第3話 財布の主
(なんだか今日は妙なことが続くな……)
日常がヒタヒタと浸食されていく――有屋は、なんとか内心の動揺を悟られぬ
よう、表情だけは日常のソレをなんとか保ちつつ女の子に質問を続けるが、なにせ
相手はまだ小さな女の子。自分の住所も家の電話番号もわからない。
「もう暗くなってきたから、おまわりさんにお願いして、ご家族の方に迎えに来て
もらおうね」
できるだけ優しくそう言うと、有屋は駅務室にいる諌松に連絡をとり、警察に事情を話してもらおうと無線機を取り出した。
すると女の子は一瞬泣きそうな顔になったかと思うと、急にくるりと反転して駆け出していった。
「あっ、ちょっと君!」
驚いた有屋が無線を操作するのを中断して後を追おうとすると、いつの間にか後ろにいた女性がそれより早く駆け出して、女の子に追いついた。そして強引に女の子の腕を掴むと、しゃがんで女の子と目線を合わせた。
「まま……」
「さや、またここにいたのね! 勝手に出て行ったらダメだって何度も言った
でしょう!」
「ごめんなさい……」
女性のキツい口調と女の子の消え入りそうな謝罪の声に不穏なものを感じて、
有屋は一瞬声がけするのを躊躇ったが、これは仕事だ。この女性が本当にこの女の子の保護者なのか確かめる義務がある。万が一にも不審者に迷子を引き渡してしまった
なんてことがあったら大失態だ。勇気を出して、有屋は二人の間に割って入った。
「あの、この女の子の保護者の方ですか?」
有屋の言葉に、女性は「え?」とあからさまに怪訝そうな返事をする。
しかし有屋の外見から駅員だと判断したのか、すぐによそ行きの丁寧な声音に変わると「はい。私はこの子の母親です」と言い、女の子のかけているポシェットから迷子カードを取り出して有屋に渡し、自分も慣れた様子で免許証を財布から取り出して
「これがその証明です」と免許証を見せてきた。
女の子の迷子カードと女性の免許証を照らし合わせ、両者がまぎれもなく母親と娘であることを確認すると、有屋は「確認いたしました。ありがとうございます」とカードと免許証を返し、「もう暗いですから、お子様から目を離さないようにして
くださいね」と付け加えた。
この言葉が癇に障ったのか、母親の女性は一瞬キッと有屋を睨みつけると、「この子の落ち着きがないせいで、ご迷惑をおかけしました」とだけ言い残すと、引きずるようにして女の子を連れて行った。
この間、女の子は終始無表情だったが、母親に手を引かれている途中、ふいに笑顔を見せて「またね」とこちらに向かって手を振ってくれた。
その笑顔だけは年相応の可愛らしいもので、だからこそ母親が登場してから一貫して表情がなくなってしまったことが気になったが、ひとまず一件落着したので有屋は駅務室へと戻った。
そろそろ本格的に帰宅ラッシュが始まってしまう。
改札を行き来する人の数は、こうしている間にもどんどん増えていく。
こうして自分が席を外している間に、駅務室での客対応に支障が出ていないと
いいが――そう思って少し焦りながら有屋が駅務室に戻ると、すぐに諌松が声を
かけてきた。
「あ、やっと帰ってきた! 有屋君、あの財布、見つかったよ!」
あの女性が探していた財布が、つい先ほど電車の最後尾の車両の端に落ちているのが発見されたのだという。
あれだけずっと探して見つからなかったものが、見つからないと困ると女性が零していた今日「9月10日」に見つかるなんて――偶然にしてもできすぎている気がしたが、見つかったのは事実。諌松が手にしている鳳凰らしき鳥の刺繍が施されている、
その財布を目にした有屋は事実を認めざるを得なかった。
少し興奮しながら、有屋は財布に入っていた身分証に記載してあった電話番号に
宛てて電話することにした。
あれだけ財布に固執していた女性の反応がみたいという妙な好奇心もあった。
「もしもし、私、永美川駅の駅員の有屋と申します。お探しになっていたお財布らしきものを見つけたので、お電話を差し上げました」
「駅員さん……?」
驚きの声を上げたのは、毎日聞いていたあの女性の声ではなく、年老いた男性の声だった。
「あの、奥様か娘さんだと思うのですが……毎日お電話でお問い合わせいただいて
いた……」
すぐにあの女性が電話に出るものだと思い込んでいた有屋が、「しまった!」と
ばかりに説明を加える。
「妻は10年近く前に亡くなっており、うちには私一人しかおりませんが……」
有屋の背中を冷たい汗が伝った。
「……そうでしたか、申し訳ありませんでした」
財布が見つかったことにばかり注意を向けてしまい、電話番号の確認を誤ったの
かもしれない。
有屋は自分の不手際に舌打ちしたい気持ちになりながら、さっさと謝って電話を切ることにした。
「待ってください! 電話をしたのは私ではありませんが、そのお財布は私のものかもしれません。どこかで失くしてしまって、もう出てこないものと諦めておったのですが……」
意外な申し出に、念のため確認してみると、やはり男性が少し前に失くしたという財布の特徴と一致した。
「それではお手数ですが、何か身分を証明できるものを持って駅までお越しいただくことはできますか?」
「ええ、ええ。もちろんです。ありがとうございます!」
こころなしか、はじめはなんだか消え入りそうな声だった男性の声に少し張りが
出てきた。
財布を失くしたことは、男性が自覚している以上にダメージを与えていたようだ。
――もしかしたら、亡くなった奥さんが心配して探してあげていたのかもしれ
ない。柄にもなく、有屋はほっこりした気分になった。
(まあ、問い合わせの電話を邪魔した客に痛い目を遭わせていたなら、結構怖い
奥さんだったのかもしれないけれど……)
静かに受話器を置いた有屋は、賑やかさを増してきた改札に向かう。
次々と改札を抜けていく人の群れを見守っていると、視界の端に笑みを浮かべた
女性が映った気がした。
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