第3章 被害者は潔白で善良な人である

     1


 3人目。

 捜査本部が立った。署内がざわざわと物々しい。

 古衛フルエの要請で、我らが略して対散タイサン課にもお声がかかったので、桐崎キリサキ木暮コグレを会議に参加させた。木暮は行きたくて仕方がなさそうだったので願ったりなかったりだったが、桐崎は直前まで俺に譲ろうとしていた。読みは悪くないが、俺の心中の読みはまだ甘い。

 俺は、仕事をしたくない。

 それだけだ。

「やっほ~。片山さ~ん! そろそろお待ちかねのモーニングコールの時間かと思いまして~」岡田だ。空気を読みながら読んだ空気ごとぶち壊すのが奴のやり口だ。

 ちょうど部下が出払って誰もいないので、事務所内で電話に出た。

「お前またやったんだってなぁ」

「ちょっとちょっと、なんで俺がやっちゃったことになってるんすかぁ? ひっどいな~。俺が無実だって、片山さんだけは信じてくれてると思ってたのに!」

「うるせえな。朝っぱらからぎゃあぎゃあ騒ぐな」

 桐崎が淹れてくれたコーヒーを口に入れる。

 相変わらず、味がわからん。

「そうそう、こっちのお嬢さん、ホンボシ見たって話っすよ?」岡田が言う。

「そりゃいい。こっちは同期の相棒が腹ぶっ刺されてる。命に別状はないってやつらしいが、しばらく現場にゃ復帰出来ねえ。痛手だ痛手。どうしてくれんだ、お前。お前が現場にいながらなぁ」

「へ? 俺? 行ってないすよ?」

「はぁ?」思わず立ち上がった。「なんで嬢ちゃんが行っててお前が。あ、お前」

 座り直した。

 わかった。

 こいつは、警察から逃げてる。

「わーったわーった。お前が何の役にも立ってねえてことは」

「ひどすぎません? お嬢さんにも言われちゃってんすよね」岡田がしょげたような声を出す。

「真理ついてるじゃねえか。これに懲りたらお前、余計な探りも、俺の仕事も増やすなってこったな」

「お嬢さんには、なんか見えてるぽいんすよね。霊なのか、呪いってやつなのか。昨日仕事終わって帰ってきたら随分ショック受けてて。ご遺体見てもピンピンしてたお嬢さんがすよ? てことは見たもんは、ヤバい呪いしかないって思ったんすよね。てことは、ホンボシ、呪いの可能性ないっすかね」

「ねえな。与太話ほざいてねえで」

「俺これけっこういい線いってると思ってるんすよね~」岡田は得意そうだった。「ヤバい呪いがやべェことしてんの目撃しちゃって、お嬢さんはショック受けて寝込んでるってわけすよ。どっすか? ビンゴ?」

「なんで完全部外者の俺が合ってるかどうかの判断をしなきゃなんねえんだ?」

 足音が近づいてくる。

 対散課の事務所は署内の外れにあるので、ここに来るのは部下の二人しかいない。

「あれ、可愛い双葉ちゃんたち帰ってきたみたいすね! んじゃ!また明日。しーゆーねくすと」岡田が電話を切った。

 なんでわかるんだ?

 空気が読めすぎて逆に全無視してるところがこいつの悪いところだろう。

「戻りました」桐崎が一礼して席に着く。

「つまんなかったろ?」

「やはり課長が出席すべきだったと」桐崎が苦虫を噛みつぶしたような表情をする。

「どうしてあれだけ証拠が揃ってて見つけられないんですかね」木暮が荒々しく席に着く。「無能なんじゃないですか? しかも眼の前にいたってのに、腹だけ刺されて逃がすとか。恥ずかしくないんですかね?」

「木暮君」桐崎が窘める。「あの、課長。この事件、我々対散課は一体何を」

「いんや、なんも?」

 する必要はない。

 俺の仕事を増やさないでくれ。











     2


 いつもより一層はっきりとした悪夢だった。

 人間大の、濃厚な黒の塊が女性を襲う夢。

 白い腕に赤い筋を入れて。

 白い脚に赤い線を走らせて。

 眼球を抉り出す。

 穴という穴からどろどろの白い粘液が溢れて来て。

 突然カメラが反転。

 襲われる女性が、自分になってて。

 そこで眼が覚めた。

「大丈夫?」マミがこちらを覗きこんでいた。「汗びっしょりだね。シャワー浴びてくる?」

 3時。

「悪い。起こしたか」

「不寝番だから問題ないよ。ほら、着替え用意しとくから、シャワー行っといで」マミに浴室に放り込まれた。

 寒気が止まらない。

 夏だっていうのに。

 なんでこんなに寒いんだ?

