最終話 その、二人の運命は……(後)1/1








 思い出したように、仁川が祥太郎に聞いた。


「それはそうと、木下は今、何をしているんだ?」

「俺か? 今は知り合いの法律事務所で、手伝いみたいなことをしてるよ。次の司法試験を受けて、受かったら弁護士に登録するつもりさ」

「へえ、さすがだな!」


 祥太郎も問い返した。


「そういうお前らは、今はどうしてるんだ?」


「俺は、この東京に、小さいが食料品を取り扱う会社を建てたんだ。少しずつ大きくなってるんだぜ」と田原。

「俺は東京帝大……じゃない、東大に戻って、哲学科の教員になることにしたよ。どうやら、公職追放には引っかからずに、やりすごせそうだしな」と仁川。

「俺は親父の商事会社を継ぐことにしたよ。まあ、財閥解体のあおりで苦しいけど、これからさ」と鴨井。


 それぞれ己の道を進んでいることを共有して、感慨にふける四人。


 ややあって、祥太郎が口を開いた。


「それで……今日は皆、新聞を見て来たんだろ? 今日が、一高最後の卒業式だからって……」


 鴨井がうなずいた。


「ああ、そうだ。もしかしたら木下が来るかもと思って、誘い合わせてきたんだよ」

「そっか……」

  

 祥太郎たちは、改めて、正門のほうに眼をやった。門札が不在の門柱は、やはりなんとなく締まらない感じがしてならなかった。


 敗戦を経て、日本は勝者にアメリカナイズされてきた。日本の悪しき旧弊の幾らかがこれを機に払拭された一方で、惜しむべきものすら失わざるを得ないのが、敗戦国日本の現状であった。


 仁川が、寂しげに言った。 


「門札、外されちまったな……」


 鴨井も、門柱から眼を逸らすようにして言った。


「なんだか、あらためて今……俺たちは、戦争に負けたんだって思ったよ……」


 門札は、まだ泣き止まない一高卒業生たちの人いきれの中心にあった。それはさながら、古き良き時代のレリック聖遺物だった。


 ふと、祥太郎がぽつりと言った。


「サシャのやつ、今頃どうしているのかな……」


 仁川が聞き返した。


「え? 何だって?」

「さっき、仁川が言ってただろ? 一高時代の、あの事件のこと……」

「ああ。サシャか……忘れるもんか。懐かしいな……」


 鴨井が祥太郎に問うた。


「木下も、サシャがどうなったかは知らないのか?」

「ああ。あれっきり、俺も知らない……」


 しばらく、沈黙が流れた。その沈黙を明るく破るように、田原が口を開いた。


「ったく、サシャの奴ったら、大したもんだったよな。いきなり文乙にやってきたかと思えば、終始ふてくされててよ。俺は見るに見かねて……」


 そこへ仁川が突っ込んだ。


「サシャに決闘を申し込んで、負けたんだよな?」

「ああ。あのとき、俺は世界の広さを知った……」


 四人は笑った。


「でも、なんだかんだで、サシャも文乙の表舞台に立ってたよな?」

「ああ。山崎教官ゾルに対抗して軍事教練をやったり……」

「紀年祭でメイドをしてなかったか?」

「そういえばそうだったな! あれは綺麗だった」


 田原が、そういえば、と声を上げた。


「……サシャの奴、酒を飲んだら人が変わったよな?」


 それを聞いた祥太郎が、ひとしきり笑い、応えた。


「あれは……多分、サシャなりの人付き合いの一環だったんじゃないかな……? 今思うと、だけどな」

「ま、そうかもな」

「精華高女の五月祭じゃあ、ウエディングドレスまで着てたよな。あれも、本当に綺麗だった……」

「軽井沢でも一緒に遊んで……」

「秋になったら、俺たちのドイツ語も指導してくれてたよな」


 その甲斐あってか、祥太郎たち文乙クラスは、その年度の東京帝大合格者数が、例年よりも数割増しだった。サシャが行方不明になり、ついに卒業に至らなかったことを気にかけていた中澤教授と林校長がことのほか喜んだのは、言うまでもない。


