第35話【大晦日】
「風呂掃除、終わったぞ」
「ありがと」
キッチンにいる沙優に浴室掃除の報告をしにやってくるなり、ふわりと、だしの食欲をそそるいい香りが鼻腔に侵入してきた。
「楽しみだな。沙優の作る年越しそば」
「そんな期待されても。市販の物をただ茹でてるだけなんですけど」
後ろから沙優の隣に並んで鍋の中を覗こうとした時、後頭部で結んだ馬の尻尾みたいな小さなポニーテールが微かに俺の首元を掠り、くすぐったい。
「でもそれ以外は可能な限り手作りにしてみました。特に揚げ物なんて、今の時期は自分で作った方が絶対安上がりだからね」
「家計への配慮、いつも本当に助かります」
「いえいえ」
大晦日のスーパーで売られる総菜の天ぷらは、どうしてあんなにも高いのだろうか。
どれも値段が通常の倍はいき、しかもかき揚げに至っては、俺の苦手な殻付きの小エビが入ってるときた。
あのプラスチックを食べているような食感が昔からどうも苦手で。かき揚げ自体はどちらかと言えば好きな食べ物の部類ではあるのに、そば屋等で注文してこれが入っているととても残念な気持ちに陥る。
「安心して。かき揚げの具材に殻付きの小さいエビは入れておりませんので」
「バレたか」
視線がボールの上の、これから油で揚げられる具材たちにいったのを気付いてか、沙優が鼻を鳴らした。
「当然。好きな人の好みを把握していないわけないでしょ」
「好きな人?」
「大、好きな人の、ね。言わせないでよ。バカ」
わかっていても愛する人の照れ顔見たさに意地悪する俺は、自分でもガキみたいだと思う。
「油使ってるからスキンシップは無しの方向でお願いします」
「んッ......♪~」
沙優に伸ばした手を大人しく引っ込め、そんつもりはありませんよと、視線を彷徨わせながら必死に普段吹かない口笛を吹いてなんとか誤魔化す。
ふと目を落とした先、うなじには、薄っすらとかいた汗。
だしの匂いに混じって漂う女性特有の甘い香りが、食欲と同時に性欲まで欲し、よだれが口いっぱいに溜まる。
「せめて大晦日くらいは健全に過ごそうって約束しなかったっけ?」
「そうだけど、近くにいるとつい触りたくなるというか」
「私はスマホじゃありませんので。吉田さん専用ではあるけどさ...」
「何か言ったか?」
私はスマホじゃありませんのでのあと、何かを言ったのはわかったんだが、油の音にかき消されほとんど聞こえなかった。
「ううん。別に。もうすぐ夕飯出来上がるから、吉田さんは先にビールでも飲んで待ってて」
揚げ物中のせいか、熱を帯び赤くなった顔で沙優は俺を居室へと追いやった。
正直、風呂掃除をしている段階から早く飲みたくて仕方が無かったので、そう言ってもらえるとありがたい。
恋人の料理する背中を摘まみに、冷蔵庫から取り出した缶ビールをいただく。
「――ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
夕飯の年越しそばを食べ終え、時計を見ればもう時刻は深夜11時50分。
今日も二人揃って動き出しが昼過ぎだったこともあり、一日が終わるのを余計早く感じる。
「昨日買い出しに行っといて正解だったね。買い出しまで今日だっだら、きっと大掃除間に合わなかったと思う」
「だな」
「だな、じゃないでしょ。もう〜」
半ば呆れた雰囲気で沙優は苦笑した。
「正月休みなのをいいことに、毎日遅くまで私にちょっかい出してくるから」
「おいおい俺だけの責任か? 沙優だって、大学とバイトが休みに入ったからってリミッター解除してるだろ」
どちらが先に手を出したかで揉め始める俺たち。
「おっぱい星人の吉田さんに言われたくありません~。昨日だってまた私にハチミツプレイをお願いしてきたくせに。このままだと糖尿病になっちゃうよ?」
「健康を盾に使うな。んなこと言ったら尻に入れるのだってあんまり良くないだろ。本来出すための穴に入れてるんだから」
「たまにならいいの。それにお尻なら危ない日に中に出されても平気だし」
「だったらハチミツも何の問題もないだろ。糖類ゼロの物に変えればイケる」
「「......ぷッ」」
お互い真面目に意見をぶつけているようで、実はとんでもなく
「私たち、新年直前に何をくだらないことで言い争ってるんだろうね」
「でも沙優の言う通りだな。正月休みに入ったからってちょっと緩くなり過ぎたと思う。特に生活リズムが」
俺の今回の正月休みはお盆休みと一緒の一週間。
