝ぼけ眼で、相手の確認もせずに通話ボタンを押した。枕に頭を乗せたまま電話を耳に近づけると、予想外の人物が、

「やあ、速見おはよう。堀井だよ」

 と呑気な挨拶をしてきた。

「堀井か……」

 俊介の脳裏に、黒縁フレームのメガネと、灰色のパーカーを着たオタクっぽい姿が思い浮かぶ。

 こいつに携帯の番号を教えたか? と一瞬、訝しむ。だが彼が相川と番号を交換する時に、せっかくだから、と自分とも番号の交換をしたような気もする。

「いや実は君に頼みたいことがあるんだけど、いいかな」

「俺に?」

 頼み事する程、親しい関係になっていただろうか、とそんなことを思いながら上体を起こし、目覚まし時計を確認する。午前8時少し過ぎ。

「君の高校のクラスメイトに、七咲喜久子って子が居たのを覚えているかい?」

 堀井のテンションは高かった。いや、いつも走り屋の世界について調べている時は興奮気味だが、今回のはどうやら違うような気がした。

「七崎、か。ああ覚えている。三つ編みメガネでおとなしい感じの」

 名前を言われて、すんなりと彼女の姿を思い出すことが出来た。

 甲高い声でギャアギャア騒ぐ女の中では珍しく、落ち着いた感じの性格だったので良く覚えている。落ち着いているからといって地味ではなく、一種、別の雰囲気があった。常に本を片手に持っていて、孤高を良しとするところがあった。その様は、絵に描いたような文学少女のようで、印象に残っている。

 そして、もっと言えば妙な親近感もあった。

 長い髪を三つ編みにしておさげにしている姿は、どこか母に似た面影を感じたものだ。

「その七崎がどうかしたのか? 知り合いなのか」

「そうそう、本題に入ろう」

 受話器の向こうで堀井が笑みを浮かべた気がした。

「いやね、喜久子君はレンタルビデオ屋でアルバイトしてるんだけどさ、今日は別の店に手伝いに行く予定なんだ。ただ手荷物が多いから、車で送って行って貰えないかな、と。ダメかな、ははは」

 ――なるほど、足代わりに使おうという魂胆か。

 俊介は鼻で笑った。

「なんで俺なんだ。足を探すのなら他を当たってくれ」

「僕の知る限り一番安全運するのが速見、君なんだよ」

「おだてても無理だ。素直にタクシーでも使えばいい」

「ほら、同窓会だと思ってさ。バイトまでまだ時間あるだろう? それに相川さんも言ってたけど、女の子を隣に載せて走るようになれば、なんか気分が変わるもんなんだとさ。レースの前にリラックス出来るかもよ」

 余計なことを、という言葉を飲み込み、俊介は少しだけ考えた。

 確かにバイトまで時間がある。ヒロシに対する対抗心は燃え上がっているが、心の何処かではまだ、先日のようなミスをしそうな気持ちの焦りもある。

 もし相川の言う通り、昔のクラスメイトを隣に乗せるだけで気分が変わるのなら、やってみても損はない。

「……わかったよ。七崎を迎えに行けばいいんだな」

「助かるよ。集合場所は中道にあるタクマビデオだ」

「そんな店あったか?」

「地味な店だからね。セブンイレブン中道店の真裏にあるよ」

「分かった。20分でそこに行く」

 俊介が短く返事をして通話を切った。堀井に乗せられたような感じがするが、同乗するのが七崎ならば構わない気がした。そういえば、走り屋になってからというもの、いや、免許を取得してからというもの、女性を乗せた経験はなかった。