 湯船に浸かっても全然身体が温まらない。

「大丈夫? 溺れちゃってない?」脱衣場にマミがいる。

「開けたら殺すぞ」

「しないしない。殺されたくないし、みふぎちゃんを殺人犯にしたくないし」

 まだ、立ち去らないということは。

「話せそう?」

 これが目的か。

「眠い」

「言いたくないならそれでもいいよ。でも、引っかかってることがあるなら、俺でも誰でも、言える人に言っちゃったほうが楽になるんでない?」

「黒の見えない奴に言ってもな」

「それさ、俺にも見えるようにできんの?」

「正気か?」思わず浴槽から上がってしまった。

「出来るんだね」

 まずい。

 ここまで提示してしまったら。

 音を立てないように湯船に戻る。

「やっていいよ。それで俺がみふぎちゃんの荷物を一緒に持てるんなら」

 だからなんで。

「やってよ」

「マミにそこまでしてもらうだけの価値はわたしにはない」

 放っておいてほしい。

 どうせ呪いに呑み込まれて消える。

 いつかはわからない。

 明日かもしれない。

 明後日かもしれない。

 わたしはずっと怯えている。

「みふぎちゃん」

「お節介なんだ。いちいちそうやって、わたしの心にねじり込んできて」

「目的があるからね」

「わたしでは役に立たんと言ってるだろ?」

「でも、みふぎちゃんは、現会長の血を引いてる。親族の口利きってのを期待してるんだけどな」

 やはり。

 知っている。

 誰も知らない。

 わたしと、現会長の本当の関係を。

「眼は、見えるようにはできる。けど、進行を食い止めるのは問題ないが、完全に戻せるかどうかがわからん」

「いいよ」

「未来永劫黒が見えるようになるだけじゃない。眼が汚染されて、全身に拡がって、それで」

 時寧は死んだ。

「いいよ。そう言ってる」

 なんでそんなに。

「覚悟決まってんのかって? 言ったじゃん。俺は、俺の同僚を皆殺しにした怪物に絶対復讐するって。そう誓ったときに心は決めたよ。そのためなら何でもする。その手掛かりになるなら虎穴にも飛び込んで見せるって」

「馬鹿だよ。マミ、馬鹿だ」

「うん、そう。馬鹿でしょ?俺」

 身体に何も纏っていない、いや、水を纏っているからなのか、わたしも覚悟が決まった。

「わかった、マミ。でも明日だ。今日はもう寝る」

「それがいいよ。じゃあ、俺先にリビング行ってるね。あ、着替え置いてあるから」

 この流れで置いてある着替えが、

 薄手の膝丈ワンピースだなんて。

 誰が思うか。

「マミの馬鹿!!」

 返事はなかったので寝たのだろう。

 嫌だ。

 絶対に嫌だ、こんな可愛い服。

 バスタオルを巻いて服を探しに行ったが、なぜかいつものTシャツもスウェットもどこにもない。下着も可愛いやつ(マミが買ってきた)しかない。

 やられた。

 洗濯機が回っている。

「マミ! この馬鹿、起きろ!!」

「え、ワンピース着れた?」マミがソファから跳ね起きた。「え、めちゃ可愛い」

 5時。

「わたしの服は?」

「洗濯機動いてなかった?」

「そうじゃない。なんでそうゆう勝手なことをするんだ」

「勝手なことじゃないよ。お父さんとして当然のことをしたまで!!」

 なんでこんなに得意げなんだ。

 力が抜ける。

 足がスースーして落ち着かない。

 ピンポン。

「こんな時間に? 迷惑なこったねぇ」

「無視だ無視」

 ピンポンピンポン。

「うるさいな」

「俺行って来ようか?」マミが恐る恐るドアスコープをのぞく。「え、女の人?」

「長い髪の?」

「あ、うん、黒い真っ直ぐの髪。あれ、知り合い?」

「開けてやってくれ」

 と言ってから後悔した。

 なんでこいつはいつもこうゆうタイミングで来るんだ。

「え、ちょっと、みっふー、それ、どうしたの? 滅茶苦茶可愛すぎて、僕。眩暈が」

 黒く長い髪。

 真っ黒のワンピース。袖が夏仕様だった。

「でしょう? さ~っすがお眼が高い」マミがぐいぐい話に入ってきた。「何を隠そう、俺の全面プロデュース!! 題して、みふぎちゃんは本当は滅茶苦茶可愛いからちゃんと可愛い格好をしちゃおうキャンペーン!! どうよ、出来は!」

「最高。マジに最高。センスあるよ、君」

 おもむろに二人が拳を合わせた。

 なんだ、これ。

 抱き合って、硬い握手まで始めた。

「ところで、みっふー。この常夏パリピ男は誰? え、ちょっと、なんで家にあげてるの? いま何時?」

「おっす、岡田っす。とある目的のためにみふぎちゃんに協力を土下座してたところっす!」マミがわたしを見る。「んで? お二人の関係は?」

「え、言っていい?」

「勝手にしろ」

「夫婦」

「へ? マジ? まじまじまじ????? みふぎちゃん、え?? 旦那いたの??????」マミが腹を抱えて大笑いを始めた。「え、うそー? さいっこう。最高じゃん。よかった。みふぎちゃん、いい人いるじゃん!!」

「笑うな。お前も、なんだ。修行しに行けと言ったろ? むざむざ戻って来るな」

「僕さ、もうみっふーが心配で心配で。全然集中してないからって師匠に追い出されちゃった」

 ジャン=シャオレー。

 仕事上、彼はそう名乗っている。

 安眠マッサージ師見習い。

 そして、いちおう、わたしの夫ということになっている。はず。きっと、たぶん。

 わたしとレーの子どもが亡くなって、時寧が黒に汚染されて。

 レーを遠ざけたくて師匠のところに追いやったのだが。

 こいつの性格上、一週間もてばいいと思っていたが。

「え、でもホント可愛いよ」レーがわたしをじろじろ見ながら言う。「僕がいくら言ってもこんなに可愛い格好してくれなかったのにな。なんで? 心境の変化? 可愛すぎるからこれからずっとこれで行かない?」

「却下。服が乾くまでだ」

「ええ~」マミと、

「えーー」レーの悲鳴が混じり合う。

 うるさいのが増えてしまった。

 でも、

 ちょっと心が楽になったのはレーにもマミにも黙っていよう。

 7時まで待って、メールを送った。

 返事はすぐに来た。

 今日10時に自宅で。

「喜べ、マミ。会長にアポが取れたぞ」










     3


 会長の住居は、かつてノウ家が所有していた山にある。屋敷も当時のままらしい。二階建ての日本家屋。蔵付き。

 会長は何を思ってこの山を買ったのだろう。

 そして、何が悲しくてわたしはこのすーすーするワンピース(マミの悪意とレーの願望が詰まった)のまま会長宅を訪問しようとしているのだろう。

「へえ、ジャン君はさ」マミが上機嫌でべらべらと話す。「本名じゃないし、国籍も日本人だし、そのカッコも仕事上の、いわゆる仕事着ってやつなわけ?」

「眠ってもらうマッサージだから、女性が安心して眠れるように、男がうろうろしないほうがいいって思いまして。割と好評なんすよ、これ」レーも助手席でぺらぺらと応じる。「岡田さん、すいません、まさか年上だと思ってなくて。生意気にタメ語使っちゃって」