お盆休みの時もそうだったが、どうにも自分の手の届く範囲に恋人がいるという環境は人を盛りのついた猿へと
前回の教訓を活かし、正月休みくらいは健全に行きたい。
「吉田さん。私、いま凄い幸せだよ」
「どうした急に」
「今年のうちにどうしても言っておきたくて。吉田さんと恋人になれただけでも嬉しいのに、また昔みたいに一緒に住めるなんて思ってもいなかったからさ。北海道に戻ったばかりの、あの時の私に言ってあげたいよ。今度は恋人として、毎日ご飯作ってあげられるよ、って」
それを言ったら俺だって。二年前、沙優を北海道に送り届けこの部屋に帰ってきた俺は、正しいことをしたはずなのに、まるで子供みたいに泣きじゃくった。
もうあの頃みたいな生活はやって来ない......沙優と出会う前の、元の生活に戻っ
ただけ......頭では理解していても、最愛の人が俺の前からいなくなってしまった悲しみはとても深く、立ち直るまでにかなりの時間を要した。
「手、出して」
見やすいようベッドの縁の真ん中に置かれたノートPC。その画面の上の時計が11時59分45秒を回った瞬間、沙優はローテーブルから身を乗り出すように俺へ右手を差し出した。
「ん? 何をするつもりだ」
「いいからいいから。ほら立って」
「お、おい。そんな引っ張んなって」
沙優の力では当然俺を立たせることは無理なので、わけはわからないがとりあえず言う通りに従いその場から立ち上がる。
「この辺でいいかな」
「だからいったい何なん――」
「行くよ吉田さん。3・2・1、ジャンプ!」
ローテーブルから離れたことを確認した沙優は突然、手を繋いだまま謎のカウントを開始。釣られても俺も一緒に軽く飛び上がった。床に着地すると、時刻は午前0時0分。新年の幕開けだ。
「あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします」
「こちらこそ、今年もよろしくお願いします......って、年越しジャンプがやりたかったのかよ」
「うん。前から一度やってみたかったんだよね」
「んな不意打ちで仕掛けなくても」
何事かと思えば、誰もが一度は経験があるであろう年越しジャンプだったとは。
新年の挨拶も早々に、つい苦笑いを浮かべてしまう。
「だって素直に言っても「んなガキみたいなことしたくねえよ」って、突っぱねるでしょ?」
「そんなことはないぞ。大人だってするやつはするし。あと俺が沙優のお願いを断ると思うか?」
「そうでした。吉田さんは私の言うこと何でも聞いてくれるもんね」
好きになってしまった弱みというか、何というか。
沙優を心の底から信用しているからこそ、変に常識から外れたお願いはしてこないとわかっている。
にへらと笑う彼女が眩しくて、空いてる方の手で鼻の頭を掻きながら目を逸らした。
「......それより、年が変わったから配信始まったんじゃないか」
「おっと、いけないいけない。吉田さん、いま食器片づけちゃうから準備お願いね」
「了解」
無事に年を越したこのあとは、沙優が見たいという映画を動画配信チャンネルで鑑賞することになっていた。
爛れた生活を見直す初日として、芸術鑑賞で締めるのはうってつけの手段ではないだろうか。
「......すぅ......すぅ」
「――沙優?」
だが開始して30分が経過した頃。隣で寝息が聞こえてきた。
無理もない。沙優は起きてから部屋の大掃除の指揮を取り、そこからお節料理と夕飯の準備にと、ほぼノンストップで動きっぱなしだったのだから。
「いくら大人になったって言っても、寝顔だけはそこまで昔と変わらないんだよな」
肩に乗る頭の重さが心地よい。
切れ長の目に、整った鼻のライン。と、その丸く可愛らしい先端。
色白な頬をそっと起こさないよう指でつつくと、ほどよい弾力で優しく押し返され、つい調子に乗って何度も繰り返してしまう。
普段ついばむばかりでまじまじと見る機会が少ない桜色の唇は、天ぷらの油によって照かり輝いていた。
映画鑑賞が気づけば沙優の寝顔観賞へと変わるのは必然の結果だった。
「俺のところに帰ってきてくれて......俺のことを好きでいてくれて......ありがとな」
去年は本当にいろいろあった。
おそらく自分のこれまでの
その人生の伴侶として選んだ女性が、幸せだと言ってくれた......こんなに嬉しいことはない。
沙優の寝顔を肴に、俺たちの
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