 七崎は走り屋のことをどう思うんだろうな、と心の中で苦い笑いを浮かべ、俊介は布団から起きて服を着替えた。

 祖父母に挨拶してから台所へ向かい、歯を磨き、顔を洗う。鑑を見て寝癖などを確認したが、普段通りだった。

「じいちゃん、ばあちゃん、ちょっと出かけてくる」

 一声かけて祖父母の家を出た。

 車のキーを握りしめて借り物の元へ歩み寄る。運転席に乗り込みシードベルトを締めてから発車。

 朝陽を受けながら、ブリリアントブルーの車は走りだした。


 ※


「よし! やったねキッコ君。初デートだよ」

 通話を終わった堀井は、携帯電話を握りしめて歓声を上げた。

 だが隣に立っていた喜久子は冷静に、

「送ってもらうだけですから。大げさにしないで下さい」

 ガムテープやカッター、空のビデオケースなどを詰めたダンボールを抱えたまま、無表情で返す。

 二人がいるのはビデオ屋の入り口だった。車を用意するという堀井の言葉を信じて、彼女は仕事の準備をして待っていたのだ。

「足の当てがあるっていうから、誰かと思えば速見君だなんて……」

「お。耳が赤いよ」

「……先輩」

 鋭く見つめられて堀井はおどけたように笑みを浮かべた。

「ごめんごめん。茶化すつもりはないんだよ。実際のところ、君と速見が一緒にドライブしたぐらいで何かが変わるとは思ってない。でもね、もしこれがきっかけで速見のモチベーションとやらが戻るなら、僕としても嬉しいんだよ」

「珍しく利他的な行動だったんですね」

 喜久子に言われて、堀井は少しだけ考えてから口を開いた。顔の前で手を左右に振りながら、

「……いや、僕はあくまで利己的な人間だよ。映画の参考にするなら、最高の条件で走る速見を見たいんだ。ただそれだけなんだよ。それにね」

 そこで一度大きく息を吸って、空を見上げた。朝陽の眩さに目を細めながら、

「速見の抱えている問題は深いよ。でもそれの手助けが出来れば僕だって、車の免許すら持っていない僕だって、走り屋の仲間だって、胸を張って言える気がするんだよね。ただそれだけの我儘さ」

 堀井は喜久子を見つめた。視線を感じた彼女も堀井を見返す。

「まあアレだきっこ君」

「なんでしょう?」

「実際のところ、肩肘張って面白い会話しようとか考えなくてもいいからね」

「何話すかなんて考えてませんよ」

「行き当たりばったりな方が自然でいいもんさ。ほら、耳を済ませてみなよ。ちょっと違う車の音しない?」

 言われて喜久子も耳を済ませた。街を行き交う車の流れの中から、普通の車の排気音よりも明らかに低い、腹に響いてくるような音が聞こえる。

「もうじき速見がくるよ。ほら、多分、あの車だ」

 指差す方を見ると、赤信号で止まっている蒼い車があった。車は信号が青になると動き始め、ゆっくりとその車体をこちらに寄せると、店の駐車場で停車した。

 運転席のドアが開き速見が姿を現す。

「速見君……」

 喜久子が一瞬で固まったのを脇目に、堀井は俊介の元に歩み寄り、

「やあ速見、すまないね。急な用件で」

「今度からはもう少し早めに言って欲しいな」

「ところでこの車、イチゴーだよね。修理に出したんじゃないのかい?」

「ああ、これは安藤の車だ。あいつと俺、同じ車に乗ってるんだ」

「へえ、今度その安藤って人も紹介して欲しいね。相川さんに聞いたらすごく面白い人だって言ってたから」

「あ、あの」

 二人の会話に喜久子が割って入った。心なしか顔を赤く染め、手に抱えたダンボールに顔を埋めるようにして、

「速見君、久しぶり。卒業式以来、だよね」

「3年ぶりくらいか。ビデオ屋でアルバイトしてるなんて知らなかったよ。七崎は成績良かったから、大学に行ったとばかり」

「大学行きたかったんだけどね。函館大学とみらい大学は私大でお金かかっちゃうし、教育大学だと倍率がちょっと……。地元以外の大学も考えたけど、両親に反対されて、結局働くことになったの」