「いいっていいって。俺らもうみふぎちゃん可愛い同盟みたいなもんじゃん? 馴れ馴れしく話しちゃってよ~」

「そうすか? んじゃあ、お言葉に甘えて」

 うるさい。

 とにかくうるさい。

 道中車内でレーとマミはずっとこんな感じで。わたしの話題で勝手に意気投合している始末。後部座席でわたしがうとうとしているのを知ってか知らずか。いや、絶対にわかってやっている。

 ああ、うるさい。

 会長宅には、一度だけ、黒祓いの仕事を母から受け継いだ際に、時寧に連れて来られて挨拶に来たきり。

 あのときはとにかく緊張していて、何を話したのか、まともに憶えていない。

 何年前だろう。

 母と父が死んでから。

 あの二人の墓はない。

「これ、入ってっちゃっていいの?」マミが山の登り口で一旦車を止めた。

「ああ、前も車で入った」

 この先私有地と書かれた看板を超えて、山道を道なりに。しばらく行くと、大きな屋敷が見えてきた。

 門扉前に立っていた家政婦さんに聞いて、マミだけ車を置きに行った。

 わたしとレーは、家政婦さんに案内されて、門をくぐり、石畳の庭を進む。

 ここは少し涼しい。

 今日は風があるせいか。

「おお、久しぶり。こっちだ」縁側にいた会長がわたしたちに気づいて手を振る。

 落ち着いた渋色の和装がよく似合う。

 確か50代かそこらのはずだが、髪はほとんど真っ白になっている。白糸というより、綿毛の印象。

 玄関は、他人の家の匂いがした。

 畳の広間。長方形のちゃぶ台の長辺に会長が座っていた。床の間を背にして。

 座布団は、手前側に二つ。

 二つ?

「あの、すいません、もう一人いるんです」わたしは、家政婦さんにこっそり申し出た。

「儂が呼んだのは、君とその内縁の夫だけだ」会長がにべもなく言う。「あれは運転手じゃないのか」

 困った。

 何て言おう。何と言ったら会長はマミをこの席に呼んでくれるだろう。

「彼は、岡田さんは」慣れない呼び方でむずかゆかった。「同僚を怪物に惨殺されていて、その怪物の手掛かりを探るために、世界中を飛び回っているそうです。会長が24年前に遭遇したあの事件は、そのことと関係があるのではないかと」

「ない。悪いが、ないな」会長が話を遮った。「みつさん、茶と菓子を三つ。持ってきてくれんか」

「冷たいのと温かいのとどっちがよろしいですか?」家政婦さんが尋ねる。

 会長が何も言わないので、わたしたちに聞いたのだろう。

 わたしも、レーも冷たいのをお願いした。

 ごめん、マミ。

 この席に呼べそうにない。

黎影レイヱ君がそうゆう格好をしているのは、何か理由があるのかな」会長が思いついたように言う。

 レーは丁寧に挨拶をしてから、当たり障りのない説明をした。会長は納得してくれたようだった。というか、これが本題ではなかったので、レーが何と返そうがどうでもよかったのかもしれない。

「大きくなったな」会長がわたしを見てしみじみと言う。「いくつになった?」

「今年で19です」

「そうか。もうそんなに経つのか」

 グラスに入ったグリーンティーと水羊羹を、家政婦さんが運んできた。

「昼も食べて行くんだろう? 運転手にも食わせてやらんでもないから、食べて行きなさい」会長が家政婦さんに昼食の準備を依頼していた。

 5人分。

 よかった。マミの分もある。

「聞きたいことがあるんだろう?」会長が話を促してくれた。

「すみません、用があったのは、岡田さんのほうで」わたしは正直に言った。「わたし自身は、会長にお話しできるようなことは何も」

「県警に伝手があってね」会長が言う。「君も知ってる、片山さんだ。彼に聞いたよ。ちょっと厄介なことに巻き込まれていると。大丈夫なのか」

「大丈夫と言えば大丈夫ですが、あの、言いにくいのですが、時寧さんの依頼された先で、立て続けに3件です。さすがに勘繰ってしまっています」

時寧アレは?」会長が聞く。

「無関係だと。しかし、わたしは嘘を言っていると思っています」

「それはどうして?」会長が言う。

「ご存じの通り、黒に汚染されると、悪意をばら撒くことしかしません。生者を害することが黒の本懐であり、逆にそれ以外のことはしてきません。行動原理としては単純なんです。つまり」

「君に嫌がらせをしている、と。そういうことか。ふうむ」会長が腕を組む。

 レーが早くも足が痺れたようで、そうゆう顔をしていたので、会長に断って崩すように目配せした。

「構わんよ。楽にしてくれて」会長がやや顔を綻ばせる。「黎影君はあまり父親に似ないね。もっと、なんというか、傍若無人なところがあったかな」

「父をご存知なのですか?」レーが尋ねる。

「言ってなかったかな。ご存じも何も、君の父は、儂の兄だ」

「え」レーの表情が曇って、ワンテンポ遅れてわたしを見た。

 わたしだって知らない。

 初耳だ。

 いまの話が本当なら。

 わたしと、レーの関係について、考えたくない事実が見えてきたように思えた。

「時寧と源永もとえには、幼い頃から何度も何度も言い聞かせていたんだ」会長が手の平をこすりながら言う。「小張オワリの家とは関わるな。あの家の人間は頭がおかしい、とね。なぜそんなことを言い聞かせたと思う?」

