第2話 9月10日

 翌日の9月10日。

 女性がしきりに気にしていた日だ。

 

 『9月10日までに必要なのですが……』

 女性のか細い困り声が、有屋の耳に蘇る。

 (――果たして今日はかかってくるのだろうか?)

 有屋はいつも以上に電話のことが気になった。


 しかし――。


 「結局かかってこなかったね」

 

 窓口業務がひと段落した諌松が、背伸びをしながら言う。

 どんな事情があったのかは知らないが、あれほど毎日かけてきた問い合わせ電話が今日はなかった。

 なんらかの解決を見たのだろう。


 ホッとした有屋は、少し肩の荷が下りた気がした。


 「よっし、それじゃあ帰宅ラッシュに備えるとしますか!」


 有屋は気分を変えると、諌松と窓口業務を交代する。


 あれほど女性が気にしていた9月10日だからと、有屋は午前中から茶色の財布が

届いていないかといつも以上に注意を払っていたのだ。

 しかも結局鳥の刺繍が施された黒財布は届かなかったのだから、電話口での女性の反応が正直怖かった。

 考えすぎだとは自覚しているが、場合によっては電話を邪魔した客たちのように

怪我の1つでもしてしまうのではないかとさえ思っていたのだ。


 何はともあれ今日は無事一日が終わりそうだ。

 窓口の傍では、既に一人客が対応してくれるのを待っている。


 早速有屋が声をかけると、客の老婦人は上品な仕草で手のひらで横を差して遠慮

した。


 「さっきから待っている、あの女の人を先にしてあげて頂戴」


 「女の人……ですか……?」


 しかし有屋が老婦人が差している方向を見ても、女の人どころか誰もいない。

 すっかり面食らっている有屋とは対照的に、老婦人は話を続ける。


 「ええ。そこにいらっしゃる髪を結わえた若い女性の方」


 有屋は一瞬、ぞわっと背筋に寒いものが走るのを感じた。


 だが駅員は接客業。

 負の感情をお客様に露にすることは出来ない。


 「若い女性」には他の駅員が対応中であることにして、なんとかその場はやり

過ごした。

 

(……あのお客様にしか見えない存在ってこと……なのか?)


 こんなケースは初めてだったので、有屋は内心戸惑っていた。

  

 しかし今は業務中。

 有屋は再び業務に集中しようと努めた。


 すると今度は60代くらいの人の好さそうな男性客が窓口に現れて「先ほどから券売機のところに小さな女の子が一人で誰かを待っているみたいなんですけれど、

こんなご時世ですからちょっと心配で……。時間があったら様子を見てあげてくれ

ませんか?」と頼んできた。それなら確かに犯罪に繋がってしまう可能性もある。

 

 客対応は諌松にお願いして、有屋はすぐに券売機に向かった。


 駅務室に隣接する券売機が立ち並ぶ一角に向かうと、確かに保育園や幼稚園に通うくらいの年頃の小さな女の子がいた。周囲に親らしき大人もおらず一人きりで、可愛らしいけれど少しくたびれたワンピースに小さなポシェットを肩から下げて、まっすぐに改札を見て誰かを待っている。


 券売機のあるスペースは、駅務室の窓口とちょうど直角の位置にあるので、券売機前の様子は駅務室からは分かりにくい。

 定期的に手助けが必要な客はいないかチェックは行っているが、客対応が重なったり、忙しい時間帯にはどうしても目が届かなくなってしまうことがある。今回は親切な男性が教えてくれて助かった。

     

 早速有屋は女の子に声をかけた。


 「お嬢ちゃん、誰かを待っているの?」


 「うん。パパ、まってる」


 有屋はちゃんと話が通じるかと心配になったが、おぼつかないながらも、女の子は意外にはっきり答えた。


 「一人で? おうちの人は?」


 「さや、ひとりでまってる」 


 (こんな小さな子を一人で駅で待たせるなんて、どんな親なんだ?)


 内心訝しく思いながらも、有屋はなんとか女の子の親元に繋がるヒントを聞き出せないかと質問を続ける。


 「パパとお約束をしたのかな?」


 「……」


 先ほどまでハキハキと答えていた女の子は、急に黙り込んでしまった。


 (あれ、なんか聞いちゃいけないことだったのかな?)


 独身の有屋は、これくらいの年齢の子どもとの接し方がよく分からない。

 でもこのまま一人きりで券売機の前で待たせておいていいはずがないことだけは

確かだ。


「もう遅いから帰ったほうがいい。おうちの人も心配しているよ」


「……そうかな。あ、でも、あのおねえさんも、さっきからまってるもん。さや、

ひとりじゃないもん」


 そう言って女の子は、さっきの老婦人が手で示した辺り――のすぐ後ろの何もない空間を指差した。

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