銀河鉄道の夜のごとき夜

じみな男

第1話 出会い①

「n回目の確率がn-1、n-2回目によって決まる確率漸化式の問題は二次試験ではよく出るぞ。問題で聞かれていることに対して必ず書き出して確認していけよ。そうすることで―」


 生徒の九割が大学へ進学するいわゆる進学校の文系クラス。すでに数ⅠAⅡBは終え、二次試験対策として応用問題を扱っている。


 高校三年の夏。猛暑続きの七月。教室にいる生徒は各々ノートや下敷き、百均の扇風機などで涼しさを得ている。うなだれながら額の汗を拭きつつも、皆ペンはしっかりと板書や先生のコメントをノートに残している。中には机に突っ伏す生徒もいる。

 もみあげを滑り落ちる汗は暑さ故か努力の結晶か。


 教室の端、窓側に座っているこのクラスの学級委員長である円香まどかもペンを走らせていた。カーテンをしていても鳴り響く防犯ブザーのようにやかましい燦々とした太陽光は、円香の左半身に熱を注ぐ。

 

 このカーテンの染料には赤外線を防ぐものが使われていないのかと、授業とは関係の無いことを考えてしまう。無意識に手に力が入りシャープペンの芯が折れる。円香は一つ溜息をつく、すると同時に微かに風が吹きカーテンを揺らす。首元を羽毛でなぞられたようにくすぐったくも気持ちのいい風。


 円香はふと外に目をやるとL字に曲がった校舎の屋上にぼんやりと人影が見えた。日陰にいるせいかシルエットしか見えないがおそらく女の子だと思った。

 

 アニメや漫画とは違い、この高校の屋上は開放されていないはずだがなぜいるのだろうか。

 学校の屋上というロマンある場所で涼んでいるであろう人物に憧憬を抱く。


 屋上のさらに上、快晴の空には三枚重ねのオブラートみたいに半透明な昼の月が見える。


「―誘導に乗ってPn、Pn-1、Pn-2の漸化式が分かれば後は特性方程式を解くだけだ」


 視線を黒板に戻し板書を再開する。この問題に似た類題は解いたことがあるし、確率漸化式の演習はそこそこやっているので多分解ける。だが、板書はしっかりと行う。もちろん円香自身のためでもあるが、それよりも―。



☆☆☆☆☆



 授業が終わり昼休みの時間となった。


「いや、マジで暑すぎんだけど」

「ちょー、扇風機貸して」

「ねー溶けるってえー」

「トイレ行こー」


 暑さにやられた生徒たちはゾンビのようにのそのそと行動を起こす。円香も固まった背中や肩をゆっくりとほぐす。

 

 そして氷の入った冷たい水筒のお茶を飲む。喉から胃にかけてお茶を嚥下したのがはっきりと分かる。


「最悪、寝てるだけでも汗かくんだけど」

「やばいよね」

「冷房つけてほしいわー」


 教科書をカバンにしまい弁当を取り出す。この暑い窓際に居座って食べるのは億劫だが基本ぼっちの円香は、行く宛もないので弁当を開け始める。


「購買行かん?」

「いくいく、ちょっと待ってて」


 一人の女子生徒がスマホを持って円香に駆け寄ってくる。


「ねえ円香。ノート写メらせて」

「……うん、いいよ」


 円香はノートを差し出すと、女子生徒は隣の机の上でパラパラとめくり目的のページを見つける。ノートの真ん中を手のひらでグッグッと押し勝手に閉じないようにする。


「……よし。ほんといつも助かるわ、ありがとね」

「全然だよ」

「円香字キレイで読みやすいんだよねー」


 そう言いながら女子生徒はさっき話してた友達と教室を出ていった。開け放たれたドアの向こうでは幾人もの生徒が談笑しながら廊下を歩いている。

 円香はぺったりと開かれたノートを閉じ鞄にしまう。


 弁当の中身は昨日の晩御飯の残り物と、卵焼き、彩り用にミニトマトやレタスが入っている。ミニトマトのヘタをつまみ口へ運ぶ。

 うつむいたままの顔に少し力が入り、ヘタを取ると同時に汁が飛ぶ。机の上に飛んだ汁は鬱陶しい虫のようにも見えた。デコピンをして汁を散らす。


 円香はたまに分からなくなる。自分の本音が分からなくなってしまうのだ。


 スカートからティッシュを取り出し散った汁を拭く。


 カーテンの隙間から屋上を見上げるとそこにはまだ人影があった。円香は急にあれが本当に人影なのか分からなくなった。ただただ元気な太陽の光が強すぎて、深い陰を作っているだけなのかとも感じた。

 

 それでもあれが人影だとしたら円香と同じぼっちとなる。そう考えるとなぜか円香の心に安心感が生まれた。そしてその後すぐにそんなことを考えているちっぽけな自分が嫌になった。