 血が、

 濃くなるから。

「逆に君の家ではそうやって教わらなかったのかね?」会長がレーに聞く。

「父も母もその、別のことにかかりきりで。僕を育てたのは、信者の人で」

「すまなかった。思い出したくないことだったかな」会長がグリーンティを一気に半分ほど空にした。ストローは使わずに。「君たちの娘、いや、息子だったかな。亡くなったと聞いたが」

「そっちのほうが思い出したくないことですかね」レーが代わりに答えてくれた。「そのことで、僕は時寧さんを憎んでいます。僕らの子どもを殺したわけですから」

「レー!」さすがに言い過ぎだ。「すみません、会長。口が過ぎました」

 時寧だって、わたしが殺してるんだから。

 会長がおもむろに席を立って、縁側に通じる障子を開け放った。

 もわりと生ぬるい風が入り込む。

 涼しいかと思ったが、さすがにクーラーの利いた室内と比べると夏の陽気だったようで。

「申し訳ございませんでした」わたしは頭を下げた。

 レーは少し不服そうだったが、時寧が亡くなっていることを思い出してくれたようだった。

 死者に罪はない。

「悪いのは僕です」レーも頭を下げてくれた。「妻は悪くありません。罰を受けるならどうか僕だけに」

「怒ってなどおらんさ」会長が背を向けたまま言う。「怒っとらんよ。ちょっとな、時寧の亡くなった日を思い出してな。来月で一年だ。早いような短いような。あの日はうんと暑くてな。ああ、いや、儂の話はいい。妙な雰囲気になったな。水羊羹でも食うか。美味いぞ。みつさんが美味しいのを買ってきてくれた。時寧にも食わせてやりたかったな」

 障子を閉めて、しばし、喫茶タイムになった。

 こんなに気の重い茶菓子があるだろうか。レーもちまちまと気の進まない様子で水羊羹をつついている。

「死んだ者は生き返らん。そうだろ?」水羊羹を食べ終えた会長が口を開く。「それだけのことなんだ。儂も何人も大切な人を喪っとる。戻らんのだ、あのときは。どんなに願ってもな。後悔ばかりが重なるよ」

「会長、わたしは」

羅亜波らあは」会長がわたしの本名を呼んだ。「水封儀みふぎのほうがよかったかな」

「どちらでも」

「え?ていうの?みっふー」レーが小声でわたしの腕を引っ張る。「めちゃ可愛いじゃん。ねえねえ」

「早速君の名を呼びたい者が現れとるな」会長が冗談めかして言う。「ただ、儂にとってのミフギさんは生涯でただ一人なのでな。確かにあの日、君と初めて会った日、好きなように名乗れとは言ったが、まさかミフギさんの名を遣うとは思わなんだよ。羅亜波、君の両親について本当のことをそろそろ知るべきときじゃないかな」

「母がノウ結舞ゆいまで、父が群慧グンケイ涼史りょうふみではない、てことでしょうか」

「間違ってはいない」会長が言う。口が重々しい。「ただ、合ってもいない。まずは君が名前をもらったノウ深風誼みふぎのことについて話そう」

 会長は、だいじそうに後ろの引き出しから写真を取り出した。

 この写真は、以前に見たことがあった。

「え、これ、みっふーそっくり?」レーがわたしと、写真の中の深風誼を何度も何度も見比べている。「こっちが会長さんで? こっちは?」

「祖父だ。気難しい顔をしてるな」

 深風誼を中央に、会長と、わたしの祖父が両脇を固めた、何の変哲もない日常写真。撮影場所はすぐそこの縁側だそうだ。季節は冬。

 いまから24年ほど前の。

「祖父って、経慶けいけい寺の?」レーが言う。「僕、ちゃんと挨拶してないかも。やば」

「いい。あのクソジジイに言うことなんか何もない」

「ははは」会長が笑った。

 笑った理由がわたしにはわからなかった。

「ミフギさんと君がそっくりな理由を、血縁以外で想像ができるかな」会長がわたしを見ながら言う。

 手元には例の写真がある。

 深風誼は、ちょっと寂しそうに笑っている。

「てっきり祖母なのだと思ってましたが、違うんですね?」

「祖母か。そうなのかもな。いや、言いたいのはそうゆうことではないんだ」会長が両手で顔を覆う。「時寧と同じような状況と言ってしまっては身も蓋もないが、君の出生には、儂も関わっとる。納家の巫女が代々祓ってきた呪いが、ミフギさんの代で人格を持ってしまってな。そいつがミフギさんにこだわるあまり、もう一度ミフギさんを生み出そうとした。それが」

「わたし、ですね」

 不思議とすんなり受け容れられた。

 そうでなければ、わたしのこの空洞は説明が付かない。

 ない。

 なにも、ない。

 ここに何が入っていたのか。

 ここに何が納まるべきなのか。

 呪いだ。

 黒がここで蠢いている。

 うぞうぞと。

 もぞもぞと。

「半分は人間、半分は呪い」会長が両手の人差し指を一本ずつ立て、×印を作る。「最期呪いになるのは避けられんとしても、もしかしたら。ああ、いや、無駄に期待させるのもよくないな」

「伺います。それを教えてもらって、それで」

 何かがちょっとでも埋まるのなら。

「教えてください、会長」

「呪いに呑み込まれたあとの話だ」会長が決意したように言う。「いいか? すべては憶測だ。もしそうならなかったとして、君のせいではないのだから」

 わたしは肯いた。

 ちゃぶ台の下で、レーが手を握ってくれた。

 あたたかい。

「呪いになっても尚、存在を保てる可能性がある」

 ああ、それが。

「会長の後ろにいる、祖父ですか?」

 会長が面食らったように眼を見開いた。

 そして、ゆっくりと後ろを。

 向こうとして躊躇ってやめる。

「やはり、いるのだな」会長の唇は痙攣し、声は震えていた。「君に嘘は吐けんな。参った。助けてほしいのは儂のほうなんだ。そう、利用したようで申し訳ない。儂の後ろに、いまもがいるのか。それを教えてほしくて君を呼んだ。彼は、群慧グンケイ島縞しまじは、儂の後ろにまだいてくれているのかな」

