ゆるし色の空

鳥尾巻

道行き

 夕暮れ時、彼はその場所に座って空を眺めていた。

 

 年の頃は30を超えたばかりか。高級なグレーのスーツに包まれた姿勢の良い広い背中。艶のある黒髪を綺麗にサイドに流して、面長の顔の中の僅かな憂いを帯びた切れ長の瞳は、紺色に染まり始める秋の空と遠くに沈む夕陽を見つめている。


 急ぎ足で歩く人々とは違う時間が流れているような、そこだけ切り離された非現実的な空気をまとっている。

 そんな浮世離れした男性が公園のベンチに座って、形の良い唇から悩まし気な溜息を吐きながら空を眺めている。

 道行く女性がチラチラとその姿を盗み見ているが、気に留める様子もない。


 今野こんの弥生やよいは職場に近いその公園を通って帰るのが日課だった。弥生は今年26歳になるが、小柄な体と黒目がちな大きな瞳、肩までの栗色の髪を無造作に括り、化粧気もないその顔は、まだ大学生と言っても通用しそうな童顔だった。


 2歳の息子・櫻輔おうすけが待っている。父親の名前を一文字貰って名付けた。春生まれの元気な男の子。

 保育園に預けて少しは手を離れて働けるようになったとはいえ、まだまだ母親が恋しい年ごろだ。

 父親はいない。別れてから妊娠に気づいて、それでも独りで産もうと決めた。2人だけの生活は厳しいが、櫻輔の素直さと笑顔に支えられて頑張ってきた。


 近道できるその公園を横切ろうとすると、ベンチに座っていた男性と目が合った。弥生は一瞬戸惑ったが、微かに会釈して通り過ぎようとした。


「あの」


 男性に声を掛けられて、立ち止まる。明らかに自分に向けた少し掠れた低い声音に心臓が嫌な音を立てる。


「……なにか?」


「少し時間を貰えないか?」


「急いでいますので」


 弥生は素っ気なく答えて、肩から提げた鞄の紐を掛け直した。そのまま歩き出そうとする弥生に、慌てたように男が立ち上がる。立つとその上背の高さを見上げる形になり、弥生は無意識に後退った。


「5分、いや、3分でいい」


「しつこくするなら警察呼びますよ」


 弥生は携帯電話を取り出しながら、男から距離を取ろうとした。女性には不自由していなさそうな容姿の男が、しつこく食い下がる理由。そんなものは知りたくなかった。


 弥生は顔を強張らせ、指先が白くなるほど鞄の紐を固く握り締めた。緊張か怯えの為か、その体は微かに震えている。男は一歩ずつ慎重に距離を詰めながら、なだめるように声を掛ける。


「久しぶり」


「どなたかとお間違えじゃありませんか?あなたとは今日初めて会った赤の他人です」


 絶句する男の視線を振り切るように、弥生は顔を背け、歩き出した。濃いオレンジに染まる街並みに紺色の夜が滲む。


「ゆるしてくれ」


 追いすがる彼の声も、滲んで揺れていた。


 あの目を見てはいけない。あの声を聞いてはいけない。置いてきた過去に囚われてしまう。

 どんなに気安く振舞っても名家の長男と使用人の娘。時代錯誤も甚だしいが、越えられない身分の壁は確かにあった。


 ゆるされないと分かっていた、一夜の過ち。ゆるしなど必要ない。出逢ったその日からずっと彼の幸せだけを願い続けてきたのだから。

 彼の血を引く子どもを身籠ったことが分かれば、取り上げられてしまうかもしれない。


 だから黙って姿を消した。


 それに釣り合うわけがない。どうか私のいないところで美しい婚約者様と幸せになって……なんて、そんな綺麗ごと……。


 弥生の足取りは少しずつ重くなり、やがて完全に歩みを止め、立ち止まる。

 彼女は大きく息を吸い込んで男を振り返った。


「あなたなんて知らない」


「弥生……」


「あなたの知る弥生は死にました」


「弥生」


「生まれ変わった弥生の人生にあなたは必要ありません」


 宵闇の涼しい風。嘘に冷える心が手指の先まで震わせる。


「……それじゃあ、どうして泣いてるの?」


「泣いてるのは死んだ弥生の亡霊です」


「取り憑かれてるんだ」


 男はどこか安堵したように息をついて、弥生の頬に手を伸ばした。振り払わなくてはと思いつつ、その手の平の温もりがじわりと肌に染みる。もうそれだけで動けない。

 ずっと待っていたなんて言うのは悔しくて、弥生はふいと顔を背けた。


「死んでもゆるさないそうです」


「熱烈だな」


「おめでたい頭」


「子どものことは知ってる。家は捨ててきた」


 唐突な彼の言葉は風に舞う木の葉よりも軽く耳元を掠めたが、その重みはずしりと胸に響く。

 名家の長の座を。蹴り飛ばして来たと。


 そんなこと望みはしなかった。蹴り飛ばしたいのは弥生の方だ。大人しげな見た目を裏切る直情。昂る気持ちのまま、行動に移した。


「ばかね。本当におめでたいお坊ちゃま」


「無一文の僕は嫌い?」


 向こう脛を押さえてうずくまった男が情けなく眉尻を下げる。白々しい、と弥生は思った。

 昔からそうだ。自分の仕草が彼女にどんな影響を及ぼすか分かってやっているのだ。


 白々しい。そう思ったけれど。その影響に抗えないのも事実だ。嫌えるものならとっくに嫌っている。


「仕方がないから一生呪ってあげますよ、櫻士おうしさん」


 胸に飛び込んだ弥生を両手を広げて抱きとめる。ようやく名を呼ばれた男は、端整な顔を泣きそうに歪め破顔した。


「遅くなってごめん」

 

 焼け落ちたオレンジの夕陽に混じるゆるし色。ゆるやかに降りた夜のとばりが彼らを柔らかく包みこんでいた。



◇◇◇◇◇


紅花で染められた濃い色は高価なもので、皇族や身分の高い人にしか使用を許されない「禁色きんじき」でした。その中で誰でも着用が許されたのが「聴色」です。

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