第18話【助言】

「吉田は今日も残業かい?」


 定時の退社時間を30分ほど過ぎた頃。

 どこかへ行っていた橋本がデスクに戻って来るなり、リーダーデスクでモニターと睨めっこを続ける俺の姿を見て声をかけてきた。


「ああ。お前こそ、定時になっても帰らないなんて、何かあったのか」

「知り合いが明日から育休に入ることになったから。その挨拶にね」

「そうか。用が終わったら早く帰れよ」


 うちの会社は子育てにも大変理解のある会社で、上が積極的に利用していることもあり、下っ端の俺たちも男女問わず気兼ねなく制度を利用できる。

 以前同じサラリーマン務めの同級生たちに聞いた話では、育休に限らず有給ですら上司からもれなく嫌な顔をされるとか。そういうのは俺たちの代で終わらせようとその時は盛り上がったが、すまん。こっちはもう全部先代から終わってた。


「まだプロジェクトは始まったばかりなのに。こんなに早い段階から根詰こんつめてら後半バテるよ」

「そりゃわかってはいるんだが。絶対に失敗できないプロジェクトだと思うと、ついな」


 普段の仕事が失敗していいことではなく、自分の昇進がかかった仕事が大きな仕事となれば、万全に万全を尽くしておいて損はない。

 それこそ入社したばかりの頃は、早く一人前になりたくて毎日のように残業し、後藤さんからよく注意されたものだ。

 その後藤さんはもういなく、その席にはこうして俺が座っている――人生とは本当にどこで何が起きるかわからない。


「......沙優ちゃんと何かあった?」

「んッ」

「図星か」


 顔を歪める俺の反応に橋本の眼鏡の奥が細くなり、口角も上がる。


「そうだよ、悪いか」

「だから家に帰りずらくて、こうして無理しなくていい時期に無理をしていると」

「何一つ間違ってないのが余計にムカつく」

「そりゃ付き合い長いからね」


 話を訊くよと言わんばかりに持っていた通勤鞄をイスの上に置き、俺の元へとやってくる。

 橋本の言う通り、帰ろうと思えば今すぐ帰ることだってできる。

 帰宅の途への足取りが重いのには理由がある。

 それは――最近、沙優を抱いている時によく現れる、あの黒く歪んだ感情だ。 

 自制できていた感情は日に日にその力を弱めていき、先日はシチュエーションもあってか、危うくリミッターが外れかけ呑み込まれそうになってしまった。

 愛する人との交わりがいつの間にか、自分自身との欲望の戦いに変わり、心の底から楽しむことができなくなりつつある深刻さを感じていた。


「......変なこと訊いていいか?」

「何だい?」


 幸い、今この場には俺と橋本以外誰もいない。

 三島は大事な用事があるとかでチャイムが鳴るなり定時退社を決め、他のメンバーも後に続いた。

 神田先輩も帰ったらしい今なら、職場では多少訊きにくい内容もイケるだろう。謎に雰囲気に背中を押され、俺は澄ました顔の橋本に質問をぶつけた。


「......好きな人を、カミさんをめちゃくちゃにしたいって思ったことないか?」

「......めちゃくちゃって?」

「めちゃくちゃはその......めちゃくちゃだよ」


 この期に及んでストレートに言葉に表すことに躊躇ちゅうちょしてしまい、今ほど酒の力を借りたいと思ったことはない。それでも橋本にはなんとなく意味は伝わったらしく、顎を指で触りながら答えた。


「そうだね......思春期成り立ての頃とかはあったかも。ほら、若さゆえの性の暴走ってやつ? 吉田にもあったでしょ?」

「......まぁな」


 俺だって世の健全な男子諸君よろしく、河川敷に捨ててあったエロ本で性に目覚めた男だ。その中には際どいプレイのものもあり、当時好きだった女子をそれに当てはめ想像し、抜いたことだって。