「ええ、います。会長に気づいてほしくて、何度も何度も話しかけていますよ」

「怒っとるんじゃないか」会長が俯く。肩が震えている。「儂が20年以上も無視し続けて。会話に応じようとしないから。とっくに愛想を尽かして消えてしまったりとか、経慶寺のほうに、寺には呪いが溜まっていると聞くが、その呪いの一部になって二度と会えんのではないかと、そう思って。すまん。顔を洗ってくる」

 会長がふらふらと立ち上がって、広間を出て行った。障子は開けたまま。

「いたの?」レーが小声と口パクの間で聞く。

「会長には見えてる。それが答えだよ」

 生ぬるい風が広間に滞留する。

 手入れの行き届いた広い庭が見える。

 そこの縁側で24年前、3人は仲良く写真を撮った。

 家政婦さんがぱたぱたと廊下を走っていた音がしたので大丈夫だろう。

 会長はしばらく戻って来なかった。

 わたしとレーのグリーンティーが氷だけになって、水羊羹の皿が空っぽになった頃、会長が戻ってきた。

 眼が腫れていたが、当たり前のことなので気にならなかった。

「ありがとう」会長が感極まった様子で言う。「実に四半世紀ぶりだよ、親友と話せた。積もる話は後でということで赦してもらった。ありがとう、羅亜波。ほんとうに、ありがとう」

 よかった。

 会長に少しでも恩が返せたのなら。

「気を取り直して」会長が場面転換とばかりに座り直す。「君の両親のことだが」

「別にいいです」

「そうか? 本当のことを知りたくはないか?」会長は少し意外そうだった。

「知っても、ああ、なんだ、くらいの感想しか出ませんし、それに、私の両親は、納結舞と涼史でいいです」レーが左手で握ってくれている右手を強めに握り返した。「半分呪いだろうが、深風誼のコピーだろうが、会長と血縁があろうがなかろうが、現在のわたしにはさほど影響がない。違いますか?」

「そう返されたら何も言えんな。その通りだ」会長が綿毛のような髪を撫でる。「実にその通り。いやあ、顔はミフギさんなのに、シマのようなことを言う。シマには悪いが、二人の子のようにも見えるな。ああ、いや、そう言う意味じゃない。悪かった。ごめん、違う。違うんだよ。悪かったって!」

 会長は途中から後ろの祖父に謝っていた。半分顔が笑っていたのでそうやってじゃれ合っているだけだろう。

 よほど仲がよかったのだろう。

 親友と言っていた。

「旦那様」家政婦さんが襖をするすると開ける。「昼食の準備が整いました。運び込んでもよろしいですか?」

「おお、もうそんな時間か。すっかり話込んでしまったな。運んでくれ」

「あ、僕、手伝いますよ?」レーが器用にグラスと皿(3人分)を持って家政婦さんを追いかけた。

 会長と二人きりになった。

 あ、いや、祖父もいるのか。

 ん?

 そういえば、何かおかしい。

「ええと、あの、会長。その後ろの方、わたしの祖父ですよね?」

「そうだが?」会長が答える。目線が一度上がる。「ああ、そうか。君の祖父は経慶寺にいるね」

「経慶寺にいるクソジジイがニセモノ?」

「その通り。肉体こそ君の祖父―シマのものだが、中身は納家が代々祓ってきた呪いの総体。名を」

 ノウ猛天幡たてま

「シマのフリをした呪いだよ」

 経慶寺の境内に黒が溢れかえっている理由に心底合点がいった。

 住職の正体が呪いでは、集まるのは檀家ではなく呪い。

 ひどい寺だ。

 12時。

 家政婦さんとレーが次々と料理を並べる。麻婆豆腐、天津飯、回鍋肉などなど、カテゴリは中華でまとめられている。どれもこれも美味しそうだったが。

 問題は。

「そろそろ構わんよ」会長が縁側につながる障子を顎でしゃくる。「おるんだろ? 運転手」

 家政婦さんが静かに障子を開け放つと、

「いやぁ、バレちゃってました?」マミが焦ったような表情を貼り付けて植木の陰から出てきた。「大丈夫っすかぁ? 俺けっこう腹減っちゃってて。ほら、聞こえます? この猛り狂う腸の音。あ、違う。これ、そっちじゃないや。あの~、すんません、トイレ。トイレ借りれます?? おかしいな、朝食べたコロッケ、賞味期限過ぎてたかなぁ?」

 情けない恥ずかしい大丈夫かこの男は。と、油断させて警戒レベルを下げるのがマミの作戦だろう。

 会長は気づいているのかいないのか。家政婦さんはニコニコしながら「大丈夫なの?」なんて声をかけながらトイレに案内してくれた。

「あの運転手の名は?」会長が疑り深い目で後ろ姿を睨んでいるので、企みが露見した可能性が高い。

 地元で名高い岐蘇キソ不動産をここまで成長させた名士である会長と接見が叶ったのだから、と上下高価そうなブランドスーツで決めてきたのが余計に胡散臭さを助長させている。敢えて指摘しなかったが、いかがわしいホストか、凌ぎ中のチンピラあたりにしか見えない。

「岡田です。岡田真三」

「岡田。初めて聞く名だ。憶えておこう」

 やばいぞ、マミ。会長にマークされた。

 マミが戻って来るのを待って(20分くらいかかった)、大所帯の食事会が始まった。

 大人数なことに気押されたが、レーが時折気にして声をかけてくれたで雰囲気に酔うことはなかった。家政婦さんも一緒に食卓を囲んでいたのが、会長の優しさと懐の深さを物語っている。

