スターの目は絶望も希望もぶち抜く光線だから

二 幕間

第1話

 

「ふつう、嫌いじゃないけど」って、普通ってなんだ? 月イチでムカついてる言葉だってのに、週に五回は吐いている気がする。「普通に美味い」「言うほどか? ふつうじゃね?」などなどなど。もちろん、普通の人、普通じゃない、とかで使われるのとは意味も軽さも違うし、腹が立つのはそっちだ。だからって、ふつうにおいしいもふつうにおもしろいもおかしくないわけないよな? リリックを書いてると時々変なところで引っかかる。なんとなくのノリが大事で、そもそも俺にたいした語彙力はない。語彙力を失う前段階で蹴躓いている。まぁ、ないなりに疑問を持つこともあって「ふつう」はかなりの確率で出会う。スニーカーに入り込んだ小石みたいなもんで、目的地への足取りを軽い調子で邪魔する。イライラ、ズキズキ、歩けはするけど、いつもと姿勢が変わる、そんな感じ。

 でもそいつはそこらじゅうに転がるありふれたもんだから、みんなが使う。あたりまえに、疑問もなく、気を配っていたけど、あームカつくって先週も思ったばっかりなのに。

「や、ふつうってなに? じゃあマーヴェリック観た?」

「……だからなんだよ」

「行ってるじゃん劇場。好きじゃん!」

「アレは好きとかそういうレベルの映画じゃねーだろ」

 トイレの個室。短い間隔で色が変わるサイケデリックな照明。ここにスピーカーでもあんのかってくらいに突き抜けてくる音楽。こりゃバケツで水がかけられるな、と思った扉の上部から、水じゃなくて声が降っている。ぶら下がってるのか? ドアノブに足をかけてる? どっちにしろたいして強度のなさそうな扉にはかわいそうな仕打ち。壊したら金払うんだろうな。オーナーにドヤされるの俺だぞ。

「スターから名前もらったわりにはみみっちいなぁ」

 降り注ぐのは俺を馬鹿にするための言葉なのに、見下ろす目は子どもみたいだ。大人が反応に困る質問を無邪気にしてくる、あれに似た無垢さ。手に持っていた腕時計を左右に振ると、視線が動く。動物みたいなやつ。

「取ってねぇし」

「意味わかってるんだから知ってるの確定でしょ」

「もういいから降りろよ」

 立ち上がって尻ポケットに腕時計を突っ込み扉を蹴る。うわ、と情けない声をもらしながら、いじめっ子あらため覗き魔あらためただの同業者Aが着地した。もしかしたらこの後すぐに恐喝者Aに変わる可能性もある。個室を出て洗面台へ。未確定の男が隣の蛇口を回す。

「俺がズボン下ろしてたらどうすんだよ」

「履いてたから問題ナーシ。問題あるのはそっちかな? ヴィンセントくん」

「……誰もそれで呼んでねーだろ」

「じゃあV.Aくん、ヴィンセント・アサシンくん」

「大城」

「燕汰くん」

 振り回されている状況が飲み込めない、というか飲み込みたくないからため息を吐く。この数分間が泡と一緒に排水溝へ流れればいいのに。そりゃ地元の友達は燕汰って呼ぶけど、お前に許したつもりはない。つか、普通名字だろ。と思って、ああこのふつうってやつとはほんとよく出会うなんて、誤魔化しも込めたガンを飛ばす。鏡の中へ。目があって、ぱちんと尻ポケットを叩かれた。

「うお、なんだよ!」

 思わず振り返って、鏡より近いことに驚く。色素の薄い目、抜きすぎてるのにダサくない茶髪、緩くカーブまでしてやがる。この世で一番チャラい髪型だ。

「とったでしょ。トムとこれ。こっちも好きなの?」

 ケチな犯罪だねぇ、濁りのない目、深まる笑顔、空気に合わない言葉を吐く。ミュージックビデオの中でもこの顔してたな。少し前に見たばかりのサムネイルを思い出す。俺はこいつのファンでもダチでもないけど、同年代の新曲のチェックをするくらいには勤勉だ。だからユアマイなんちゃらなんてタイトルも覚えてるし、好きじゃなくても役名を覚えていることもある。

 ぜんぶに好きとか嫌いがあるわけがない。そうだろ?

「ほら見ろよ、それなりの金になる」

 尻ポケットから取り出した時計を目の前で揺らすと、やっぱり視線をゆらゆら。なんにでも興味ある年頃ですか、ぼくらは。なんちゃって。

「トムが好きなわけじゃねぇし、俺はしょっちゅう名前変えてんだよ。欲しいのは時計じゃなくて金」

 はい終わり、と今度こそ時計をしまう。さて、これは無事に換金できるのか。笑うしかないから笑う。できるだけかっこよく見えるように。隠しごと悪いことがバレてテンパる人間は山ほど見てきたけど、あいつらは本当に終わってる。そうだ、犬歯を見せてやろう。

「お金が好き?」

「しらねー」

 にっこりだかにんやりでじっと見続ける。返ってくるのはなんの意図もない笑顔。俺のとは比べようのない純度に、負けたくねぇって気持ちだけで向かい合う。身長は俺と同じくらいだ。俺は地元ではデカいほうだった。地元では。だからこいつもそこまででけぇわけじゃない、そういうことだ。ガンのつけ合いだと思い込んだただの見つめ合いも、廊下から聞こえてきた酔っ払いの怒鳴り声が終わりの合図になった。

「アヤって呼んで」

 じゃあね、手を振られると振り返してしまうのはなんでだろう。閉まりかけの扉の向こうから「シカトしてんじゃねぇよ!」とがなり声。やってんなぁ今日も。変な位置に浮いていた手を下ろしてため息。さよならと再会の約束をしたあとの子どもみたいにぽつんとした気持ちになる。別にあいつと再会したいわけじゃないのに、めんどくさいなにかが始まる予感がする。外れろ。

 つかアヤソフィアってお前のがダサすぎんだろ!

 


 今度こそ終わりかぁなんて、あの顔を見て思った。いや、長い指がひび割れみたいに現れた瞬間には「あーあ」と思っていた。向こうから生えてきた顔は照明のせいでまだらに揺らめいていた。有害物質で汚染されて蘇ったゾンビとか、オーロラを貼りつけて波打つ新人類。

 ズボンも下げないで便器に座り、盗った腕時計を眺めていた俺を驚かすには十分な登場だ。普段ならキレるとこだけど、即座にそうできなかった理由は握ったベルトのひやりとした冷たさにこそ。男はこんなクラブには似合わない、ジャングルジムにでも登って友達を待つ子どもみたいに無垢な目で俺を見下ろした。吐いた言葉は数秒のうちに予想していたどれでもなくて、俺の口は自動的に俺の嫌いな言葉を打ち返していた。ゆっくり変わる色を乗せた目が俺をじっと見下ろすイメージが消えない。まるでスーパーパワーを使うヒーロー。俺は卑屈な小悪党。

「話題の超大作くらい誰だって観にいくよなぁ」

「あー、マーベルとかなら観るんじゃね」

 バーカウンターの奥でナッツを皿に盛っているケンジはてきとーな返事。こいつはいつもそうだ。てきとーなグラム数でてきとーな素材をてきとーに混ぜて作ったなんとかヒトの形をしてる男。焼き加減が甘いから摘むとそこらじゅうにボロボロこぼれる。唯一いい感じに焼けるのが妹で、そいつの目があるとちょっとはしゃっきっとする。俺より何個か上だけど、うやまう気持ちは湧いてこない。

 でもまぁ、てきとーだ。てきとーってのは適当でもあるから、監督や役者に興味ない人間でも大作映画くらいは観るのだ。だから俺の答えは間違ってない。別に好きじゃない。嫌いでもない。ただなんとなくあの映画が好きで、あの悪役がかっこよかったから名前を取った。由来なんてどうでもいい。俺は「どうしてその名前にしたんですか」って聞かれるほど有名でも人気があるわけでもないし、肝心の名前だって気分でコロコロ変える。あの時は久しぶりに映画を観返したあとで、気分だっただけ。ついでにいうと、有名でも人気でもないけど、の上に「そこまで」がつくきっかけになった曲をリリースしたタイミングだった。だからしばらく名前を変えてない。それだけ。

 カウンターに上半身を預けてダラける。視線を上げるとミラー。不自然に歪んだ俺が映る。硬そうな黒い髪、少し焼けた肌、オシャレに呪われて一部欠けた眉。そんな男が背の低いグラスを持って不機嫌そうにこっちを睨みつけている。やっぱり眉生やしたほうがいいか? でも似合ってるって言われてるし、いや、お世辞の可能性が高い。どうなんだ。そいつは今にも気に食わない言葉を吐き出しそうだったから、視線をそらす。

「アレ誰が勝ったんだ」

 店の奥を振り返る。ステージの左側のボックス席で男たちが盛り上がっているのは腕相撲で、もう三十分はやってる。向かい合う対戦者より周りのほうが興奮していて、音楽に紛れて途切れ途切れに声が聞こえる。

「さあ? ずっと誰かがやってるから勝つとかないのでは?」

「……みたいだな」

 負けた男を引き剥がしてまた次が膝をつく。しかし飽きないなぁあいつらも。だから簡単に盗れたんだけど。今負けたほうの肩を叩いて笑っている男から盗んだ腕時計はそれなりの金になる。それなりの、ってのがポイントで、本気の大金だと問題もデカくなる。だからSNSで「ちょっといい買い物した」って自慢してるくらいのやつがいい。

 酔っ払いたちが俺より強いやつを探しにきたとかなんとかで盛り上がって腕相撲大会を開催して、あいつが先週自慢してた腕時計をカバンに入れた瞬間を見たのは偶然。マリファナを吸うやつも多いから監視カメラは止められがち。全部いい感じだったけど、俺が計画を立てて盗みをしたことは一度もない。誰かの自慢も、いつもは聞き流して終わりで、目をつけてるわけじゃない。手が意志を持っている、が一番近い気がする。なんかのSF映画みてぇだけど。これを誰にでも伝わる言葉で構築する力が俺にはない。あらわす単語も、慣用句も、引用も。ただ俺の手はいつも上手くやってきた。今日までは。明日からはわからない。

「椎名のやつまた違う子だ。うらやましー」

 反対方向に視線をやると「未確定でわからない男」が常連の女の腰を抱いて笑っていた。あいつ椎名っていうのか、アヤソフィアなんてクソダサい名前つけるよりそのままやったほうがよくないか。またとか次とかこの前とかは知らない。さっきまでほとんど興味もなかった男だ。今は、気にしないでいられないけど。