 俺が言いたいのはそういうことじゃない。

 もっと禍々まがまがしい、快楽に頭から足の爪先までどっぷり浸かった、人が野獣に堕ちる感情のことを指していた。


「さては吉田の真の性癖に沙優ちゃんが引いちゃったか」

「バカ野郎! そんなんじゃねえよ......」

「怒って否定されても説得力ないんだけどね」


 先日の拘束プレイ。

 沙優自身は決して嫌がった素振りはなく、むしろ俺同様、いつもと違ったシチュエーションに興奮しているようにさえ見えた。思い出すだけでもスラックスの下のアレがむくむくとこうべを上げる。


「うちの奥さんには思ったことないかな。せっかく僕なんかを貴重な人生のパートナーに選んでくれたんだから、大事にしてあげなきゃ。まぁ全てにおいて大事すれば正解かって言われると、そこはまた話が違ってくるんだけどね」


 哲学じみた話に、夫婦には夫婦だからこその悩みがあるんだなと肌で感じた。


「俺だって沙優のことは大事にしたいと思ってる」

「わかってるよ。吉田が誰よりも沙優ちゃんのことを大事に想い行動してきたのは、二年前から近くで見てきたわけだし」


 俺が保護者として沙優を見守ってきたように、橋本や三島にあさみ、それから後藤さんは俺たちを温かい目で見守ってくれていた。時には助言や手を差し伸べ。

 その感謝を、俺は生涯絶対に忘れない。


「吉田はさらけ出すのが怖いんじゃない? 本当の自分をさ」

「本当の自分、か......」


 的を射た指摘が、心臓の中心に鋭く突き刺さる。

 沙優への本当の気持ちから目を背け続けていた俺にとっては、なんとも苦しく痛い言葉。

 身も心もさらけ出したつもりでも、好きな相手だからこそ知られたくない部分が、どうしてもおもりとなって暗い影を見せる。


「夜の営みについての悩みなら、話が長くなりそうだし、今度お酒でも飲みながらゆっくり訊いてあげるよ。なんならまたうちに来て、奥さんと一緒に相談に乗ってあげようか?」

「それは恥ずかしくて死んじまいそうだからやめてくれ」

「じゃあ久しぶりに居酒屋にしますか」

「個室有りの店で頼む」


 橋本は「了解」と頷き、そこで話は終了。部屋から退室していった。


 一人残った俺は再びモニターに視線を移しながらも、頭の中では橋本に言われた言葉が反芻はんすうし呻く。

 結局は自分でどうするしか手段はないのだ。

 俺と橋本では当然として育ってきた環境も違ければ、相手と結ばれた道程も何もかも違いすぎる。

 改めて、自分の恋が特殊だったことを思い知らされただけだった。


 ふとスマホを手に取り画面をタッチすると、沙優からメッセージが届いていた。


『いまバイト終わって家に帰ってきたよ。吉田さんは帰り、何時くらいになりそう?』


 頻繁にやりとりする、何気ない毎日の報告メッセージ。

 時刻は午後6時45分を回り、社内に人の気配はほぼ感じられない静けさが漂う。あと15分もすれば照明が落とされてしまうだろう。


『吉田はさらけ出すのが怖いんじゃない? 本当の自分をさ』


 橋本の言う通りだ。

 ガタガタ悩んでいても何の解決にもならない。


 処理屋だったら自分のプライベートな問題も解決してみせろ! 男だろうが!


 両の頬を叩いて気合を注入し、沙優へのメッセージの返信を打つ。


『了解! じゃあ急いで豚汁作っておくから、寄り道しないで帰ってきてね♪』


 文面からも沙優の嬉しさが伝わり、頬が緩む。

 今日は10月にしては朝から外は肌寒く、帰りもきっと温かい物が恋しくなるだろう。

 溜まった唾を一口呑み込んでからPCの電源を落とすと、俺は誰もいなくなった部屋を後にした。



         ◇

 ここまで読んでいただきありがとうございます!

 ブクマ・★・レビューなど、いつでも大歓迎です!m(_ _)m


 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る