 マミは酒を勧められそうな場面を何度も巧みにかわしていた。しかし、運転手だとわかって酒を勧める会長はもしかして本当は意地が悪い? よくわからなくなってきた。

 時寧が生きていた頃は、一緒にご飯を食べたりした。それをちょっと思い出して肉団子が喉に詰まりかけた。

 両親とはどうだっただろうか。仕事で家にいないことが多かったから。

 ああ、そうか。それで時寧がわたしの家に来てくれていたのか。

 いつも失くしてから気づく。

 いるときは何とも思わないのに。有難さにも気づけない。

「どしたの? これ、美味しいよ?」レーが皿に取ってくれた。「もしやもうお腹いっぱい? デザートもらおうか? 家政婦さんー、そっちのお皿を」

「すまん、もういい。もういっぱい」レーと家政婦さんに向けて両手を振った。「ありがとうございます。もともと小食なので」

 マミは酒で気分がよくなっている会長に何度もアタックして敗れている。それ以上飲ませてもかえって逆効果ではないのだろうか。無限に機嫌がよくなるタイプだったらいいが、眠ってしまうタイプだったら。

「ああ、腹いっぱいだ。楽しかった。みつさん、すまん。後は任せていいかな」会長が赤ら顔でよろよろと立ち上がる。「君たちもゆっくりして行きなさい。帰りにまた顔を見せてくれ。よいっしょ」

「旦那様、送りますよ」と、見兼ねた家政婦さんに支えられて(家政婦さんの身長のほうが会長より大きかった)会長は自室に戻ってしまった。

 ほら、言わんこっちゃない。

「作戦失敗だな」マミに言った。

「いんや、割と聞きだせたかも」マミはそこそこ満足げな笑みを浮かべた。「素人の口割らせんのなんか、茶碗割るのとおんなじよ? 両者共、落とせば割れるってね」

「酒でな。で、どうだった?」

 レーがデザートの杏仁豆腐をつついている。さっきレーに一口もらったが、硬めの食感にカラメルソースがかかっていてとても美味しかった。

「そうね、直接関係はないけど、参考にはなったって感じ?」マミがゴマ団子を齧りながら言う。「俺が追ってるのとは違う方向での化けモンが、存在しそうってことだけ。みふぎちゃんのとこのは呪いっしょ? 俺のは、なんつーか、純然な脅威てゆうのかな。呪いの大元って人間の悪意なんだとしたら、俺が捜してるのはそれとは隔絶しててさ、人間を超えた、人間がいようがいまいが関係なくいる存在ってゆうの? あ、このゴマ団子自家製だ。うま~」

「よくわからんが、役に立たなかったならすまなかったな」

「なんでみふぎちゃんが謝んのさ~」マミがゴマ団子の皿を手元で囲った。「そんなに簡単に辿りつけないのもわかってるし、長旅だってわかってるしさ。思わぬところでこうしてみふぎちゃんたちにも会えたし。こんなにうまい中華も食えたし。ああ~、このゴマ団子無限に食える」

 マミの探し物は黒とは関係ないことが判明した。

 ということは。

 そうゆうことだろう。

「行くのか?」

「なんで?」マミが素頓狂な声を上げる。

「なんで、て。用は済んだだろ? マミの目的とわたしの祓ってる黒は」

「まだ解決してない事件があんじゃん」

 24年前の納家の事件。

 もしくは。

「連続殺人事件よ。ついでにこっちもなんとかしてこうかなって。ほら、このままじゃみふぎちゃんたちが危険な眼に遭いそうだしさ。引き続きボディガード兼お父さんとしてロハで役に立ててよ! ほらほら、遠慮しないで。タダより高いものはないよ?」

「使っていいのか、どっちなんだ」

「これからもよろしくってこと。しばらくこっちにいるつもりだったし。気にしないでいいよ~」

「いえいえ、こちらこそどうぞよろしくお願いします」レーが馬鹿丁寧に頭を下げる。「岡田さんにならみっふーを任せられますよ。いやぁ、こんなに可愛いみっふー、みっふー史上初ですわ」

「ジャン君デレデレじゃんか~、このこの~」マミがレーに軽く肘で突く。「この用心棒兼執事兼お父さんに任せなさいって!! みふぎちゃんには引き続き可愛さを磨いてもらいます!」

「最高っすわ。ほんと岡田さん、頼りにしてます」レーが仰々しくマミの手を取った。

 二人は通じあったような視線で固く握手し合う。

 だからなんなんだ、この二人は。

「やらんぞ、わたしは」

「ええ~~~」というマミの悲鳴と、

「そんなこと言わないでよーーー」というレーの悲痛な声が重なった。

 14時。

 食休みも充分だったので、そろそろお暇すると家政婦さんに伝えた。帰り際に声を掛けろと言われたので、会長が自室から出てくるのを広間で待った。

「悪かったわるかった。久しぶりに楽しい酒の席だったから」会長の顔はまだだいぶ赤い。「羅亜波、いま世の中を騒がしている事件のことだが、あまり深入りしないように。危ないこととか、無謀なこともしないように。儂から片山さんにお願いをしておくから、困ったことがあったらまず彼に相談するように。あと、だいじを取ってしばらく仕事を休みにしよう。君の出掛ける先でよからぬことに巻き込まれているようだから」

「あの、休みということは」

「給与か? 心配しなくても有給としよう。儂が言うんだから通させるよ」

「違うんです。あの、この間まで1年のお休みをいただいていたので」

 時寧との約束という名の条件で。

 わたしは1年間の療養をもぎ取った。

時寧アレの不始末によるものだろう」会長が軽く笑い飛ばす。酒の後押しもあってだろう。「なに、それとこれとは別だ。今年分の夏休みだと思っとくれ。本社も順繰りに夏季休暇を取っている。それに準じてくれて構わんよ。そうだった、そうだった。こないだまで軽井沢の別荘を使ってくれていたそうだね。よければいつでも」