「魅未ちゃんの腰抱いてたらどうする?」

「泣かすボコす殺す」

 声を上げて笑ったから睨まれた。妹離れできないのは俺もケンジも同じらしい。多分どちらの妹も、とっくに兄離れしてる。腰を上げてカウンターに千円札を置く。

「帰るわ」

「おー。あ、明日シフト変わってくんない?」

「い、や」

 拝み倒される前にカウンターの前から逃げる。先週も変わったばっかだっつーの。クビにされるぞと思ったけどあいつはオーナーの親戚だからきっとそれはない。てきとー人間がてきとーにやるためには適当な環境が必要なわけで、それを羨ましいとは思わない。沖縄から出てきてこっち、俺はなんとかやれている。



 久しぶりに「式」の文字が送られてきた。もちろん、葬式だ。

 その類のメッセージを開く前は、予感がある。頬のうぶ毛が生ぬるい風に撫でられたような、なんとも言い難い感覚。一生見たくない、と、早く確認してしまいたい、が交互に飛来して、結局無関心を装って画面をタッチする。出たいとも出なければとも思わない関係の人間でも、いい気持ちにだけはならないのが不思議だ。諦めるやつも故郷に帰るやつも捕まるやつも死ぬやつも、他の生き方の同年代よりは少しばかり多く接しているだろう。そんな中で先月も何度かステージに立てた。新曲の配信も決まっている。スターにはほど遠い、すぐに燃えてなくなる小さい石コロだけど、俺は大丈夫。誰かに火をつけられるわけじゃない。自分で燃えている。

 起き抜けに見たせいで、まだベッドから出られない。ただの気だるい朝が、悪いだるさをまとい始めているのに気づく。だからといってすぐに切り替えられるほど、俺は大人じゃない。

 ぼんやりメッセージアプリを眺めるフリをして、よし、と心の中で気合いを入れたタイミング、見計らっていたように着信があった。妹だ。「ちはやー」という名前の横に鳥のアイコン。前に聞いたら「隼だけど?」と馬鹿にした顔で言われた。俺は意地でもツバメのアイコンなんかにしねぇ。

「なに? うん、いいよ気にすんな。おじーはどんな? うん、また夏に帰るよ。だから気にすんなってば。せんりーは元気か? うん、だから忘れられないうちに帰るよ、うん、じゃあな、はい、バイバイ」

 切ってため息。別に妹からの電話を嫌だと思ってはいない。ただよく喋るやつだからちょっと疲れる。それに訛りを聞くとこっちも訛る。瞬時に、即、びっくりするくらいに訛る。仲間といる時にうっかり電話に出てしまうと、まぁ、からかわれる。おかしくね? だって関西弁で電話に出ても誰も笑わないだろ。他の地方だと田舎者扱いされるのはムカつく。ひとりで疲れたりムカついたりしても虚しいだけなので、今月のヒップホップチャートなるただのヒップホップファンが作った動画を再生してメシの準備。メッセージアプリに返信はしなかった。

 目玉焼きとベーコン、コンビーフを乗せて醤油を垂らしレンチンした白米。そんな昼メシを食べていると、つけっぱなしにしていた動画が先月のチャートに切り替わる。下から数えたほうが早い段階で、ユアマイなんちゃらが流れ出した。バカっぽいタイトルだと笑った曲を歌う男は、全然バカには見えなかった。



 あれー偶然じゃん、と声をかけられて、つけられたと思ったとして俺は悪くない。だってストーキング行為をしててもおかしくない男だからだ。目の前までやってきた椎名は「ぐうぜん、偶然」と何度も繰り返す。あやしい。ここ沖縄物産展だぞ? 都内の有名な駅ビル内とはいえ、特定地域の特産物をあつかうためだけの催しで同業者と会うか? ぜってぇにつけてきたな。

「偶然だって! ほらこれ! こっち目当てだったの!」

「あー?」

 恐喝のネタ探しに勤しんでいたに違いない、と思い込もうとする俺に紙袋が突き出される。フランス語でなにやら印字された厚めのきれいな紙。高そうだな、それしか思うことがない。

「チョコだよ。バレンタイン前でしょ、上でスイーツコレクションやってるの」

 そういやポスター見たな。この高そうな袋の中身がチョコかと思うと、突きつけられているだけでなんかこわい。

「降りてきたら変な時期に沖縄物産展やってるからさぁ。まんまときちゃった」

 雪も降らない沖縄の特産で寒さを吹き飛ばそう! 的な企画はいちおう成功してるらしい。あたりを見ると似たような紙袋を持っている客がちらほらいる。沖縄にだってバレンタインはあるけど、東京にいると冬は寒い。この数年でこっちの暮らしに慣れてきた俺は、本来なら変だと思わないはずの光景にミスマッチ感を覚えた。そのことに気づいて、内臓が変に収縮する。

 ここにきたのはなんとなくだ。もともと頻繁に人に会うほうでもない。なんにもない日はひとりでいるのが楽。予定も決めずに街に出て、微妙な人数が並ぶラーメン屋に入ったりする。誰かに伝えるなら「うまいけど」から始まりそうな味、それくらいがちょうどいい。どこにアップするわけでもないのに店の看板を撮る。ラーメン屋に限らず、スマホには数十枚の写真。どこか別の街に出てきたんだというなんとなくの証明を溜め続けている。そんで、昼を食ってぶらぶらしながら見つけたのが時期外れの催事ポスター。ちょうど先週妹と通話したのを思い出して、ふらふらと。思い返すと、ピカピカの太陽のイメージに誘われる走光性の虫みたいだった。なんでこんな難しい言葉を知ってるかっつーと、昔観た映画のセリフにあったから、以上。

「ふーん、へー、じゃあな」

 つけてきたって態度ならこっちも相応のアレが必要だけどそうじゃないならアレも必要ないってことで、これ以上こいつと話してる意味がない。さっきまで懐かしさにもまだならない、記憶に新しいくらいのインスタント食品を眺めて、わざとらしく「なつかしー」なんて思ってたのに、もう違う。ミスマッチの輪郭がどんどん強調されて、そこに椎名が加わると額縁だけが浮いて見える。ここはもう俺のいるべき場所じゃない。

「待って、早いな躊躇いがない、待ってって!」

 片手をあげて回れ右で催事場から出る。ごちゃごちゃ言いながら追いかけてくる椎名を振り返る必要性は感じなくて、でもあたりまえの顔をして俺の隣に並んだ。

「もうちょっと話そうとかさー」

「ない」

「そう? ほら、一度の偶然は許されるって言うし、その偶然って物語的には大事なシーンだろ?」

「はぁ。じゃあそれは他のやつのためにとっとけば」

「いや、俺はここで使う! たった一度の偶然を!」

 あまりにでたらめでおかしな主張に笑いそうになった。それが恥ずかしくて、得意の誤魔化しガンつけを繰り出す。視線だけを向けると、隣の椎名は笑っている。ニコニコ、吹き出しの外に書き込むならそれがぴったりの顔だ。やっぱり身長はそう変わらないらしく、歩幅も同じ。スピードが揃ったまま、来た時もふたりだったみたいに、俺と椎名はビルの外へ出た。

 謎解きゲームをしようと椎名が言い出したのは、近くに有名なスポットがあったからだ。見ず知らずの人間とグループになってプレイする特殊な遊びは、俺の性格にまったく合わない。それなのに着いていってしまったのは、椎名の強引さに負けたからだ。負け、は気に食わないけど、そういうことにでもしておかないともっと気に食わない気持ちになりそうだった。六人一組が多いのか少ないのか知らないうちに、椎名の人懐っこさでゲームは上手く回っていく。黙っていても進むのは楽だった。少しは「こわい」と思われないようにって、眉間にシワが寄りそうになるのは我慢した。それだけでも俺は十分に椎名に協力したはずだろ?

 よくわからないままにゲームが終わって、遊戯会場から出る。外はもう夕暮れだった。アレ? 誰かと一緒に酒飲む以外で遊んだのっていつぶりだ? 思い浮かぶのは酔っ払いかゆるくラリったやつらの笑い声ばっかり。ついでに先週送られてきた「式」の案内。俺が東京に出てきてから数ヶ月だけ同じクルーにいたやつで、オーバードーズがお得意だった。最後のほうは地元の先輩だかの誘いで闇バイトの話をよく振ってきたのを覚えている。それがどんだけあいつの死に繋がってるのかしらないけど、全部がこんがらがって絡み合ってダメになるってのはわかる。

「燕汰くんこれあげる」

「あ?」

 高校途中でやめて音信不通になったやつとか、男からの暴力で泣いてた近所のねーねーとか、死んだってよって聞かされた知り合いの顔を思い出してた。そんな俺の目の前に差し出される、深い紫でラッピングされた箱。うん、かわいいね。なんで俺に? 甘いもの好きなんて言ったっけ。今日こいつとした会話を思い出そうとして、ぼんやりこっちを眺めていたいくつかの顔は消えた。

「いらない? 甘いもの好きじゃない?」

「いや、べつに、」

 ふつう、を言いかけてぐっと喉をしめた。言ったからってなにが悪いわけでもないのに、上から降ってきたあの視線を思い出してきゅっとなる。椎名は差し出した手をそのまま、俺にもう一度きれいな箱を近づける。

「まぁ好き……」

「おおー俺も!」

 今日イチ嬉しそうな顔しやがる。

「じゃなきゃあんなとこ買いに行かねぇだろ」

「いやぁ、年に一度のお祭りだよね」

 色んなとこで催事あるし! 椎名が興奮してきたから会話を止めるために箱を受け取る。このままだとどこの店が美味いだとか語り出しそうな勢いだ。俺はブランド名とかはしらん。箱は片手を広げたよりはでかい。多分12個入りかな。包装紙もしっとりすべすべで、普段俺が自分で食べるものとは違う。

「いつもはひとりで食べるけど、今日は記念に」

 なんの記念だか、あげた側の椎名はめちゃくちゃ喜んでいる。こんだけ嬉しそうだと貰いがいもあるよな。貰いがいってなんだよって感じだけど。

 椎名はそのあと「これから行くとこあるから」と「じゃあ、また」をセットにして色んな強引さが嘘のように雑踏に消えた。カバンを持っていない俺はむき出しのかわいい箱を手に持ったまま、ひとり電車に乗る。手の中の厚みを感じながら、俺って甘いものけっこう好きなのかもなんて思った。