「よっ、円香」

「高木君」

「お、美味そうな弁当じゃん」


 二年生のときに円香と同じクラスだった高木は、理系クラスに進んだことであまり学校で会わなくなっていた。

 

 それでもここ最近はよく円香に会いに来る。円香にとって友達と言えるのかわからない。何が楽しいのかニコニコしながら高木はオムライスおにぎりを頬張った。


「聞いてくれよ円香、数Ⅲマジでむずいんだわ。積分計算しんどいしよー」

「前も言ってたよ」

「何回も言いたくなんのよホント」


 円香はまた安心感を得た。そして再度自分が嫌になった。

 高木はそんな円香には気づかずに、ご飯を食べながら話し続ける。勉強したくないだの、購買の新商品がいまいちだのと、よくよく口が回る。


「ってか最近思ったんだけどさ、北寄貝ってあるじゃん。あれなんかエロくね?」

「え、どういうこと」

「いやさ回転寿司行った時に食べたんだけど、あの朱色から白にかけてのグラデーション!なんっかエッチだよなあって」

「ふふっ、全然わかんないよ」

「いやいやマジだぜ。実物見たら分かんだけどなあ」


 そう言って高木はポケットからスマホを取り出し調べ始める。円香にとって高木は面白い人という印象だ。友達がほとんどいない円香にとってはこうして話しかけてくれる高木は嬉しい存在だ。

 だがそんな高木のこともたまに分からなくなる。


「これこれ!ほらなんかエロくねーか」


 そう言って高木は円香に横に移動し肩を寄せスマホを見せる。二人の距離は息がかりそうなほど近づく。

 距離が近いことに気づいた円香は思わず足の指に力がはいるが、すぐに足を弛緩させ相手の期待通りに振る舞ってしまう。

 上目遣いで高木を見つめ、にへらと庇護欲を誘う笑顔をつくる。


「んー、ちょっとだけ分かるかも」

「だろ?……なんかやっぱ、円香っていい匂いする。好きだな、この匂い」


 高木は円香の目を真っ直ぐ見つめ、声の大きさとトーンを一段階落とし普段よりも言の葉一つ一つを蝋燭の火を消すかのように丁寧に発する。お互いが至近距離で見つめ合う。はたから見れば恋人同士に見えなくもないが―。


「今日放課後さ、いいか?」

「……うん」

「おし、じゃあまた放課後な!楽しみにしてるよ!」


 おにぎりのラッピングをくしゃりと握りしめ、高木は手を振って去っていく。

 今までの対応はすべてこのための準備に過ぎなかったのではないかと思い、円香は嫌悪感を抱いた。楽しげな笑顔を浮かべ無害感を演出し、最終的には自分の頼みを通す。承諾したのは自分なのに円香は勝手に裏切られた気分になった。

 しかし、どこか嬉しいとも感じる。求めらることへの嬉しさ。

 それを感じてしまう自分にもまた嫌気が差す。


「……いつもこうだなぁ」


 机に突っ伏し、再三開放された窓から屋上を見上げる。屋上の陰に人影はなくなっていた。これにも円香は勝手に落胆してしまう。そもそも自分の見間違いかもしれないのに。

 雲ひとつ無い青空に浮かぶ昼の月。夜になれば一際輝き夜空の主役となる月。太陽が支配する昼でもその存在感は人の目に刻まれる。上品でありつつも強さを見せる昼の月を見た円香は、ふっと視線を机の上に戻した。



☆☆☆☆☆



 帰りのHRが終わり一日の学校生活が終わる。部活に行く人、そそくさと帰る人、その中で円香はまだ帰ることができなかった。高木との約束もあるが、その前に一つ頼まれごとを受けたのだ。


「ごめん円香ちゃん!掃除代わってくれてありがとね!」

「全然、大丈夫だよ。高体連ラストだもんね」

「うんごめんね。今年こそインハイまで行きたいんだ」

「頑張って、応援してる」

「ほんとありがとう円香ちゃん!」


 円香はクラスメイトから教室掃除の代行を頼まれた。今の時期は最後の高体連に向けて運動系の部活の皆は悔いを残さないよう練習に励んでいる。円香のいる学校は大学への進学率も高いが部活動もそこそこ強い部活が多いのだ。まさに文武両道。


「円香ってマジ優しいよな」

「そんなことないと思うけど」

「いや、優しいだろ。俺なら速攻断わんのに。こんくらい自分でやれってんだ」

「……忙しそうだからさ。できる人がやればいいんだよ。私は部活とかやってなくて皆より時間あるから」


 彼ら彼女らは部活をしつつ勉強も欠かさない。退部後は受験勉強に完全にシフトし、その負けん気の強さと努力量で脅威の追い上げを見せ皆大学合格を勝ち取る。


 その忙しさ、日々の密度の濃さと比べれば、円香は掃除くらい代わってもいいと思った。だって皆のほうが時間を無駄にできないじゃないか。掃除の時間、たかが十五分程度ならより暇な自分がやるべきで―、