「結局、木下がご学友として、何くれとなく陰で頑張っていたおかげで、サシャも一高に溶け込んでいったんだと思うぜ?」

「だとすれば……感無量だよ。俺としては……」


 祥太郎が続ける。


「でも……サシャ……だけじゃなかったよな。留学生は……」


「ああ。フランツの奴がいたな」と田原。

「そうだな。あいつ、サシャとは正反対だったもんな。俺たちが三年に上がったタイミングだったよな、彗星のようにやってきて……」と仁川。

「楽しいこともいろいろあったけど、最期は……」と鴨井。


 皆がいっとき、静かになった。少しして、田原がつぶやくように言った。


「フランツは、本当に残念だった……」


 祥太郎も口を開いた。


「あいつのおかげで、俺たちは生き延びられたんだしな」


 鴨井が、その後を引き継ぐように言った。


「サシャも、無事ならいいな」


 しんみりとなった空気を変えようとするかのように、また田原が言った。


「でも、やっぱりびっくりだったよな。あのサシャが、本当に女だったなんて……」


 仁川も口を開いた。


「結局、俺たちはサシャのことを、知っているようで何も知らなかったんだよな……」


 祥太郎は思った……サシャの病床での告白を、俺は誰にも話していない。あれほど数奇な運命を生きた少女は、およそ他にはいないだろう。


 田原たちも、祥太郎が、サシャとの面会の折に多くを知らされたことは分かっていたであろうが、それを祥太郎に追及してくることはなかった。


 ……あの傷がもとで、死んでしまったのではないか。NKVDか、ナチスの残党の手にかかって、殺されてしまったのではないか。祥太郎は、そんなことばかり考えてしまうこともあった。


 再会は、望めるのだろうか。あれから、もう十年近く経とうとしている。せめて、この広い世界のどこかで、その生存を願うことしかできないのだろうか……祥太郎は、そう思った。


 祥太郎は、自分でも期せずして、自然と口を開いていた。


「俺はな、サシャのことが好きだったんだ」


 田原と仁川と鴨井が、祥太郎を見た。


 田原が聞き返した。


「それは、友達としてではなく、異性としてってことか?」

「ああ。やっぱり俺は、知らないうちにサシャに惹かれていたみたいなんだ」

「どうして、そう思うんだ?」


 祥太郎はしばらく考えていたが、やがてぽつりと言った。


「……ずっと一緒にいたかったからだ。それだけだ」


 仁川が、穏やかに聞いた。


「それを、お前自身の優しさと混同しちゃいないだろうな?」

「…………俺は、ご学友失格だったみたいだ。今思えば、俺はご学友であることをいいことに、サシャを独りじめして有頂天になってたからな」

「なんだよ、そうだったのか」


 田原と仁川と鴨井は、声を合わせて笑った。


 しばらくたって、鴨井が聞いた。


「今も、好きなのか?」

「女々しいと言われるかもしれないが、俺は、サシャにもう一度会いたいと思って、今日まで生きてきたんだよ。そう思っていたから、俺は、あの沖縄でも戦い抜くことができたんだ。だからこの気持ちは……やっぱり嘘じゃないんだ」


 仁川が祥太郎に問うた。


「じゃあ、木下は、今ほかにいい人はいないんだな?」

「そんなもの、持ちようがなかったよ。戦時中はそれどころじゃなかったし、敗戦後も復員には時間がかかったし、東京に戻ったら実家は焼けてたし……何とか日々の生活を立て直すのに精いっぱいだったんだ」


 それを聞いた鴨井が、少し安心したように言った。


「そうか……」


 祥太郎は、胸ポケットから、あの五月祭の写真を取り出した。そこには、緊張しきりの表情でモーニングを着ている祥太郎と、ウエディングドレス姿で満ち足りた表情で笑っているサシャがいた。