 盗んだ物の換金は友達に頼んでいる。俺は窃盗団の一員ではなく、なにか計画的な犯罪に関わってもいないからだ。誰かと示し合わせて前もって準備する必要はない。ただピントのボケていた光景が、誰かの、たとえばカバンを置きっぱなしにするうかつな行動なんかを見ると、くっきり浮かび上がる。そこにピントがあって、潜めた足音や、まさぐる手を想像する。それを振り払おうと他のことを考えてもダメ。俺は結局、いつも想像通りの行動を取る。

 正直、やっとやめられるなと思った。人のちょっとした自慢、自分へのご褒美、それを手にぼんやり眺めている時間は、気持ちのいいもんじゃねぇ。お前がなに言ってんだよって感じだけど、本当。だから妹への仕送りに混ぜる。汚い金を生まれたばかりの甥っ子のベビー用品で浄化。多分できてないから最悪だ。誰にどんな用途で渡しても、汚ぇ金は汚ぇ金。理想論だけど、そうだろ? 椎名が俺を見下ろした時、焦りもうしろめたさも安堵もあった。人は瞬間、とっちらかった感情を同時に得られるらしい。そのときはなにもなく解放されてよかったと思ったけど、どうしてやめろと言ってくれない、そんな理不尽さに付きまとわれている。

「ねぇねぇ、それどこで換金するの? 取っとく系?」

 でも金になるって言ってたし違うか、うしろを着いてくる椎名はおしゃべりだ。うるさい。心のどこかで欲しがっている言葉はくれないくせに、どうでもいいことはペラペラペラペラ。あのチョコレートは美味かったけど、あれ以来ライヴハウスやクラブ、同業者のたまり場で会う度に話しかけてくる。今日も小さいハコを出てからねぇねぇとうるさい。やっぱりこいつはストーカーかもしれん。

「うるさい。関係ねーだろ。それとも欲しいのか?」

 人前でコレに言及してこないけど、されたほうがマシだとも思う。俺は自分がいったいどうしたいのかわからない。自分が掴めない。同じくらいにこいつも。どこかふわふわとしてる椎名は、周りからあまり好かれていない。いや、一部の男たちから嫌われている。フェイクだとかなんとか、いまだにそれ言うやついるんだって言葉で陰口を叩かれている。女に人気があって、チャラそうな、苦労してないように見える、そういう「仲間じゃない」同業者を嫌うやつがいる。しょうもないけど、そんなやつらの声はだいたいデカい。ファンも乗る。だから椎名は嫌われている。でもそれは「ふつう」だ。誰だって誰かを嫌いで、みんなと仲良くやれるわけじゃない。俺も、こいつも、あいつも。ガキの頃みたいに誰かとつるんで、それだけなのにクルーとかいってかっこつけてる。全然悪くない。「仲間」がいるのはいいことだ。それからあぶれるやつもいる、ただそれだけ。

「えー、いらない。それあんまりかわいくないし」

 どのタイミングから見てたのか、確かに今日盗ったキーホルダーはダサい。ブランド名がデカデカと印字されたよくあるデザイン。鍵はもちろんカバンに戻しておいた。鍵までなくなってると付随する問題が大きくなる。逆に物だけだと、数日後にはネタ扱い。俺が盗むのはたいてい酔っ払いかラリパッパー。そのせいでなくしたんだろうとか、その場にいた誰かにあげたんだろうって話になる。視界がくっきりと冴え渡っても、同じ場所では繰り返さない。そのあたり、手が勝手に、なんてのはやっぱり言い訳だと自分でも思う。実際のところはしらない。医者にかかってもないし、その手の本を読んだことも、ネットで調べてもない。ただ、多くの人間はこんなことしないだろうと、それはわかる。鍵は返した、悪いな。わざと軽く心で唱えて悪ぶる。なにかの登場人物みたいに俺を俯瞰する。そうじゃないと、やたらふらつくのだ。掴めない、俺を。

「お前さぁ、」

「アヤ」

「……椎名はさぁ」

 椎名は不満げに俺を見る。やっぱり隣だ。俺は人に歩幅を合わせない。妹以外には。あいつに車道側を歩かせないためだ。ネグレクト、片親、ありふれた家庭。俺がまだ全然ガキだった頃に始めたそれは、俺がしてることで、唯一本当にかっこいいことだろう。今はもう、年に一度あるかないかだけど。とにかく、俺は合わせねぇから椎名だ。それとも本当に同じスピードなのか、どうでもいい疑問に逃げるのは、どう転ぶかわからないセリフを吐こうとしてるから。

「あー、わかった! 言わないよ、誰にも」

 だけど吐く前だったから驚く。ラリーにもなってない。同じスピードなんかじゃなくて、こいつのが早いじゃん。足が止まって、顔を見合わせる。ちょうどハンバーガー屋の前だったから、どちらともなく入口をくぐった。



 なにやってんだって言いたい、でも我慢。食べ物関係は地雷だ。驚きも困惑も嫌悪も、関係を吹き飛ばすくらいの威力を秘めている。家庭環境が、育ち方がモロにで出る。あたりまえがあたりまえじゃなくなって「かわいそうに」と言いたくてしかたない目で見られたろ、お前も。そう自分に言い聞かせて目を逸らしたくても逸らせない、皿の上。椎名が無惨にも解剖したハンバーガーは、これからホルマリン漬けにする予定があるらしく、灰色の皿の上にきれいに並んでいた。チーズの乗ったパティ、レタス、トマト、バンズに揚げたマッシュルーム。天高くビルドされていた美しいハンバーガーが別のアートに早変わり。

「怒りたいでしょ」

「べつに」

 俺はハンバーガーにかぶりつく。椎名はバンズをいい感じにちぎって中身と合わせて口に運ぶ。

「口の端切れてる時にこう、ぐわぁ! ってかぶりついたらさぁ、血がめっちゃ出てきて、かるーくトラウマなのよ。あっ、信じてないね」

 そのレベルの話ならそっちのがいいわ。そしてすぐにどーでもよくなった。指を伝ってソースが垂れてきて、ハンバーガーを皿に戻してから舐める。理由があって、粗末にしないなら他人に口出ししない。理由がなくても、面倒だからなにも言わない気がする。でも気分は変わってくるだろ? メシを作る大人がいなくて、缶詰ばっか並んでた食卓がハンバーガーの上にオーバーラップ。兄貴は早いうちに出ていって、妹は俺の手料理が食べたいって。覚えたのは簡単な調理だけど、まあ、ひとり暮らしするならそのほうがよかった。でもいまだに大量の缶詰を棚に詰めている。ないと落ち着かない。そういうなんやかんやが、人にはある。

「俺って先回りしちゃうんだ」

 気分悪いよね、皿をきれいにしたあと、椎名はバツが悪そうに言った。そう見えるだけで、そう見える顔を知ってるだけなんだろうなと、なんとなく。

「気になることとか、誰かとか、見つけるとスピードが乗っちゃう、的な」

「でも事故ったことねーだろ。そんな感じするわ」

「そうかな? そうかも」

 今度はしっかり苦笑い。これはほんとっぽい。椎名を嫌いなやつはいても、周りはいつも人、人。なんで知ってるかってーと、インスタとか見たからだ。なにもない日を作る俺とは違って、こいつは外に出るのが好きらしい。俺の知ってるやつと知らないやつと、細切れのストーリー。

「燕汰くんとは事故りたくないし、それにもともと言うつもりないから」

「……なんで。わざわざトイレ覗いたくせに」

「言い方! いやだって、みんなで隠れて吸うのとなにが違うの?」

 違うだろ、とは俺の立場からは言えねぇ。相手があるのとないのじゃ全然違う。でもハスラーは相手があって、そのせいで酷い目に合うやつもいる。なのにそいつらも許される。曲にもなる。目に見えない、妙な空気の連帯感。それが悪いとはやっぱり言えない。地雷を抱えたやつらがどうにか人間らしくやっていけるのも、誰かが「仲間」だと肩を叩いてくれるからだ。だけど、椎名はそう言うけど、俺のやってるのはそこから弾かれる「悪いこと」じゃねぇかな。

「同じじゃねぇと思うけど」

 だから言ってくれたらよかったのに。汗をかいたコーラのグラスをつつく男は、相変わらずヒーローみたいな目をしてる。古いアメリカの音楽がかかる店内にマッチする。椎名は渋谷でも原宿でもパリでもイケそうだけど。

「同じか違うかはしらない。だけど俺は言わなくていっかって思った。それで終わりだし、それが最高だと思う」

「……お前、はぁ、もういいわ。なんかだるくなってきた」

 もしかしたらアンチヒーローとかダークヒーローかもしれん。それこそしらんけど。知りたくねぇ。

「えー、なんかもう終わる感じ? じゃあデザート食べよう〜」

 椎名がメニューを取り出してうしろのページをめくる。にこにこ、楽しそう。甘いもの好きだったな。俺も好きっぽい。アメリカンなサイズのいかにもな写真がドーンと載っている。椎名の指が生クリームとチョコとキャラメルの海をたゆたう。

「チョコサンデー、キャラメル……あ、ストロベリー」

「俺はキャラメル」

 先に決めると、椎名がばっと顔をあげた。

「燕汰くんって食べるの好き?」

「……好き、だと思うけど」

 じゃなきゃハンバーガーからデザートいかないだろ。ハンバーガーもデカかったからな。

「じゃあ俺は?」

 はぁ? お前? お前は未確定の男から変な男になったばっかりで、友達でもないぞ。ちょっとおもしろいって思ってる自分もいるけど、それってどうなん? てか、こいつ俺がゲイって知ってんのか? 