「そういうの違うと思うけどな」

「え?」


 ちりとりでゴミを集めていた彼はそう言って立ち上がった。


「なんつーか、自分を犠牲にするその感じ。なんか違うと思うけどな」

「……別にしてないと思うけど」

「俺は馬鹿だからわかんねーけど、やりたいならやる。やりたくないならやらない。そこに他の人の事情はあんま関係なくね」


 ゴミ箱にちりとりをこつこつとぶつけながらゴミを落とす。その一瞬なんだか彼の背中がとても大きく見えたような気がした。


「ま、適当に言ってるだけだからわからんけどね」


 そう言って彼はニカッと笑う。

 狐につつまれた気分になったが、彼の言う適当にすこし救われた気がした。


「円香ー、いる?」

「お、高木じゃん。……え、何付き合ってんのお前ら」

「違う違う、単純に用があって来たんだよ」


 教室の戸が開き高木が入ってくる。

 ちょうど掃除は全部終わった。


「んじゃま、終わったし帰ろーぜー。円香、こいつに襲われたらちゃんと叫べよ」

「んなことしねーって」

「ハハ、じゃーなー」

「おう、じゃあな」

「バイバイ」


 掃除担当だった他のクラスメイトも次々と教室を後にしていった。放課後の教室、残るは高木と円香。


「……高木くんの家空いてるの?」

「いや、今日は空いてないんだよね」

「えっ?」

「だからさ、今日はちょっと趣向を変えていこうと思って」


 そういう高木の目は円香には妖しく光っているように見えた。なんとなく自分にとって良くないことが起こるような気がした。


 それでも、多分円香は断れないのだろう。なぜなら円香は―。



☆☆☆☆☆



「ここの空き教室まったく使われてないんだよ」


 円香は高木に付いていき三階の空き教室に辿り着いた。普段は使われることはほとんどなく、ひっそりと屋上へ登る階段前に位置する。校舎の端にあり階段も近いが、屋上に生徒が上がることはないし、この階にはここ以外にも階段が有りあまり近くの階段は使われない。

 この校舎で一番人通りが少ないと言っても過言ではない場所。


「全然人来ないから、ここでしようよ」

「えっ、ここ、で?」

「こういうのも興奮するっしょ」


 そう言って高木は円香の身体を抱きしめようとする。


「ち、ちょっと待って!学校では流石にダメだよ」

「大丈夫だって。声抑えれば問題無いじゃん」

「そういうことじゃなくて」


 手を広げた高木が近づいてくる。どうにかそれから逃れようとするが、後ずさっているうちに壁際へと追い込まれてしまう。


 高木は兎を追い詰めた肉食獣のような眼光で円香の全身を見やる。


「円香だって興奮してるだろ?何回もエッチして知ってるけど、結構Мだしさ。こういうシチュも興奮するでしょ」

「っ!が、学校ではだめっ!そういう場所じゃないから」


 円香はたしかに少し興奮していた。それでもここでエッチしたい訳ではない。

 ここは学校であり倫理的に駄目だ。その一線は越えたくない。一度越えてしまうと、次からはその判断が甘くなる気がして嫌なのだ。


 これが円香の偽らざる本音。

 それでも―。


「いいじゃん。こんなこと”円香にしか頼めないんだよ”」

「っ!」

「一回だけ、今日だけでいいから」


 (あぁ、嫌だな。本当にここではしたくないよ)


 偽らざる本音が流されそうになる。言葉に、他人に。


 (それでも私がこんな意地を張らなければ、高木くんと気持ちよくなって次の日には笑い話になるのかな。私にしか頼めないって、そう、言ってるし。私にしかできないなら、私がやるべきなのかな……)


 少しずつ高木と円香の口が近づいていく。逡巡している間に円香のYシャツのボタンは高木によってすでに外されており、豊満な乳房によって作られる谷間が見えていた。

 高木の興奮はすでに臨界点を突破し、股間部分が盛り上がっている。

 

 マジでキスする一秒前、突然空き教室のドアが開いた。


 高木と円香は二人揃って肩をビクつかせ乱入者に視線を向ける。


「―ん?」

 

 一人と二人、お互い目が合う。乱入者は渋い顔をして口を開く。


「何やってんのあんたら。普通にキモいんだけど」


 おしゃれに着崩した制服、胸元まで伸ばした桃色のインナーカラーが入った歪み一つ無い絹のような髪。零度の視線を送る女子生徒はさらに追い打ちをかける。


「マジきしょ。興奮してんじゃねーよ粗チン」



 月が似合いそうな女の子だなあ。―円香はなぜだかそんなことを思った。















 



















  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

銀河鉄道の夜のごとき夜 じみな男 @botto_zimina

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