「会長は、この連続事件が、黒と関係あると思われますか」

 敢えて、

 殺人を抜いた。

「儂はこの通り、見えるだけだから、何の役にも立たんよ。すまないね。だが、関係していたとして君の専門じゃない。殺人事件の専門は警察だと相場は決まっている。素人が、ああ、そうか、君は責任を感じているのかな。君が犯人でないのなら君には何の関係もない。たまたま祓ったそこにたまたま遺体があっただけ。違うかい?」

「会長の仰ることはわかるんです。でも、わたしは」

 見た。

 あれは、

 人間の大きさをした黒で。

「相談する相手を誤っとるな。といってもミフギさんがいない以上。あ、いや、それはさすがにな」

「クソジジイですか!?」

 そうか。

 餅は餅屋。

 黒は黒だ。

「ありがとうございます。マミ、レー、行くぞ」

「待っとくれ」会長が片手をこちらに向ける。「早まるな。あれは呪いの総体。時寧アレとは比べ物にならんくらいの」

「会長、わたしは黒祓いの巫女です。呪いくらい、祓ってみせますよ」

 会長はわたしの眼をじっと見て、諦めたように息を吐いた。

「わかった。わかったよ。ミフギさんも一度言ったらなかなか譲らんかった。頑固なところがそっくりだ。なんだ?なんでお前。いや、でもそうか。いや、会ってもいいのか? どさくさに紛れて取り戻したりとか。それは無理? ううん、どうしたものか」

 祖父が同行を希望しているのを会長が迷っている。

「よし、わかった。わかったって、言ってるだろ?このわからずや! あ、いや、こっちの話だ。シマが心配だからついていくと言っている。シマと話はできるのかな?」

「はじめまして」ノイズがかかっていてはっきり聞こえなかった祖父の声が、クリアになった。祖父がわたしと会話したいと思ってくれたことが大きい。

水封儀みふぎです、けど、会長と同じ方式なら特別に本名呼びを許可します」

「話がわかるね」祖父は柔和に口元を上げた。「羅亜波、だったかな。私が一緒に行くよ。実家突撃も兼ねて。いろいろと怨みツラみが溜まってる」

「どうぞお手柔らかに」わたしはふわふわと浮く祖父に頭を下げた。

 祖父の姿は24年前のままで止まっている。

 19歳かそこらの。

 あの写真のまま。

 父とはそんなに似ていなかった。叔父の子、つまり従弟に似ているかもしれない。いや、ちゃんと会ったことは数えるほどしかないが。目元の印象というか、重たそうな髪質というか。

 そう、身長だ。従弟も当時で170くらいあった気がする。高身長の遺伝子が確実に絶えかかってないか? むしろ大きすぎて淘汰されているのか?

 そんなことより、もしやわたしは、祖父と同年代なのか?

 なんという。

 処理が追いつかない。















     4


 会長宅の山から経慶けいけい寺まで車でそこそこの距離がある。

「これね、家政婦さんにもらったの~」マミが、助手席と後部座席にそれぞれ包みを投げて寄越す。

 ハート、星。猫、熊。いろんな形のいろんな味のクッキー。見ているだけで楽しくなるような工夫があった。

「すごいでしょ? 俺も手伝ったんだ~」

「マミは何をしてたんだ?」

 てっきり、わたしと会長の会話を庭で盗み聞きしているものと。

「は!?? え、俺、なんでこんなことしてた???」

 気づいていなかったらしい。

「あの家政婦、やるよ。相当の手練だよ。この俺を一歩も近づけさせないあの華麗な手口。クソガキの扱い方に慣れてる!??」

「単にクッキーに釣れられただけじゃないのか?」

 レーのケータイが鳴った。師匠からだろう。レーが敬語を使う相手は、他に思い当たらない。

「ごめん、みっふー」レーが後ろを振り返りながら顔の前に手を立てる。「師匠が戻って来いって。行っていいとは言ったけど、戻って来るなとは言ってないって。だからごめん、一回戻るね」

「頼りにされているのはいいことだ。マミ、駅まで送ってやってくれ」

「あいあいさー」マミが敬礼ポーズで返事をする。

 祖父は付いてきているのだろうか。車内にはいないようだが、気配はなくもないのでこのアホ二人の会話に参加したくないだけかもしれない。

 駅に着いた。

「また戻るからね。てゆうか、あっちには単身赴任ってだけだからね」レーが車を降りながら言う。そしてぺこぺこと運転席に向かって頭を下げる。「岡田さん、くれぐれも、くれぐれもどうか、僕の可愛いみっふーをよろしくお願いします。毎日可愛い服を、そして欲を言うなら部屋着パジャマも可愛いのを」

「可愛いかわいいうるさい。さっさと行け」

 レーが何度も振り返って手を振るので、マミに早いこと車を出させた。

「愛されてんねぇ、みふぎちゃ~ん」マミが言う。

「鬱陶しいだけだ」

「アレはモリの、あ、会長のことだけど、甥てことかな」突然、わたしの隣(後部座席)に祖父が現れた。「兄貴のことはよく知らないけど、鬱陶しいところがモリと似てるかも」

「いたんですね」

「ん? みふぎちゃん、誰かいるの~?」マミがバックミラーで後ろを確認する。

「言ってもいいですか」

「構わないよ」祖父が頷く。

 マミに簡単に祖父のことを説明した。

 そして、これから何をしに行くのか、も。

「うそー? 俺の車、呪い乗ってるの? 大丈夫? 事故ったりしない?」

「厳密には呪いじゃないよ」祖父が答える。「詳しいことはよくわかってないけど、君たちを害するつもりはないし、祓ってくれなくて大丈夫だから」

 たしかに、祖父はいつも祓っている黒とは違う。

 負や無の予感というのか、何が何でも一刻でも早く食い止めないといけない切迫感がまったくない。

 驚くほど静かで凪いでいる。

 不思議な黒だった。

 会長の言う、呪いになっても尚、存在を保てる可能性。

 わたしも、この状態に成れるだろうか。

 どうせ呑み込まれるのなら、時寧のように周囲に迷惑を振り撒く黒ではなく。

 祖父のように、

 誰かを見守り、助ける存在になりたい。

 経慶寺に到着したが、観光客用駐車場にパトカーが3台ほど止まっていた。物々しい雰囲気が漂い、野次馬で壁ができていた。

 まさか。

 いや、でもここは今日の仕事先でもなんでもなく、たまたまわたしが行こうと思った場所で。

 仕事かどうかは本当に関係がないのか?