「ねぇ俺は? 嫌い? 好き?」

 睨みつけてもなんのその。俺のガンつけは椎名には効かない。それなりに効くはずなんだけど、何気にへこむ。

「どっちでもねぇ、ただの知り合い、以上」

「えー、それが一番びみょーだよ!」

 なんとなく逸らしたくなった視線。こういう時はグラスを持つにかぎる。店の雰囲気に合わせてデカいそれは、傾けるといい感じに俺の顔を隠す。

「じゃあどっちかにさせちゃおう」

 グラスの向こう、いびつな線。濃い茶色と人間が混ざり合う。

「俺のこと、好きか、嫌いか」

 ふつうなんて、ありえないから。



 バレンタインの時期にチョコをもらって「好意」を少しも想像しなかったのは、過去一度も彼氏ができたことがないからで、恋はしても恋愛にならなかったからだ。好きになれば、こっちの気持ちは否応なくぶち上がる、それは知っていた。放課後一緒にメシに行ったとか、日曜にグループで遊びに誘われた、そんな程度で。でもそれは俺の都合で、俺だけの気持ちで、向こうからなにかあるわけじゃない。それどころか、視線のひとつバレないように過ごした数ヶ月は、どっかのヒットマンみたいだった。俺の恋はそうだから、チョコを気軽に渡されたくらいでどうこう思えない。

 だからって言って、椎名が俺を好きとかはそれこそありえない。だって好きか嫌いかなんて「ふつう」言わねーだろ。好きな相手には特に。好きになって欲しいだろうが。俺だって、俺だって願った。ファストフードで甘ったるいオレンジジュースを飲みながら、巨乳がいいだとか周りも気にせず下品をキメる先輩に、胸がなんだってんだよって。どんなにバカでデリカシーがなくても、好きになって欲しかった。笑えるのは、今じゃ「顔くらいしか好きなところなくね?」と思ってんのに、まだ夢に出ること。多分、一生出る。俺の一番奥の、うっすいスクリーンに刻まれて定期的に再上映される。早く通行人Bくらいになってくれ。

「はい、チョコ・コラーダ」

 カクテルを渡す。常連の客が「ここはバーかよ」って笑うのをてきとーにあしらう。オーナーの趣味で三月いっぱいまではチョコレートリキュールを使ったカクテルが多くなる。去年も「甘すぎる」「スタバ?」「バーテンさーん!」とうるさいやつらを相手にしたのを思い出しつつ、椎名の笑顔はどこかへ追いやる。なんだかんだテンション上がって頼むやつが多いから、チョコレートは偉大だ。

 好きか嫌いか、リリカルをぶちかましたくせに二週間近く現れない。無理やり連絡先を奪っていったのに、メッセージひとつない。おっと、あいつのことは考えないんだった。別に考えたくねぇし、俺は今日チョコレートカクテルを作るマシーン。いや、もうチョコが悪いだろ。紫色のきれいな箱がフラッシュバック。

「おー、何杯出た?」

「まだ7くらい」

 ケンジがカウンター前のスツールに座る。ドリンク担当は俺かケンジ、たまにオーナーの娘が入るだけで、基本ひとりで回す。俺がシフトならケンジは休み。お互い、休みでもよく顔を出す。俺は演者でステージに上がるし、例の連帯感が必要な世界だ。

「去年うちでも練習したなー。飲みすぎて気分わりぃの」

「練習してアレかよあんた」

 絶妙に不味いカクテルを開店一番に出されてから、その日は俺がシフトを変わってやった。ケンジはてきとー人間で、本や動画が手本だとすぐに飽きるらしい。くだらないおしゃべりをしながらカクテルを作る俺を見てたら「覚えた」と言われて腹が立った。てきとーなのに、俺よりよっぽどスペックがいい。俺は失敗したくないから練習はちゃんとする派だ。人生を失敗させるようなことをコソコソしてるくせに、笑える。地に足がついてない。ふらふら。掴まえられない。ケンジをてきとーだアホだなんて言ってるけど俺のほうがよっぽど質が悪い。リリック書いてラップしてステージに立って、仲のいいやつ悪いやつ構わず酒を飲む。あいつはセルアウトしたって笑いを笑いで誤魔化して、売れてねぇお前らがなに言ってんだよ、なんてブーメラン。誰と誰がビーフでなんて知ったこっちゃねぇ。興味ねぇんだよ全部。なのに歌うことだけはやめられない。だからここから動けない。海から出てエラ呼吸じゃ死んじまうのに、必死でアスファルトを鰭で叩く場違いさ。はぁ、シンプルに合わない。合わない場所に夢があるらしい。

「今日のライヴってアレだろ、ビーフしてたクルーの」

「だから知らねーって」

「えーなに、こわ! 大城ってたまに意味なくキレるよな」

 キレてねぇ、どっちかというと凹んでんだわ。意味ないのはそうだけど。ケンジは自分が振った話題に興味がないらしく、そのままスマホを開く。

「バーテンさんジェントルマンショコラちょーだい」

「あんた今なんか調べたろ。ねぇよそんなもん」

「いいじゃん、レシピ見て作って」

 顔をあげてスマホを突き出してくるケンジの手を払う。こいつなんて紳士でもなんでもないわアホ。

「読み上げて、不味くても文句言うなよ。あと金ちゃんと払え」

「大城ってキレるけど優しいよね」

「死ねボケ」

 もうビーフでもなんでも早くやってくれ。いい感じのビートで。



「やばー俺も今日行けばよかった!」

「いや見ろよこれ、殴られてんだぞ。なにがビーフは終わっただよ。バチバチじゃねぇかクソ」

 笑う椎名に向かって上着の裾を捲り上げようとしてやめる。なんで俺がペラペラとライヴ後にあったラッパー同士の喧嘩の様子を喋ってるかというと、信じたくないことに緊張かららしい。緊張してんだよ俺は。初めて上がる部屋はどこだって未知の世界だ。玄関、廊下、内扉をくぐる時が一番緊張する。誰かの領域に入り込んで自分が異物になる感覚。乱雑で大人の気配のない家に、友達を誘えなかったガキの気持ちがまだ燻っている。小さな火種が消える日はくるのか。火種なんてかっこいい言い回しは似合わねぇな、燃えカスで充分。つまり言いたいのは、椎名の部屋に誘われたから緊張してるわけじゃねぇってこと!

「あそこおっきくないし治安悪いほうだよね」

「常連がクソなのが悪い。ああいうやつらのせいで俺らも変な目で見られんだ」

 いいやつも悪いやつも、どこにだっている。それだけなのに、白い目で見られやすい場所に俺はいる。椎名もそのはずだけど、目の前で缶ビールをあおるこいつにその影はない。俺が喧嘩の仲裁に入って、殴られた脇腹を氷で冷やしている時、メッセージがあった。「今日暇ならウチこない?」誘い文句らしい、らしすぎる文章に一度アプリを閉じた。二週間も音沙汰ナシで、って過ぎた感情が沸き立ってイライラしてきた俺に、バックヤードに入ってきたケンジが「痛そうだからあと変わる。今度俺の時によろしく」とヘラヘラ言ってきたのがここにいる理由だ。断ったってよかったのに、脇腹は痛てぇし、中途半端な時間に暇になったし、体と気持ち全部を持て余した、そんな夜。おかしな男の誘いに乗ってもいい。

 そうやってやってきた部屋で、ガラになく、でも言いふらせない理由は二、三個抱えて、俺は緊張している。誰かの部屋は苦手だ、女なら誘ったかな、女ならホイホイこれないか、でも簡単にこれる俺のほうに世の中の容易さがあって、いやでも俺は男が好きだし、だからなんだってんだよ、誘ったのはこいつだ。脈絡なく思考があちこちに飛んで壊れた衛星みたいにぐるぐる回る。ローテーブルの前に置かれたソファー、そこに乗るカチコチの置物になった気分。

「こもってた間に面白いこといっぱいあったんだろうなー」

 缶をローテーブルに置きながら椎名が笑う。面白いこともつまらない喧嘩もドラマチックな再生や断然も、俺たちのしらない場所で常に起こっている。それを繊細に感じる術が長けているやつが誰かの心に響くものを生み出せるんじゃないか。別に後追いだっていい、そこまで偉そうに思ってから恥ずかしくなって乾杯したままだったビールに口をつけた。ひとりで考えるモヤモヤとしたあれこれは、誰かと一緒だとなんでここまで恥ずかしくなるんだ。

「こもってたって、ケンジが最近見ねぇとか言ってたけど」

「えーケンジさん? あんましゃべんないけどな」

 嘘だもん。とっさの。なにしてんだ俺。こいつに乗っただけなんだからおかしな流れじゃないのに。クソ、調子狂う。ローテーブルをぐっと腕で前に押し出して脚を伸ばす。柔らかなミルク混じりのグレーの天板の上に灰皿が乗っているのに気づいた。へぇ、意外だな。

「やることひとつでしょ」

「なんだ、いいのできたのか」

 焦り、はない。俺も先月新曲出してるし。ミュージックビデオにかけられる金も少しずつ増えてきた。チャートにも乗らない、どっかの店内放送でも流れない曲だけど、新曲だと喜んで飛びついてくれるだけのファンはいる。あー、例のファンチャートには入る時もあるか。どんな効果があるって話だけど、乗らないよりはマシ。ありがとうどっかの誰かさん。

「聴いちゃう〜?」

 横から顔を覗き込まれて仰け反る。椎名はヒーローらしくない、ニヤニヤ顔。や、ヒーローでもなんでもない、こいつはただの同業者。変な男A。仲間うちなら「やばいね」とか言って聴くのもありでも、椎名とはそういう距離じゃない。俺は緊張気味で、てきとーな感想を伝えられるかびみょー。

「家で聴くわ」

「なんだよ、つまんな」

 言いつつ、口元はニヤニヤからゆるいカーブに変わっている。

「聴くから、家で。なんか観んじゃねぇの」

「そうそう! 久しぶりにトム祭りしたいなって!」

 なんだそりゃ。椎名が俺を呼び出すのに使ったのは「うちで映画観ない?」だ。そんなのもう、アレじゃん。もちろん、友達でも家族でもありだけど、どっかの国では隠語らしいぞ、それ。てか日本でもそれに近いだろ。ペットを理由にするよりは俺的にあり。まぁ、考えすぎだ。考えすぎてぐるぐるするのも、楽しいかも? そうか? 変な男の変な思考は読めない。だいたい他人の意図が正しく読めるなんて幻想で、理解できなかったところで罪はない。ここで俺に求められてるのはトム祭りに参加する、それだけ。つーかトム祭りってなに。俺好きって言ってねーし。なんなのこいつ。

「いっぱい配信されてるから迷うよね」

 ヴァンパイアのやつ? 予知のやつ? どれがいい? と聞きながら椎名が側に寄ってくる。ちけぇよ。

「どれでもいーよ。全部おもしろいだろ」

「スターだからね」

 そんなわけないのに椎名が乗ってくる。そうだ、スターだから全部に価値がある。有名作も、駆け出し端役も、埋もれた名作に超大作。全部、ひとすじの星の尾みたいに輝く。悪いことも悲しいことも飲み込んで、なにもなかったみたいに。

「じゃあ俺に巻き込まれた燕汰くんのためにこれ」

 またニヤニヤ顔で椎名が再生したのは確か不運な巻き添えって意味の映画で、俺のアーティスト名の元になったキャラクターが出るやつだ。こいつ趣味わりぃ!

