第20話【転脱】
社内に俺一人分の、PCのキーボードをカタカタと叩く音が聴こえる。
それもそのはず。今日は日曜日。
納期直前の一週間前に急な仕様変更の指示が入り、今週は毎日のように終電まで残って対応に追われた。
どうにか金曜日の段階で90パーセントまで持って来れ、あとは土曜日に全員で出勤・取り掛かれば完成......の場面で俺はチームの皆に休みを命じた。
『ここまで来ておいて水臭いじゃないか吉田』
『そうですよ吉田先輩。リーダー昇格のかかった大仕事の完成を、最後まで見届けさせてくださいよ』
橋本や三島たちの気持ちは有り難い。が、あいつらも連日の激務で疲労がピークに達している。今回の件はここまでの仕様変更を想定していなかった、俺の責任でもある。仕事とはいえ、彼ら彼女らに土日も出ろとは上の立場になる人間としてそれは言いたくなかった。
自分一人が犠牲になればチームの皆が休める......大きなプロジェクトが終わっても、また次の仕事が控えている。
チームのメンバー一人一人の体調管理も、これからは目を光らせなければいけない。まだ正式になってもいないのに、リーダーとは孤独な中間管理職だと、勝手に自嘲的な苦笑を浮かべる。
「よう吉田! 調子はどうだ?」
午後1時を回った辺りだったか、高松リーダーが突然連絡も無しに会社にやってきた。
サラリーマンの休日に似つかわしくない、チェック柄のグレーのスーツに黒のワイシャツが、ちょい悪おやじ感をさらに強調する。その格好でよく警備員に止められずに入ってこれたものだ。
「高松リーダー。何もわざわざ会社にまで来なくても。終わり次第連絡するって言ったじゃないですか」
「たまたま彼女とのデートでこの辺まで遊びに来たんだよ。これ、俺からの差し入れ。どうせまだ昼飯食ってないんだろ」
「ありがとうございます。で、その彼女さんは今どこに?」
牛丼の入ったビニール袋を受け取った俺が何気なく疑問を口にした途端、高松リーダーは唇を固く結んだ。
「......お前、やっぱそれ返せ」
「すいません! 俺としたことが余計なことを!」
奪い返そうとする牛丼を必死に守りながら自分の失礼を詫びた。
どうも疲れているせいか、そこまで注意力が回らなくなっているようだ。
「明美のヤツ、来れなくなったんだったらもっと早めに連絡よこせってんだよ。この日のためにスーツ新着して一時間前から待ってた俺がバカみたいじゃねぇか」
「それは......辛いですね」
「こういうの、最近の若者言葉で言うとぴえんだっけ? とにかくそうなんだよ」
疲れた頭ではまた粗相をしてしまう可能性大なので、ここは無難に返してみた。
高松リーダーは同意を求めるような表情で、机の上に置いたビニール袋の中から牛丼のパックを一つ取り出した。進捗状況の確認と昼飯、それからあわよくば仕事中の後輩に愚痴を聞いてもらいたい、といった主観性の行動がバレバレだ。
「――吉田も、自分を犠牲にして他人の幸せを願うタイプだろ?」
静かな職場で二人。仕事の手を一旦休めて黙々と牛丼をかきこんでいると、橋本の席に座っていた高松リーダーが突然口を開き訊ねた。
「なんですか急に」
「本来なら昨日全員で出勤すりゃ、余裕で明るいうちには終われたはずだ。それをお前は土日を使ってまで一手に引き受けやがって」
「いいんですよ。みんなヘルウィークで完全に疲れ切ってましたし。三島なんかあいつ、帰りの電車の中で立ったまま寝てたらしいですよ」
「それは吉田だって同じじゃねぇか」
牛丼の入った円形のパックの上から、高松リーダーの鋭い視線がこちらを覗く。
「さてはお前......いま彼女と上手くいってないとみた」
「......違いますって」
「ああ変に隠そうとしなくていいから。サラリーマンが好んで残業する奴は、家に帰っても誰も待ってる人間がいないか、もしくは帰りたくない理由があるかの二択だと、昔から相場は決まってんだよ」
