かつてのきみは

三鹿ショート

かつてのきみは

 私は、彼女を愛していた。

 だが、今の彼女は、私が愛していた彼女ではない。

 踏ん反り返って使用人たちに命令し、わずかな失敗も許すことなく、昼間から飲んでいた酒の残りを相手の頭部に打っ掛けることは、珍しいことではない。

 給料は良いが、彼女の態度に耐えることができずにこの家を去って行った人間の数は、私にも分からなかった。

 かつての彼女は、これほどまでに横柄な人間ではなかったはずである。

 毎日の食事にも困るほどに貧しかったにも関わらず、常に笑顔を忘れることなく、何時の日か幸福な生活を得るために、日々の努力を惜しまなかった。

 彼女が支えてくれたからこそ、現在のような生活が可能と化したことは事実だった。

 しかし、彼女のあまりの変化を見ていると、今の姿こそ、彼女が私に隠していた本当の姿だったのではないかと考えてしまう。

 だが、私は彼女を責められるような立場ではない。

 彼女が毎日のように励まし、慰めてくれていたからこそ、私がこの生活を得ることができたことは間違いないないために、いわば彼女は恩人のような存在なのである。

 そのような相手を追い出すことは、出来るわけがない。

 しかし、彼女に対する愛情が冷めていることもまた、否定することはできなかった。


***


 自宅で過ごすことに抵抗を覚えるようになったために、私は見知らぬ土地を散策することが日課となっていた。

 気まぐれに立ち寄ったその飲食店で、私はその女性と出会った。

 女性以外に従業員は存在していないのか、女性は一人で忙しなく店内を行き来している。

 明らかに一人で行う仕事量だと思うことはできなかったが、それでも女性の表情が曇ることはなく、実に生き生きとしていた。

 やがて客が私だけとなった頃、私は女性に一人だと大変ではないかと問うた。

 その問いに対して、女性は笑みを崩すことなく、首を横に振った。

 いわく、元々は女性の父親が営業していた店だったらしいが、その父親が病気で倒れてからは、娘である女性が一人で切り盛りしているということだった。

 多忙ではないと言えば虚言であるが、自分の作った料理で人々が満足そうな表情を浮かべているところを見ることが、何よりの幸福だと女性は語った。

 その姿に、私はかつての彼女を見たような気がした。

 めげることなく、一所懸命に働くその姿に、私は魅力を感じたのである。

 ゆえに、その日以来、私はこの店の常客と化した。

 女性は私の姿を見るたびに名前を呼んでくれるようになり、閉店間際には共に酒を飲むこともあった。

 私が己の金銭的な事情を話すことはなかったが、女性は好意的な態度を見せてくれるようになり、やがて我々は、一線を越えた。

 何時しか私も女性の店を手伝うようになり、他の客からは、夫婦だと勘違いされるようになった。

 私と女性は共に否定していたが、悪い気はしなかった。


***


 常のように店へと向かった私は、自分の目を疑った。

 私の妻である彼女が、店主である女性と笑顔で会話をしていたのである。

 彼女は自分が妻であるということを伝えていないのか、二人は睦まじい様子で話している。

 だが、私は気が気でなかった。

 女性が私に恋人のような態度を見せるたびに、彼女が浮かべた笑顔を恐ろしく感じた。

 その日は、私は女性の店を手伝うことなく、彼女と共に自宅へと戻った。

 当然と言うべきか、彼女は私のことを責めた。

「これまであなたを支えてきた私を裏切るとは、どういう了見ですか。私が納得することができるような言い訳があるのならば、聞きましょう」

 そう告げられたために、私は正直に語ることにした。

 かつての彼女と比べると、そのあまりの変貌ぶりに愛情が冷めてしまったために、他の女性に逃げたのだと伝えた。

 彼女は目を見開くと、私の頬を平手で打った。

 突然の行為に驚いていると、彼女は涙を流していた。

「確かに、生活に余裕が出来たことで、私の態度が過去とは異なったことは認めましょう。ですが、あなたに対する私の愛情までもが変わってしまったわけではありません。私は、今でも変わらずにあなたを愛しているのです」

 真剣な眼差しでそのような言葉を吐いた彼女を見て、私は己の愚かさを思い知った。

 私は彼女と共に老いることを望んだために、夫婦と化したのではなかったのか。

 彼女の変貌ぶりに辟易したとはいえ、彼女を愛していたことには間違いが無かったはずだ。

 私は、そのことを忘れていた。

 私が彼女の横柄な態度を嫌悪していたように、彼女に対する愛情を勝手に失い、他の女性と愛を育んだ私もまた、責められるべき人間なのではないか。

 涙を流している彼女を、私は抱きしめた。

 彼女の涙が止まるまで、私は謝罪の言葉を吐き続けた。

 翌日から、私は女性と会うことを止め、彼女との時間を大事にするようにした。

 彼女もまた、以前と比べると、その性格が軟化したように見えた。

 紆余曲折はあったものの、結果的に、我々はかつての姿を取り戻したような気がした。

 現在が変化したとはいえ、過去が無かったことになるわけではない。

 だからこそ、私は彼女と向き合い続けるべきなのだ。


***


「幾ら会うことを止めたとはいえ、念には念を入れる必要があるのです」

「ですが、本当に良いのですか。相手は一時的とはいえ、愛された女性なのですよ。このことを知ったら、今度こそ去ってしまうのでは」

「何を言っているのです。これは不幸な事故なのです。火の不始末とは、飲食店を営んでいる人間として、恥ずべき行為です。他人の夫に手を出した人間に対する報復ではなく、これは自らの失態が招いた事故なのです」

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かつてのきみは 三鹿ショート @mijikashort

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