「お前な!」

「アヤって呼んで」

 クソやろう!



 文瀬の曲は帰って風呂入って寝て起きて遅すぎる昼飯食いながら聴いた。つまりさっき。それまでに三回「聴いた?」のメッセージがあってキレそうだった。早く聴いて適当に「おー、最高」とか言ったほうが楽だと思って曲を流したら、三分くらい箸が止まった。そうか、そういうやつなのかお前。なんて、今は食器を洗いながら思ってる。ちょうど来月、選挙がある。それに合わせてきたのだろう、メッセージ性の強いリリック。「オールドファッション・Dポップ」ってタイトルはダサいけど、文瀬のその辺のセンスは一貫してる。流行りに合わせて短く、キャッチーな語感で乗りこなすフロウはフェイクと叩かれてもファンがいるだけあって上手い。まぁ、俺のほうが上手いけど。たぶん。

 焦りはない。嫉妬もない。でも羨ましい。

 二日分溜まった食器を洗い終わって、その足でベッドに転がる。文瀬のSNSアカウントを検索してさかのぼる。投票、自由、権利、平等、見たことのある投稿が次々に目に入る。見たことあるのは、俺も拡散してるからだ。

 匿名アカウントで。

 二十代、ゲイ。それだけのプロフィール。投稿は少なくて、たまにメシの写真。あとはほとんど俺の痛みの「拡散」。希望と言えないのが俺の根暗な性格をあらわしてて笑える。全然笑えないことを拡散しながら、こうやって紛らわせないとやっていけない。沖縄から出てきてなんとか、って強がりながら、台風に晒された壁みたいにじんわり劣化していく。

 名前を出したアカウントでこれができる勇気が羨ましい。文瀬のプロフィールにはゲイともバイとも、性的指向が判断できるような文言はない。でもそういった「主張の強い」投稿を拡散するだけで、リスクがある世界だ。そうだろ? 広く人気のあるやつだって、途端にアンチが湧く。ライヴでヤジが飛んだと俺より何倍も人気のあるアーティストが投稿していたのを去年見た。その人も、いまだに自分を曲げていない。羨ましい。俺もそれが欲しい。まず最初に、それが。俺の中の一歩が。でも俺は小心でこずるくて小悪党みたいなありさまだから、こうやって誰かを羨んでいるだけ。まるで部屋の中に鬱蒼とした木々が生えてきて、俺の頭上を覆うように、だんだんと気持ちが塞がっていく。指はスクロール、スクロール。画面の放つ魔力にズプズプとのめり込んでいくみたいに、立てていた肘が寝そべる。

 メッセージがきた。文瀬だ。アヤと呼べとうるさくて、敵わないから、文瀬。沖縄じゃ誰でも名前呼びだ。別に特別なことじゃない。これは普通のこと。ふつう。普通と戦う文瀬は馬鹿の一つ覚えで「聴いた?」にドキドキと書かれた変なうさぎのスタンプ。

 ーお前って最高かも

 返したのは、心の奥の煮え立つ泉から出てきた静かな本音で、俺はなんだか泣きそうになった。文瀬からは「嬉しい! 燕汰くんの新曲もできたら教えて!」って無邪気さと、ハートを飛ばす変なうさぎ。俺だってハートを見せびらかしたい。世界中の誰とも同じ色の心臓。そんな曲一生無理だ。



 ー金は来月渡すわ。千隼ちゃん元気?

 ー元気だけどお前に関係あんのか

 ーいやいやそんなこと言わずにえんたーにーにー

 ー死ね

 なにが兄貴だ死なすぞ。キレながらメッセージアプリを落とす。高校時代妹に告白して撃沈したアホは、妹が子持ちになってもまだ好きだ好きだとうるさい。父親は逃げた。妹も最近はこのアホにほだされてきたらしく、たまに連絡を取っているっぽい。死ね。そんなやつに盗品の換金を頼んでる俺も死んだほうがいい。なにもかもブーメラン。現実が四方八方から角度を変えて俺に襲いかかる。躱したと勘違いしてついたかすり傷が、無数のかさぶたを形成する。じくじくして気持ち悪いのに、いじくると気持ちいいと錯覚してアートに昇華。自己防衛。ほんとは全然痛い。

 ー燕汰くーん!

 自販機の横、手持ち無沙汰に眺めていた画面にポップアップ。すぐに変なスタンプがつく。なんで返してもないのに押してくんだ? いえーいとハンズアップしたうさぎ。もしかしてこれ自作とかじゃないよな。絶妙にかわいくねぇんだけど。喫煙所に消えていく誰かの視線を感じてしかめっ面を作る。別にニヤニヤしてないし。いいわけ。ここのところ、文瀬とはわりと頻繁に交流がある。メシ食いに行ったり、あいつの部屋で映画観たり。たまにトラック制作作業を眺めることも。文瀬は最近はそっちにご執心らしく「歌よりこっちのが好きかも」とか軽くほざく。別にどっちにいったってかまやしない。どっちも大事だ。なんなら今度は俺の曲を作ってくれたらいい。キャッチーなやつじゃなくて、どん底の、低い、痺れるように重いビートを。そしたら俺の「仲間」にも紹介してやって、ほら、こういうのは連帯感が必要だろ。お前は言っちゃ悪いけど嫌われてるから、画面に向かって声にならない早口。だからいいわけが必要なんだ。文瀬といると楽しい、気負わなくてすむ、あんなニュースやそんな中傷に酒飲んでブチ切れられる。「そこまで怒らなくても」「考えすぎ」「もっと楽に生きよーや」「選挙? 終わったの?」。文瀬はそんなこと言わない、笑わない。だから俺も怒る、傷つく、酒を飲む、泊まってく? 柔らかな声。いいわけしないとやってられない。先輩の顔が浮かぶ。顔しかいいところがなくて、週末の誘いが嬉しくて、よくあるデキ婚ですぐ結婚した先輩。それから「金は来月」の文字と渡した盗品が激しく強調されて、おわり。

 ーなんか用

 ーご飯食べ行こうよ

 ー今から映画だから無理

 ーえー、なにそれ。俺も観たいし

 ー付き合いだから無理

 ーブライニクルくらい冷たいね

 しらねーしそのうさぎかわいくねぇぞ。返信せずにスマホをポケットに突っ込む。喫煙所から出てきた男たちが片手をあげて合図して、ぞろぞろとスクリーンへ向かう。煙草はすぐにやめた。こういう時、話しに加われない疎外感がないと言ったら嘘になる。だけど始めたことをやめられる強さはあるらしいと前向きに。やめられない問題のほうがデカいくせに、そっちは見ないふり。誰か止めてくれたら一番楽なのに。文瀬がよかった。文瀬なら、一番。

 エンドロールは観ないと主張していたやつも、席を立ったのは劇場が明るくなってからだ。それは主題歌がこの中のひとりの直の先輩だから、という理由で、今日俺がこの場にいる唯一の理由である。別に観たいような内容の映画じゃなかったし、役者も監督にも興味がない。ヒップホップが主題歌に決まるとそれなりに仲間内で話題には上がるけど、それだけだ。今日は先輩の顔を立てた形になる。「わかんねぇ」「それはお前がバカなだけ」「けっこーよかったじゃん」「ゆーさんいつ来るって?」さほど大きくないエントランスに移動しておしゃべり。あの人マジでくるのかよ。あんまし好きくねーんだけど。このまま帰る理由を探して、観にきた理由ほど簡単に見つからず、近くのやつのアパートに連行。

 ミニシアターで少しだけかかる程度の作品でも映画は映画。主題歌は主題歌。喜びと自尊心の肥大で声も態度も前会った時よりデカくなったゆーさんと酒とマリファナの入った男たち。誰か言い出すんじゃないかと不安だったことは、案外早くまな板の上に乗った。もうちょっと映画の話したら?

「大城さ、お前最近椎名と仲良いんだって?」

「意外だよなー、キャラもジャンルもちげぇのに」

 ジャンルは一緒だろアホ。お前アイドルラップディスるタイプか? 誰かが渡してきた新しい缶を開ける。飲む。

「去年アイツに女取られたの知ってんだろ」

「ゆーさんアレ片思いでしょ。初心な片思い」

 笑い声。だからしらねーよ。女おんなって女はお前のこと嫌いだよ自分の酔ったライヴ配信見返してみろボケ。通報すんぞ。ビールをあおる。どんどん乾いていく口の中が気持ち悪い。バカが五箱も頼んだピザがテーブルの上、どんどん冷えていく。チーズまずそう。

「なんか意識高い感じがなぁ。音楽の話以外のが多くね? あいつのアカウント」

「チャラさ売りなんだからてってーしろよな! 誰もお前の真面目な話聞いてないっての」

 テメェらのほうが頭チャラついててふわふわなんだよ。今飛ぶか? あ? くだらない日常の会話の中に紛れる、悪意にも満たないピンポン玉の打ち合い。いちいち追って顔を動かしても疲れるだけだと黙っていたけど、それは誰がミスったら負けなんだ? いい加減我慢できなくなって立ち上がったのは俺と、なんかもうひとり。顔を見合わせる。ゆーさんの連れてきた友達だ。

「こいつかなり酔ってるっぽいし帰るついでに送ってくわ」

 ゆーさんフレンズの「吐かれたら嫌だろ」で、俺は簡単にアパートを脱出。隣に今日初めて会った、自己紹介も忘れた男。俺の手にはピザの箱。ラージサイズ。帰るなら持ってけ。お前今日あんま食ってないだろ。まるまる残ってるから! 笑顔で押しつけられた冷めたピザと俺の「仲間」たち、どっちのが冷たいんだろう。わかるのは、ピザは食って飲み込めるけど、人間は無理ってこと。

「嫌いになったほうがいいよ。遊のこと。他のやつらはしらないけど」

 五月はいい気温だななんて、ピザの箱が邪魔くさいことから気を逸らしてる間に、ゆーさんのお友達はアドバイスをこねくり回してたらしい。隣に視線をやると、どこにでもいそうな顔。ゆーさんの友達には見えない、なんて偏見。そういえばゆーさんの曲に客演してたっけ。癖がなくて聴きやすいフロウが思い浮かぶ。