 時寧はわたしの思考をはずだが、こうゆうときは決まって出てこない。

「いやあ~、参ったねぇ」マミが大げさに頭を掻く。「俺、こっから行けないわ。ごめん。行くんならみふぎちゃんだけで行ってくれる? あ、おじーさまがいるんだっけ? なら大丈夫?」

「わかった。あとで迎えに来てくれればいい」

 車を降りて境内に入ろうとしたが、案の定、制服の警官に止められた。

 無理に押し入るだけの理由はないし、何が起こったのかも興味がないが、この奥にいるであろうクソジジイに用がある。

 しかし、ここで無理に粘って怪しまれるのは本末転倒だ。

 出直すか。

「おや、どこのご令嬢かと思えばお嬢さん。見違えたな。馬子にも衣装か」買い物帰りらしいクソジジイが人当たりの良さそうな笑みを浮かべながら近づいてきた。「しかし、おかしいな。こんなクソ寺二度と来ないと言ってなか」まで言って、クソジジイの視線がわたしからふ、と上方に外れた。

「随分馴染んでるみたいだね」祖父が言う。わたしのすぐ後ろから顔を出した。「使い勝手いいの?私の身体」

 クソジジイには、見えている?

「そこに、いるのか」クソジジイが眉を寄せて後ずさる。

 見えていない?

 どっち?

 制服の警官が二人やってきて、クソジジイに話しかける。

 ここでクソジジイが捕まったら面倒くさいことこの上なかったが、どうやらすべてはクソジジイの留守の間に起こっていたことらしい。呼びに来た寺の関係者と一緒に、クソジジイと警官が境内に入って行った。

「どうするかい?」祖父が言う。心底どうでもよさそうだった。

「中で何があったかわかりますか?」

「見て来いってこと? できなくはないけど、へえ、興味あるんだ」

 興味はないが、クソジジイが連れて行かれてしまった理由が気になる。

「善意の通報があったみたいだね」祖父が遠くを見るような眼をした。「境内のどこかに死体があるとかないとかで」

 野次馬だと思われているらしく、わたしの存在は特に警官には奇異に映ってはいないようだった。

「善意ですか?」

「善意でしょ? 善意じゃなかったら通報なんかしない」

「もう少し詳しくわかりますか?」

「死体はまだ発見されてないみたいだね」祖父が言う。「観光客立ち入り禁止であちこち掘ったり埋めたりしてるみたい。穴ぼこだらけでざまあみろだ」

 これで見つかって連続事件との関連性があれば、4件目。

 なぜまだ捕まらないのか。

 わたしはこの問いに、ひとつの解を用意している。

 待機していても仕方がないので、マミに迎えに来てもらって車に乗る。

「生きてる方のおじーさまに会えた? て、それどころじゃなさそうだったね」バックミラー越しに見えたマミの眼光は鋭い。「聞きたいなら話すけど? どっする?」

 マミはマミで情報収集をしていたらしい。片山さんあたりに聞いたのかもしれない。

「肯定ってことで話すね」マミが言う。「ついさっき、経慶寺から一番近い公衆電話から通報があった。ほらそこ、見える? ちょうど調べてるっしょ? 境内に死体を隠した、て。んで、せっせこ掘り返してるってわけ」

「見つかると思うか?」

「どっちの意味で?」マミが聞く。「死体なんてホントにある? 県警の汚名返上?」

「マミにまだ話してないことがある」

「なになに? みふぎちゃんの秘密?」

 車には目的地が必要なので、自宅を指定する。

 16時。

 そろそろ帰って仕事の準備をしなければいけない。て、しばらく休めと会長に言われているんだった。頭と身体は夕方から夜にかけてスイッチが入るようになってしまっている。

 頭が冴えてくるのがわかる。

「マミ、戻れるか」

「お寺? いいけど、俺は行けないよ~?」

「私がいる」祖父が言う。

「祖父が行ってくれるらしい」

「んなら、りょーかい!」マミが言う。「でも危ないと思ったら」

「わかってる」

 電話をかけた。

 クソジジイ宛てに。

「見つかったか。まだだろ? わたしが見つけてやるよ」

 古衛ふるえさんに連絡したらあっさりと境内に入れてくれた。

 経慶寺の裏の山の墓地。

 濃い黒の塊が土から漏れ出ていて。

 そこを掘り返すと、

 出てきた。

 4人目。
















     2ナルシズム


 2人目は、一人暮らしをしている女だった。

 自分のことが好きすぎる女で自分がどれだけ頑張っているかを私に語った。

 私は話を聞きながら、女をどうやって愛そうか考えていた。

 私は女をたっぷり愛したのに、女は私をちっとも愛してはくれなかった。

 いつもそう。

 いつもそうだ。

 女はいつも私を置いていく。

 3人目は、なんだったか。

 よく憶えていない。

 見た目を気に入った女だったことは間違いないが。

 やはり私を愛してくれない。

 4人目は、ついさっきだったからよく憶えている。

 やっぱり私を愛してくれなかった。

 墓場で愛してほしいだなんて、変わった趣味の女ではあったが。

 女を隅々まで愛し終わった後、

 土地の所有者に教えておいた。

 百パーセントの善意で以って。

 だって、潔白で善良な人が土に埋まったままじゃ可哀相だろ?

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