「アルバイトって事は正社員も無理だったのか?」

「……うん。本当、就職氷河期って辛いね」

 喜久子に言われて速見はため息を付いた。

 速見とて就職の意思がなかった訳ではない。一人暮らしするために就職活動を試みたことがある。高校に来た求人を受けたのは10や20では済まなかった。だがその尽くが失敗した。

 観光が主産業である函館は、バブル景気崩壊以降の影響を受け、観光客が激減、サービス業を初めとした三次産業までもが崩壊寸前となっていたのだ。かつて賑わっていた大門地区は瞬く間に寂れたのがその象徴だ。

 速見たち同年代で就職出来たのは、実家の家業を継いだもの、自衛隊を含め公務員になったもの、ほとんどアルバイトと同様の賃金で、止むを得ずに就職したものだ。

 残りがどうなったのか、速見は知らない。

 速見自身、北海道から離れ、ヒロシのように内地に出稼ぎという手段を考えたこともあった。だが打倒・相川を為すまでそれは出来ない。そうして結局、アルバイトという位置で落ち着いてしまったのが現状だ。

「まぁ、景気悪い話しても仕方ない。速見、キッコ君を頼んだよ」

 笑顔を見せたまま堀井は、喜久子の背中を片手で押し出した。

 たたらを踏んで彼女は、ダンボールの箱から顔を上げ、少し頭を下げる。

「じゃあ速見君、お願いします」

「ああ。荷物は後部座席に置いておけばいい」

 言いながら俊介は後部座席のドアを開いた。そこに腰をかがめて喜久子が荷物を起き、改めて助手席の方に座る。

 速見と喜久子がシートベルトを締め終わると、堀井は車内にいる二人に向かって、いってらっしゃいと手を振った。

 アクセルを踏み、車が動き出したところで俊介は口を開いた。

「なあ七崎、堀井と知り合いだったのか」

「知り合いも何も、同じ学校の先輩だよ」

「俺の先輩ってことにもなるのか……見た記憶が全然ない」

「堀井先輩は生徒会長やってたのよ。私も生徒会に入っていたし、その時からの知り合いになるのかな」

 言われて高校時代を思い出したが、普通の生徒であった俊介には、当時の生徒会長の顔も名前も覚えていなかった。

「函館は狭いな」

 苦笑を浮かべる。どこに行っても知り合いの知り合いぐらいの関係の人間にはかち合うものだ。

 ハンドルを握りしめ、交通速度を丁寧に守りながら目的地に向かう。

 あらかじめ聞かされた話では、喜久子は湯の川の方にあるビデオ屋に、ヘルプとして行くらしい。湯の川にはビデオ屋は一つしかない。中古のゲームやCDも取り扱う、やや大きめの店舗だ。