「……なるもなにも、そもそもどうでもいいっス」

「じゃあいっか」

 続き考えてたけど、ってお友達は笑った。疲れが少しだけ滲んだ表情は、街灯の下、浮かべ慣れた陰を目尻に生んでいた。



 ゆーさんの友達と駅で別れたあと、ひとりで電車に乗った。あの人は多分、アパートに戻ってまた酒を飲むんだろうな、そんな勝手な予想。どうでもいいけど、あの部屋にいた時よりは気分がマシになっている。どこにでもああいう「うまい」人がいるけど、ゆーさんはそれについてどう思ってんだろ。考えねぇか。もしこの先、いつか考える日がきたとして、俺にはミリも関係ねぇ。アパートがあったのは都心でも繁華街でもなかったから、終電はそこまで混んでない。座ればいいのに、デカいピザの箱が俺を立ちっぱなしにさせる。なんとなく。バカみてぇな格好、浮かない顔の男が窓ガラスに映る。やっぱり眉毛似合わないか、髪も、たまには染めたり、伸ばしてコーンロウとか。ああ、目つきがわりぃ。はっきりした二重に、濃いまつ毛。妹と同じなのに全然違う。俺に似たなにかが内側からにじみ出て、そのうち表面を乗っ取ろうとしてる、そんなどんよりした陰気な顔。

 ー暇んなった

 ピザを扉と体で抑えて、そんなメッセージを送ったのは窓と睨み合い続けたせいか。こんな時間にヒマなんて言われて、文瀬も困るだけだ。電車も間に合わないだろう、寝てるかもしれない。自分から誘いを断っておいて、気が滅入ったから呼び出そうとする。まるで映画かなにかの「悪い男」。でもあいつらも、こんな気持ちだったのかも。甘えた、切実な。

 ーほんと? 俺実は燕汰くんのアパートの最寄りにいるんだけど

 既読になって返ってきたのは、俺を思考停止にするのに十分なアレだった。



 最寄りっていっても二駅隣の、ここよりは賑やかな駅にいたらしい。普通に嘘だ。

「やー、遊んでたらダラダラしちゃってさ、このまま帰んないでカラオケオールとかもいいかなって」

「誰かといたんだろ。そっちはいいのかよ」

 つい声が硬くなる。駅で合流して、俺のアパートまで連れてきたのはいいけど、こいつを部屋に入れるのは初めてだ。いつも文瀬から誘われて、そっちに行くばっかりだった。文瀬は俺の時とは違って、緊張はしてないらしい。多分、同じくらいの稼ぎで、ひとり暮らし。部屋の雰囲気にそう違いは出ない。とはいえ、なんとなく落ち着かない。

「いい、いい。向こうも人数いるし」

 ふーん。嘘っぽい。そもそも、最寄りなんて教えたっけ? 自分から話すことはない。自慢できるような家じゃないし、見せたい物もない。誰かを呼ぼうとも思わない。言ったっけか? びみょー。文瀬は、来れる距離にいてよかった、ってニコニコ。その顔を見てると、体の強ばりが解けていく。俺のメッセージにすぐ返事があって、文瀬が今ここにいる。それ以外、気にする必要はないように思えた。途中、コンビニに寄った時、文瀬は「飲み直し」とカゴに酒を入れた。こいつも「うまい」人間だ。羨ましい。自分の気持ちをまっすぐに表に出せるくせに、周りとの調整もお手のもの。なんだか、最近は前よりずっと顔もキラキラして見える。さっき睨み合ったやつとは大違いだ。

「ピザ持ってたのは笑ったなぁ」

 思い出したのか、駅で会った時と同じように笑い出す。うちにはソファも座椅子もないから、ふたりでローテーブルの前、胡座をかいている。広くない部屋にいると近くなる。あたりまえだ。文瀬の部屋でだってそうだったけど、普段ひとりでいる場所、手を伸ばせば触れる距離に誰かがいるのは久しぶりで、それに思い至るととたんに力が入る。すぐにピザの箱を持って立ち上がった。

「食うならあっためる」

「冷えたピザっておいしくないもんねー。そのまま食べるのも絵になるけど」

「そんなのスターだけだろ」

 ピザのうまい温め方が箱に書いてあるけどめんどう。ちゃんとこの通りにするやつってどれくらいいるんだ? 

「ピザ温め機とかねぇのかよ」

「いや、あっても買わないでしょ。燕汰くんおもしろいね」

 また笑い出す。腹立つなぁ。買わねぇけど、楽だろ。あとベーコンいい感じに焼く機とか。それぞれがなんかいい感じに、楽にあたたまればいいのに。

 ピザを食いながらビールを一本空けて、文瀬が煙草を吸いたそうにしてるのに気づいた。こいつの部屋で吸うのを何回も見てるから、そのせいだ。うちには灰皿がない。指で空き缶を指す。

「吸えば」

 文瀬は目を少し大きくして、うーん、と唸った。

「燕汰くん吸わないじゃん。いいよ」

「気にしねぇって」

 空き缶を文瀬のほうにやると、少しだけ間があってからカバンを漁り出した。

「じゃあ、ベランダで。あ、大丈夫?」

「大丈夫、隣のやつも吸ってっから」

 煙草とライター、ちょっと高めのビールの缶を持って文瀬がベランダに出る。飲み直しだから選んだ銘柄なのか、俺にはわからない。二階のベランダは意外と街灯に近い、今まで気づかなかった景色に、文瀬がいて気づいた。こういうのがいいリリックになんのかな。わかんねぇけど。俺の中で新しくてきれいなものが生まれようとしている。それを逃したくなくて、ベランダへ向かう。

「輪っかできる?」

 文瀬の隣に並ぶ。狭いベランダ、しかもサンダルはひとつしかないから俺は裸足。文瀬は一度俺の足元を見て、それには触れなかった。うまいから。なにを優先させるか知ってる。

「できるよ。めっちゃ練習した」

 いたずら好きの悪ガキみたいな笑顔を浮かべる。文瀬は色んな笑顔を持っていて、そのどれもがスターじみている。つまり、俺を引き寄せる。あの街灯に群がる走光性の虫になって、俺は半歩だけ空間を縮める。

「見して。あれ好きだから」

「好きかぁ! やるよ、俺いっぱいできるし!」

 いっぱいってなんだよ、笑顔がうるせぇよ、こっちも笑いそうになって、でも黙って見ていた。文瀬が吸って夜に吐いた煙は、空気を巻き込んで回転しながら輪っかになった。頼りなさげな白い線が、それでも崩れず、生き物みたいに目の前でうごめく。徐々に大きくなって、そのせいで形を保てなくなり、俺の手が届かなくなるくらいには消える。いっぱい、の宣言通り文瀬は何個も輪っかを吐いた。一度こっちに向かって作ってくれたから、その輪の中に指を通した。なつかしい。あの煙草の香りはもう忘れてしまった。

「へー、なんか映画みたい」

 部屋に戻ってまたビールを飲む。ピザはあたりまえに冷えていた。

「一回ベランダからションベンしてるとこ見られてよ、死ぬほど怒られた」

「そりゃそうでしょ! 燕汰くんさいてーだなー」

「ガキだったから無罪」

 文瀬はよっぽどおかしかったのか、缶を握りながら涙目になっている。

 子どもの頃、隣の部屋に住んでた若い女。多分、二十代になったばっかりだった。親がほとんど帰ってこない部屋で、寂しさを募らせるかわいげがまだあった頃。隣の部屋のベランダで気配がすると、すぐに飛んでいった。あいつはかならず、座り込んで煙草を吹かしていた。ヤンキー座りの、まあ、そんな女。うちのベランダは外に出っ張ってる、シャレた言い方をするとバルコニータイプで、隣の住人と顔を合わせられた。俺はいつも右隣りのベランダに寄って座った。それから煙草を二本吸う間、流行りのアニメだか、近所のことを話す。家にいると妹とふたりアニメを観るくらいしかすることがない。兄貴はその頃にはもうほとんど家に寄りつかなかった。でもちゃんと食料は買ってきた。「これチンして食えよ。色んな味あるからな」たまに三人でハンバーガーを食べに行った。どこでもバーガーはそれなりにうまい。

「観てねぇアニメの話聞いてどうすんだよな」

「観てなくてもよかったんだよ」

「ふぅん、そっか」

 ピザもっかいあっためる? 文瀬の提案に首を振る。もう冷めてたっていいだろ。

「その人もまだやってるかな」

「しらねー。そもそも上手くなかったしな」

「えー、そこは上手いって話でしょ」

「ド下手で笑ったら頭殴られた」

 腫れた頬で晴れた空を睨んで歌っていたのは下手なラップ。だからってわけじゃねぇ、自分の心理なんて覗いたこともねぇ。でも俺はこうして沖縄を出て、歌ってる。あの時、柵越しに伸ばされた手の、叩かれた頭の軽い音。あいつはそのうちベランダに出てこなくなって、彼氏っぽい若い男だけが残った。子どもの俺に、下手くそなラップと、空に溶ける輪っかを置き土産にして。

「好きだったんだ、その人」

 冷めたピザを噛みちぎって文瀬が言った。

「好きだけど、俺が好きなのは男」

 俺の口からはあっさりとそんな言葉が生まれた。冷めたピザがないのが悪い。口の中がからっぽだったのが、いけない。もう取り返しがつかないのに、ピザを手に取るべきか悩んでいる俺を、文瀬の目がとらえた。そう表していいくらいの、光線みたいな目。

「じゃあ俺は?」

 好きか嫌いに、少し前に押しつけられた言葉が舞い戻ってくる。たった数ヶ月で、俺はこいつの望みを叶えてしまった。敗北感。羞恥。苛立ち。どうしようもなく俺を包む、安堵。

「好きだったら悪いのかよ」



 文瀬が当然のように告げた言葉に、俺が返したのは「保留」って情けない二文字。今でさえ俺たちの交流を笑うやつらがいるのに、これ以上になったらどうなるのか、はっきりいって怖い。パートナーは過去ひとりもいなくて、なにをどうすればいいのかわからない。男と女の恋愛は世の中にあふれているけど、男と男のお手本はない。誰も教えてくれない。同じようにって言われても、同じじゃない理不尽。映画とか漫画とか、絵本とか寝物語で語って欲しい。ハッピーエンドを。うだうだ言ったところで、俺が臆病なだけだ。文瀬は少しムッとして、じゃあもっと遊ぼう、キスくらいはいい? と口を尖らせた。こいつわりと遊んでるほうだったな、と思った。文瀬はバイらしい。昔一度だけ女とキスしたことがある俺は頷いた。男とキスがしたいと思った。文瀬なら、最高。