ちゃらんぽらんに見えて洞察力の鋭い先輩兼期間限定上司には、俺の擬態は通用しないらしい。伊達にやり手の多いこの会社のリーダーを務めてはいない。
だとしても俺は、沙優との悩みをそこまでプライベートをさらけ出していない人間に相談するのは気が引けた。
「若いっていいよな......俺みたいな40過ぎた初老のおっさんが若い女性に声をかけようものなら、まず相手にもされない。精々パパ活のターゲットが関の山だ」
「俺だってそんな若くないですよ」
「お前、そういうのはちゃんと俺の目を見ながら言え」
鋭い目つきをさらに細め、俺を捉える。
控えめに言っても、高松リーダーは同年代の男性より若々しく見える。
本人曰く『束縛してくる者がいないから』と、いつだったか自虐的に語っていたが、強
《あなが》ちそれは的を射てるのかもしれない。家庭や子供を持ち、自由な時間が少なくなると人は自然と老けて行く――昔に比べて年相応に見えない若い容姿の人間が増えているのは、未婚者が多いからだと思えば合点がいく。
「まぁ、なんだ。仕事だけの付き合いの人間が言うのもアレだが、女ってホント難しいよな。優しくし過ぎると『物足りない・つまらない』。ちょっと冷たくすれば『私のこと嫌いなの?』って、爆弾を扱うようが繊細さが必要でよ」
「凄い例えですね」
「しかも大切なものほど自分の手から零れ落ちようとしちまう。大切にしようとすればするほど、な」
インスタントの味噌汁を割りばしでかき混ぜる高松リーダーの言葉は、どこか俺ではなく自分に言い聞かせるような雰囲気を醸し出していた。
俺より10歳以上年上の彼が、これまでどのような恋愛の歴史を辿って来たのか――たった数分昼飯を一緒にしただけで、その歴史の片鱗をほんの少し垣間見た感じを覚えた。
「仕事に夢中になってるばかりじゃ、何にも解決しないぜ?」
「......わかってますよ」
一度は俺自身の黒く歪んだ欲望と向き合おうとした。だが駄目だった。
それどころか俺はあの夜、繋がることを求めた沙優を拒否してしまった。手をはたいてまで。
以来、沙優との間には微妙な空気感が生まれてしまい、学祭だって高松リーダーの言うとおりにすれば最終日の今日は一緒に回ることができた。なのにそれを避けるように仕事を入れ、現実から目を背けた。
恋人として最低な行動に走ってしまった俺には、もはやどうしていいかわからず、ただ悪戯に時間だけが過ぎていく。
「余計な一言だったかな。まぁ、おっさんの要らぬお節介だったと思って忘れてくれ」
「なんか気を遣わせてしまってすいません」
「そういうところだぞ吉田。大人になると、人との距離感を空気で察してつい衝突を避けちまう。たまには相手に本音でぶつかってみろ。引いてダメなら押せだ」
この人なりに俺は励まそうとしている気持ちは充分に伝わってきたが、その優しさがいまの俺には重く、そして芯にまでは響いてこなかった。
昼食を終え、来てくれたついでに現在の進捗状況を確認してもらう。文句無しとの太鼓判をいただき、高松リーダーは帰っていった。
その後も一人雑念を払うかのように集中し作業を続け、夕方6時頃にはなんとか完成させることができた。
「......なんとか間に合った」
自然と安堵のため息が漏れ、椅子に座ったまま両腕を大きく広げ背筋を伸ばす。
あとは明日の朝一に最終的なチェックを高松リーダーにしてもらい、依頼先のOKを貰えれば、無事に終わりを迎えられる。
体中はバキバキに凝り固まり、目の疲れも酷い。帰る前に少し仮眠を取りたい気分だ。
修羅場を乗り越えられた解放感は睡魔となって俺を襲い、うつらうつらと船を漕ぎ始めたその時――俺のスマホにメッセージの着信が入った。
画面に表示された送信者の名前を見るや、優勢だった睡魔は一瞬にして劣勢へと変わり消滅した――。
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