「ごめんね、急な話で。本当なら店長の車に乗せてもらうはずだったんだけど、急用で店長が出かける事になって。いつかお礼するね」

「気にしなくてもいい。どうせ俺もバイトの時間まで暇だったんだ」

 前方を見据えながら車は走って行く。産業道路に入り、ひたすら下っていく。湯の川へ進むのはこれが一番近いルートだ。

「速見君、ガソリンスタンドでバイトやっているんだよね。今日は何時から?」

「昼からだ。まだ全然、時間には余裕がある」

 俊介のバイト先であるガソリンスタンドは、厳密に言えば市内ではない。函館の隣にある上磯町(注釈:現・北斗市)という群にあるのだ。

 俊介は話題らしい話題も見当たらなくて、当たり障りのない会話をした。

「七崎は何時頃仕事終わるんだ」

「私はヘルプだから……向こう次第かな。多分、5時くらいにはなると思うけど」

「そうか。もし帰りも荷物多かったら連絡くれ。また迎えに来る」

「いいの?」

「ああ。どうせ俺の仕事も大体5時には終わるからな。七崎の仕事が終わったら一緒に拾って帰るさ」

 堀井から頼まえれていたのは送りだけだ。仕事が終わった後のことまでは頼まれていない。だからそんな親切心が自分にあったのかと、俊介は言ってから自分に軽く驚いた。

「ありがとう。でも、私、速見君の連絡先知らない」

 俊介は右手でハンドルを握ったまま、左手を上着のポケットに入れ、携帯電話を取り出した。そして横に座っている喜久子に差し出す。

「今のうちに番号を登録しておいてくれ。そしたらこっちに連絡してくれれば、俺も七崎のメールを登録するから」

 喜久子は頷いて自分の携帯電話を取り出し、俊介の電話番号を入力し始めた。

 試しに空メールを送信してみると、数秒もしないうちに俊介のディスプレイに喜久子の番号が表示される。

「登録出来た。同じ携帯会社だったから、キャリアメールが送れるみたい」

 差し出された携帯電話を再びポケットに押し込み、視界を前方に集中する。

「有斗高校の近くにある、あのビデオ屋でいいのか」

「うん、そこで合ってる」

 場所を確認して俊介は産業道路を下って行く。この道路の並びには名門と名高い白百合女子学園があり、さらに下って行くと甲子園にも出場経験のある野球の強豪校、函館大学付属有斗高校もある。

 道路を挟んで反対側には著名人を輩出する函館ラ・サール高校もあり、どうして日本各地からこんな辺鄙な田舎町に高校生が集まってくるのかと、俊介は不思議でならない。

 函館で生まれ育った俊介も、そして喜久子も、こんな有名どころとは全く無縁の地元の学校に通い、そして不況の煽りを受けて苦境に立たされている。有名な観光都市という輝きに惹かれてやってきた人たちは、この閉鎖的な街を見たらどう思うのだろう。

 やがて車は目的に辿り着いた。

 20台は車を停められる広い駐車場があり、その奥に店舗を構えている。喜久子がいたレンタルビデオ店とはまったく比べ物にならない程大きな建物だ。

「じゃあ速見君ありがとう」

 シートベルトを外しながら喜久子が礼を言ってきた。彼女は車から降りると、後部座席に置いていあるダンボールを両手で抱え込むようにして持ち上げた。

「少し持とうか?」

「大丈夫。ほとんどこれ、中身空っぽだから」

 背中に声を投げかけたが、喜久子はしっかりとした足取りで店に向かって歩いて行く。

 入り口の自動ドアをくぐり、受付にいる人に喜久子は自分の胸章を見せていた。そのまま彼女は案内されて店の奥へと姿を消す。

「さて――」

 喜久子の姿が完全に見えなくなったところで、俊介は運転席に身を沈めた。バイトの時間まではまだ余裕がある。体調は良い。昨日は祖父母の家でしっかりと食事を摂り、夢も見ないほど深い眠りに身を任せた。

 安藤の様子を見に行こうか、と一瞬考える。だが自分の愛車を渡したのは昨日だ。いくら安藤とて一昨日の間に車を修復出来るはずはない。

 なんとなしに携帯電話を取り出して、先ほど着信した番号から七崎のものをメモリーに登録。そのまま時間を確認してみるとまだ10時だった。バイトまで、まだ2時間ほど暇がある。

 ふと思い立ってショウへ電話をかけてみた。数回のコールの後、相手が出た。

「なんだシュン!」

 そう言ってきたショウの声は小さい。どうやら後ろで大きな音が流れていて、声がかき消されているようだった。

「どこにいるんだよ、ショウ」

「ゲーセン! 昭和の!」

 俊介はそれがすぐに、昭和町にある大きなゲームセンターだと分かった。格闘ゲームもやるショウに時々付き合わされて行くこともある。

 音に負けじとショウも声を張り上げている。

「シュン、バイトまで時間あるだろ! ちょっとこっち来いよ」

「分かった」

 短く答えて電話を切る。1時間ぐらいなら良い暇つぶしになるだろうと思い、俊介はシートベルトを締めて、車を発進させた。

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