「お前ここ入ってくんなよ」

「えーいいじゃん。他の人も入ってるの見るよ」

「あれはケンジの妹とか、仲良いやつだろ」

 バイトの休憩中、バックヤードに文瀬が入ってきた。カウンター横の扉は鍵がかかっておらず、誰でも入れる。だからって入ってくるやつはほぼいない。常連ばっかの客層でも、関係者か、よっぽど仲のいいやつだけだ。俺は誰もいれたことがない。汚れた大きめのソファに体を沈めて、スマホをチェックしてたところに文瀬は現れた。休憩って言っても、基本カウンター内はひとりシフトだから、十分くらいだ。煙草にいったり、トイレを済ませたりで終わる。俺は煙草は吸わねぇし、いつもソファでだらけてる。黒で塗られた壁は趣味が悪く、圧迫感もあるから休んだ気がしない。ミラーボールとかついてなくてよかったと心底思う。

「彼氏だからいいでしょ」

 ニコニコ笑顔で罠をしかけてくる。これに何度頷きかけたか。

「ちげぇし」

「まだ違うかぁ」

 押しが強いのは最初からで、俺はそれが気持ちよかったのかもしれない。突き出されないことに勝手な苛立ちを抱えながら、俺にはない変な我の強さが光って見えた。今だって、座る俺を見下ろす目にくらくらきそう。あばらの奥から使ったことない言葉が次々に浮かんできて、突き破って外に出ようとする。そのうちリリックにも変化が見えたりしたら、俺は死にたくなるに違いない。

「でもキスはいいんだ」

「やめろ、やべぇやつみたいだろ」

 今死にたくなった。恥ずかし死に。もう休憩は切り上げてカウンターに戻ったほうがいい。立ち上がりかけた俺を文瀬が押しとどめる。俺を跨るようにしてソファーに乗り上げる。バカ、という前に短い息になった。文瀬のくちびるは柔らかい。リップを塗ってるんだ。俺は、乾いてる。それが何度もキスしてわかったこと。どーでもよくて、なんの為にもならなくて、でもそれでいいこと。世の中にはあるらしい。

「あれぇ、椎名か。……なんか意外、でもない?」

 聞きなれた高い声が聞こえてきたのは、文瀬の舌が俺のくちびるをぺろりと舐めて遠ざかった時だった。死のう。もうここで。

「あ、魅未ちゃんだ。やっほー」

「やっほー」

 魅未が我が物顔でバックヤードに入ってくる。今日ケンジいないんだけど。なんでこのタイミングなんだよ。つーか、うち以外でキスすんなよ! 悪い想像ってのは気持ちいいことより鮮明に、一瞬で、脳内を走り回るらしい。今どきはっきり気持ち悪いなんて言われないだろうけど、それでもスマホから消える名前はあるはずだ。それが多いか少ないか、そんなことで程度を測らないといけないのはキツい。頭の中に浮かんだ顔の上にバツがついていく。あー、俺は、とっくにこいつらに傷つけられてたんだ。だからこれ以上、傷つきたくないのに。

 立ち上がって文瀬を睨みつける。動こうとした体を、魅未の柔らかな手が止めた。俺と文瀬、両方の腕に手をあてて、うんうん、と頷く。アニメみたいなツインテールが揺れる。

「男は特にキツい、この業界。わたしは友達のラッパーには言ってるよ。まぁ、ほぼ女だけど。なんていうか、ひとりくらい知ってる人がいると楽だから、うん、もちろん誰にも言わないし。そうか、椎名と大城、うん。どっちも優しいし、大丈夫! 楽しくやれるよ!」

 いや、しらんってそんな一気に言われても。焦りが足の裏から抜けていったみたいに、ふらりとソファに逆戻りする。

「ケンジさん知らないの?」

「ケンジぃ〜? どうだろ、お兄ちゃんだからって、こういうのはびみょーでしょ。いつか、時が経てば、はたまた来世」

「たしかに、家族でも関係ないよね」

 文瀬と魅未のコンビネーションは抜群だ。ゆるふわ空間を生み出して苦い話をぽんぽんと。俺は、なんとか明日もやっていけるらしい。恋したって、キスしたって、俺の生きかたは変わらない。なんとか。魔法みたいに、歌の奇跡みたいに一瞬で変わればいいのに、リアルは多くの人にとって厳しい。フェイクよりはマシらしいけど、本当にそうか? 俺にはぜんぶ難しい。

「いつか大城のリアルな曲、できたら聴かせてよ」

 文瀬と話していた魅未が急に俺に焦点を向ける。とんでもない勢いで、直球を振りかぶる。ピンク色のカラコンからレーザーが照射されて、俺の心臓あたりを焼きつくそうとする。それでピカピカに光って、俺も仲間入りできたらどんだけ気持ちいいだろう。さらけ出して大声で笑って怒って泣いて抱きしめあえたら、それが唯一のリアルになれたら。痛い、と認識して自分がくちびるを噛んでいるのに気づく。

「わたしは聴かせる。いつか、来世までに」

 返事がないのを予想していたのか、魅未はなんでもないように無言を受け取った。ありがてぇ。キツいけど心地いい、ないはずのミラーボールが回ってるみたいに、バックヤードが虹色に輝いて見えた。その光の粒の中に俺は見えないけど、たしかに存在してる。それを、少なくともふたりが知っている。



 煙草の匂いと共に文瀬が部屋に戻ってきた。手に持った灰皿を低い冷蔵庫の上に置く。いつまでも空き缶じゃ格好がつかないから、俺が買った。それを見た時のこいつの反応は恥ずかしすぎて、忘れたいくらいだ。嘘、忘れたくねぇかも。それを歌にできなくても、覚えてるくらいなら。文瀬が帰ったあと、灰皿はすぐに洗う。それを見越して洗いやすい少し大きめのシンプルなやつにした。吸殻もそのままに置いてあると、忘れる前に思い出す、なんて日本語のおかしなことになるからだ。恋とか愛は相手のあることだけど、相手がそれを知っていて、こっちを向いていてくれるのはすごい事象だ。そう、嵐とか、猛吹雪とか、誰にもどうにもできない類のもの。

「聞いてるって、マジ、ちゃんと聞いてる」

 とかなんとか考えてる間に、電話の向こうの妹の話が何個か終わってたらしい。文瀬に手で、悪い、のジェスチャーをして、キッチンに立ったまま通話を続ける。にっこりと笑顔を返した文瀬を妹が見たら「ほんとにえんたーにーにーの友達?」と言うに違いない。友達以上って言ったらどうなるだろう。妹は喜ぶかもしれないけど、俺はまだ友達以上になれない。

「お前話なげぇんだよ。聞いてるってー。はぁ? 兄貴? お前それ先に言えよ。帰ってきてなにしてんの? うん。はぁ、今さらすぎね? うん、わかるけど。まぁいいや、話聞いといて、うん、じゃあな、バイバイ」

 切ってため息。これみよがしなのは、聞いて欲しいからなのか。

「燕汰くん、妹と仲良いよね」

「悪くないけど」

 良くねぇって嘘つくほどガキじゃない。スマホをソファーに投げて冷蔵庫を開ける。まだ近くに立ってた文瀬にもビールを渡して、背中を押してふたりで移動。そのまま並んでソファーへ座る。文瀬の部屋にあるのを気に入って俺も買った。同じやつ買ってもいいか聞く時は緊張したけど、文瀬はウザイくらいに喜んだだけだった。ふたり分の重さで沈むこの感覚に、俺の体は慣れてきたみたいだ。

「お兄ちゃんいたんだ」

「いるよ。沖縄だと三人きょうだいくらいが普通」

 普通、じゃなくて平均か。しらんけど。だいたいそんなもんで、四人からは多い。五人もわりといる。ひとりとふたりは少ない。シングルマザーも多くて離婚率も高い。作られるだけ作られて、子どもばっかり増える。缶ビールを開ける。最近はちょっと高いやつだ。俺ひとりなら買わないけど、文瀬はこれが好きみたいで、よく手土産に持ってくる。乾杯をしなくなるタイミングを逃して、今日も缶をぶつける。なにかあるわけでもないし、と思うけど、なにかあり続けてる途中の気もする。

「しばらくいなかったくせに、沖縄戻ってきてるんだと」

 五歳上の兄貴がずっとガキの頃、まだ母さんは家にいたらしい。ふつうに。俺が生まれて幼稚園に上がる頃には、もうあんまりいなかった気がする。父親はほとんど覚えてない。多分俺が生まれてすぐに離婚してるか、そもそも結婚してなかったか。一歳違いの妹とは、父親は違う。兄貴は俺がインスタントを自分で食べられるくらいまではめんどう見てくれて、だから全然嫌いじゃない。でももう十年は沖縄に帰ってきていないし、連絡もなかった。俺も沖縄にいない。話すことがなんかあるか? 妹は俺の態度が不満らしく、電話口でぶーぶー文句を言っていた。

「カフェ? なんか料理屋やるらしい。そんで二階をスタジオにしないかってよ」

 突然言われても困る。

「それは、いきなり言われてもねぇ」

 思っていたことをそのまま言われて驚いた。文瀬は困ったみたいに笑っている。よかったじゃんとか言われると思ってた。ありがたいね、とか。

「なんでも突然やる人っているからさ、こっちサイドの気持ち〜〜!ってなるよね」

「なる。だいたい俺に電話してこいよ。つーかラッパーやってるの知ってたのかよ。色々ひっくるめて突然すぎんだわ」

 こっちで働いて貯めた金で自分の店を持って、弟のためにスタジオまで用意してくれるなんて、偉い話に違いない。でもそれは沖縄での話で、俺は今そこにはいない。兄貴がいなかった沖縄に、俺はいない。帰ろうかと思うことはある。ただの帰省なら年に一度は必ずするし、その度に肌が焼ける。戻ってきてもしばらく訛りが抜けなくて、東京のやつらに笑われる。帰ろうかと思うのと同じくらい、まだここで頑張ろうと思ってきた。だからそれを、俺以外に決められたくない。妹にとってはいいことだから、それには感謝。サンキューたかやにーにー、ちはやーと姪っ子をよろしく。

「沖縄、行ったことないなー」

「修学旅行は」

「サボった」

 友達の多い文瀬がそう答えたのは意外だった。ふぅん、とだけ返したのは気遣いか臆病さか。

「来年あたりは行けるかな。燕汰くんの彼氏として、里帰り」

「なんでだよ。お前も突然すぎるだろ」

「えー、もう一ヶ月も保留だよ! 夏が見えかけてるんだよ!」

 たしかに、誠実じゃない。そんなことはわかってる。わかってんだよ! でも怖いのだ。変わってしまうのが。なんとか今を「やっている」だけの俺には、難しい。

「悪いと思ってるよ。だからキスはさせてんだろ」

「うわー、うわー! 最低だ! 最低やろうの発言だよ!」

「ぐっ、」

 なんとでも言え! そう思ってお決まりの顔で文瀬を見る。感じ悪ぃ、って何度も言われてきた睨みつけは、それでもこいつには効かない。薄い茶色の目は、その上から透明なベールをかぶったみたいにきれいで、遠くて、全然違う世界の生き物に思える。じっと、俺を思いやるふうに、見透かすふうに、見つめる。

「じゃあ、ちょっとだけ、その先も、」

 出たのはそんな弱々しくてズルい言葉で、俺は言ったそばからどこかに消え失せたくなった。言い方も気持ち悪かった気がする。なんだよ、ちょっとだけって、先って、先っぽだけみたいなやつかよ。

「ふぅん、どういう意味かわかんないけど、じゃあとりあえず脱ぐ?」

 羞恥ですぐに逸らしていた視線がローテーブルの上の缶ビールに向いたまま、耳元で笑いを含んだ声が響いた。



 なんだこれかぁ、胸の真ん中に手を滑らせながら、文瀬がこぼす。シャツだけ、と脱いだあと、やっちまったと思った。やっぱりやめた! も逆に恥ずかしい。俺は胸の真ん中にあるいびつなタトゥーをさらけ出すしかない。

「中学卒業してすぐに弟子入りした友達が彫った。だからだよ」

 少し歪んだ獅子の悪魔は、その時はかわいく思えた。焦ってほとんど泣きかけの友達に「いいよ、かわいいし」と言えた俺のことが俺は好きだった。俺にとってそれはなにもおかしなものじゃなくて、友達の夢の始まりだった。上京して入ったクルーで笑われるまでは。つくづく、あそこに入ったのは間違いだと思う。ひとりは寂しかった。ひとりじゃわからないことが多かった。ひとりでもやれるって、ひとりになったばっかりの俺は知らなかった。「ダセェ」って笑われた日から、俺は人前でシャツを脱いでない。タトゥー自慢が始まると、いつも席を抜けた。その、夢から笑われるものに変わってしまった獅子の上を、文瀬の指がなぞる。きれいに切りそろえられた爪が、ちょうど歪んだ線を引っ掻いた。

「前にちょっと焦ってたでしょ。シャツめくろうとした時」

 あったっけそんなの。

「かわいいじゃん。ワンちゃん」

 犬じゃねぇ。けど、なんだか泣きそうになった。

「……かわいいだろ」

「うんかわいい。俺好きだな」

「ライオンだけどな」

「え、そうなの? ライオン……」

「シーサーだとあからさますぎるから、これにしたんだよ。魔除け」

 いくら悪いものを寄せない良いものを体に宿したところで、俺自体が腐ってるから意味ないけど。たとえばこの手を切り落としたら、あの骨の奥から滲み出てくる衝動はきれいさっぱりなくなるのだろうか。

「魔除けなのに、俺は避けられなかったね」

 どこかじっとりとした声で文瀬がつぶやいた。その視線はまだ犬だと思い込んでいた線に落ちている。言葉だけが、静かに生まれた気泡みたいにふわふわと浮き上がってきて、俺の耳元で弾けた。

「お前なんか悪いやつなの」

「……どうかな」

 文瀬はいつもみたいに笑って、それから自分のシャツに手をかけた。勢いよく脱ぐと、ソファーの足元にシャツを落とす。胸と腹の真ん中、それから両肩にカラータトゥー。デザイン性の高いモダンな柄。

「あんじゃん、あんのかよ」

「ないって言ってないでしょ」

 俺の困惑混じりの声が面白かったらしく、文瀬は口を大きく開いて笑う。

「俺もあんまり脱がないからね。別に入れてるからって見せる必要ある? 俺は見せたい人にだけ見せたいな」

「そう言われるとそうだけど」

「自分で楽しむ時は鏡見るよ」

 その言い方が面白くて今度は俺が声を上げて笑ってしまった。いいなと思ったものをひとりの部屋、鏡に映して満足している文瀬の姿が鮮明に思い描ける。

「……俺もやろうかな、風呂場の鏡で」

「やりなよ。てか今日から俺も見るよ!」

「やらしい」

「先っぽとか言い出したの燕汰くんだからねー」

「言ってない! 言ったけど……」

 ふたりしてソファーの上で笑って、転がったから少し絡まり合って、笑いすぎてわけがわからなくなった。



 魅未がカウンターのスツールに座るケンジに駆け寄ってきたのは、俺に聞かせるためだったんだと思う。

「見てケンジ! 椎名バズってる!」

「お兄ちゃん呼び捨てにすんなよー」

 いつものやり取りのあと、スマホを覗き込んで「ほんとだ、リアルバズだ」と喜ぶケンジは、てきとー人間だけど良いやつだ。調べると、オールドファッション・Dポップが選挙の期間にプチバズして、その流れでよりキャッチーなユアマイなんちゃらがバズってるらしい、いま。「古い規範をデストロイする的なタイトルだよ。かわいいでしょ」って謎センスを自慢してきた文瀬を思い出す。タイトルセンスは相変わらずだけど、俺はお前のそのまっすぐ伸びた背中が好きだ。背中にもあったタトゥーを、なぞった日。

「やべぇな、椎名あの顔だし今よりモテんぞ。また乱闘騒ぎになる」

「お兄ちゃんそういうことばっか垂れ流すからこういう人生なんだよ」

「どういう意味!?」

「でも人気出そうなのはわかる。いつもキャッチーだし、本人気さくで優しいし」

 ね、大城、って、振られてなんて返せばよかったのか。俺の頭の中では何回も何回も、この手が悪さするシーンが繰り返されていた。調子の悪い配信映像を、シークバーを戻してどうにかしようとするみたいに、何度も。カウンターの上に置かれたスマホ。バズるミュージックビデオ。スターみたいだと、最初からずっと思ってた目が俺を見る。それを睨みつけるしかない俺は、やっぱりスターにはなれない。その目に焼かれるだけ。焼かれながら、沖縄の空を思い出した。実は曇りが多い空だけど、思い出補正で、快晴の、空。



 七月の終わり、電気代を気にして扇風機を買ってはみたものの、結局使わずにエアコンをフル稼働させている。窓を開けて歌入れの作業はできない。あれから文瀬は少し忙しくなって、俺のほうも色々やることがあった。昨日久しぶりに文瀬の部屋に行って、カクテルを飲ませてやった。祝いのつもりじゃないけど、前からうちでやって欲しいと言われていたからだ。本職でもないし、作れるだけ作れる、酔って踊るのが目的のやつらに飲ませる程度の酒でも、文瀬は喜んだ。おいしいよって言われると、まんざらでもない気分になる。ふたりで酔って、キスして、少し触り合って、朝には帰った。好きだったら悪いのかよ。ああ、俺は文瀬が好き。まっすぐ立ってて、自信があって、たくさんの色を知っていて、俺を見てくれる。俺の足がちゃんと地面についていて、ここにいるんだと教えてくれる。

 ヒーローみたいだ。リリックも、きっと誰かを救う。

 悪いやつみたいだ。俺の筋肉をなでるあの指の動き。

 ソファーに座ってスマホのメッセージアプリを開く。

 ーあれでいい感じ?

 ーうん

 スクロール。

 ーえんたーにーにーが沖縄帰るなら俺も帰ろっかな。千隼ちゃんに挨拶しに

 ー死ね

 一連のやり取りをぼんやり眺めていると、鍵が回る音がした。

「燕汰くん」

 先月渡し合った合鍵を俺はまだ使ってない。文瀬は今、やっと使ったようだ。開けっ放しの内扉の向こう、足を少しだけ変に動かしながら文瀬が短い廊下を歩いてくる。いつものように、俺の隣に座らない。ソファーはまだ、ひとり分だけ沈んでいる。

「燕汰くんさぁ、昨日部屋に荷物忘れてったでしょ。鍵はポケットだった? 財布とか大事なもんはちゃんと忘れないようにね。家入れなくなっちゃうよ。ああ、それで、今朝知らない連中が来てさ、見てよめちゃくちゃ殴られてるでしょー、青あざになりそうだし、痛いしもう散々だよー。あとで手当して欲しいな。そんで、俺の部屋に昨日盗まれた財布があるとか言ってて。あ、なんか場所がわかるタグ入れてたみたいよ、気をつけなねー。でさー、突き出すのはしないけど、この業界でやってけると思うなよだって! いやその前に誰? って感じなんだけど、そもそもこれ俺の荷物じゃないし、でも言わないでおこうかなって。俺もさー、嫌われてるの知ってるし、誰も信じてくれなさそうだし、最近あたりキツいし、はぁ、嫌んなっちゃうな。俺、かわいそうでしょ?」

 ソファーに座る俺を見下ろしたまま、首を傾げる。スターはかわいい動作もお手の物らしい。投げ捨てられたブランド物の紙袋の中には俺が忘れてきた色んなものが入っている。

「燕汰くんがうんって言ってくれたら、俺かわいそうじゃなくなると思うんだよね。もう二ヶ月近く保留だし。俺たちすごく相性いいと思うなー。俺はもう歌わないかもだけど、名前変えてビートメイカーになっても楽しそう! ね、そしたら燕汰くんの曲も作るよ。どうかなー? 沖縄にスタジオ作ってもらってさ、一緒に帰ろうよ、妹さんに、俺のこと彼氏だって紹介して」

 好きで悪いかよ。

「うん」

 俺が答えると文瀬は一度飛び上がってからそのままの勢いでソファーに座った。ふたり分、これが正しい。これが、俺の好きな感覚。

「嬉しい! 俺、燕汰くんの初めての彼氏じゃない? やばいねー、最高だー」

 俺の頬を文瀬が両手で掴む。合わさる額。まるで魔法をかけられる瞬間みたいな、音楽の奇跡が降り注ぐみたいな、そんな。どんなに近くで見ても、スターの輝きは汚れない。一等強く、俺をなにもかも奪い去るために、またたく。

「アヤって呼んで」

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スターの目は絶望も希望もぶち抜く光線だから 二 幕間 @love_37564

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