「だから、今日も、もしかしたらここでサシャとも再会できればと思って……」


 写真をしまって、人ごみに眼を向けなおした祥太郎が、言葉を切った。


 何ごとかと、田原たちは祥太郎の見ている先を眼で追った。


 そこには、金色に輝く長髪の、碧眼の若い女が……祥太郎を見ていた。その女は、米軍の下士官の制服を着て、立ち尽くしていた。


「何だよ木下、いい人なんかいないって言ってたくせに、占領軍にあんな美人の知り合いがいたのか?」


 からかい半分の仁川の声を、祥太郎は聞いていなかった。


 ただ、その下士官の女の顔を、祥太郎は食い入るように見つめていた。


「……サシャ?」


 下士官の女が、電流にうたれたような顔をした。その双眸から、やがて大粒の涙があふれ出した。


 次の瞬間、女はものも言わずに、祥太郎の胸に飛び込んできた。


 祥太郎はもちろん、そばにいた田原たちも、飛び上がらんばかりに驚いた。


「やっと会えた……! ああ、祥太郎、祥太郎……!」

「サシャか? 本当にサシャなのか?」

「うん、わた……僕だよ!」


 その女は……サシャは、すっかり大人びて……大人の女の顔と声とスタイルになっていた。だがその面影は……まぎれもなく、あのサシャ・フランベルグだった。


「サシャ……その……なんだ……元気、だったか?」

「僕は……元気だよ。祥太郎は?」

「俺もさ。左足がちょっと……だけどな」


 祥太郎は、サシャの目の前で、少しだけ歩いてみせた。その左足の動きのぎこちなさに、サシャは表情を凍らせ、ややあって祥太郎に問うた。


「祥太郎……まさか……本当に陸軍予備士官学校に行って、将校になったのか?」

「ああ。そして、沖縄で終戦を迎えた」

「沖縄で……」

「そう。沖縄の戦闘で大怪我しちまったんだ。俺……」


 それを聞いたサシャが、また泣き出してしまった。


「そんな……ああ、こんなことになってしまうなんて……!」

「泣くなよ。足が……命がなくなったわけじゃないんだしさ」

「僕は……僕は、祥太郎のために、何もできなかった……残せなかった……!」

「どうして、そんなことを言うんだよ……?」

「だって……防共協定にしても、祥太郎の言った通り、結局は何の意味もなさなかったじゃないか……!」


 祥太郎は首を横に振りながら、サシャに力強く言った。


「サシャのおかげで、俺はつらいときでも気をしっかり持って、生き延びることができたんだ」


 そう言って、祥太郎は、背広の胸ポケットから、一葉の写真を取り出した。


 それを見たサシャは涙を拭い、嬉しそうに、はにかむようにしながら、自分もロケットペンダントを豊かな胸元から引き出して、中の写真を開いた。


「……僕も」


 それぞれ、かすかに硝煙の匂いが残る同じ写真を心の支えにしながら、あの地獄のような時代を生き延びたという事実を共有した祥太郎とサシャは、互いに微笑み合った。


「サシャ……あの後、いったいどこに行って何をしていたんだ?」

「僕は……佐川と二人で、上海に渡っていたんだ」


 祥太郎は、なるほどとばかりにうなずいた。


「上海か……!」

「そこで、上海憲兵隊の密偵になって、仕事をしていたんだ」

「そうだったのか……いや、しかしよく考えたな……!」

「肌の白い僕の居場所とできることといえば、それくらいだったから……」

「……終戦の後は、どうしてたんだ?」

「とにかく、佐川と日本本土に引き揚げることにした。ドイツは二つに分かれてしまったし……僕を待ってくれる人もいなかったから。日本には……祥太郎がいる……だろうと思ったしね」

「…………」

「……かなり手間取って、戻れたのは昭和二十一年になってからだったけどね。それからは、英語をにわか仕込みで勉強して、身分を偽って、米占領軍司令部G H Qの通訳として働いてるんだ」


 またしても、祥太郎は感心した……確かに、まさかこの若い女が、かつてナチの親衛隊将校だったということは分からないだろう。


 サシャは、眼を伏せて、冷ややかそうに言った。


「僕は、自分を偽るのは得意だからさ」

「サシャ……そんなこと言うなよ。仮にそうだとして、そのおかげでサシャは今日まで生きてこられて、こうして俺と再会できたんじゃないか?」


 それを聞いたサシャは、ものも言わず微笑んだ。そして、ふと思い直したように祥太郎に問うた。

 

「そういえば、妹の道子さんは……ご家族は無事だったの?」

「ああ。道子も、父さんも母さんも、焼け出されたけど無事だ」

「良かった……!」

「そっちも、佐川さんは元気なのか?」

「うん。戦犯指定もしぶとく免れて、市内……じゃなかった、都内で元気にしてるよ」

「そっか。これでよかったんだよ。俺もサシャも、皆も生きてる。見ろよ、あいつらもピンピンしてるぞ」


 そう言いながら祥太郎が示した先では、田原と仁川と鴨井が笑っていた。


 サシャが微笑みながら手を振り返すと、途端に三人は顔を赤くして眼を逸らした。……すっかり女になったサシャの色気を、三人は直視できないらしかった。


「でも本当に、祥太郎が靖国神社にいなくてよかった……!」

「ドイツが無条件降伏したと聞いたときは、俺もサシャのことがいっそう心配になってしょうがなかったよ……」

「ドイツ、か……」


 サシャは、またも顔を伏せるようにして続けた。


「ナチスは、僕にとっては福音であったと同時に……枷だったよ。そして、歴史に裁かれて消えてしまった……」

「そうだな……。……安藤大尉の言ったとおりだったな」

「ああ。本当にその通りだったよ」


そこまで言って、サシャは、また涙を零した。


「でも……遅くなったけど、再会できるなんて、夢みたい……!」

「まさか……サシャも、新聞で一高最後の卒業式のことを知って、今日ここに来たのか?」

「うん。……僕は、日本に戻ってから、ずっと祥太郎のことを探してたんだ。けど、復員省に問い合わせても、縁者でない関係者からの照会には応じてもらえなかったし、四谷のご実家も焼けてなくなっていたし……」

「…………」

「そんなとき、一高が今日、最後の卒業式をするっていう話を聞いて……もしかしたら……もし祥太郎が生きてたら、多分ここに来てるんじゃないかって、思ったんだ……」

「そうだったのか……!」

「だから……ああ! 今日、ここに来て本当に良かった……!」

「俺も嬉しいよ、サシャ……!」


 すると、サシャが、上目遣いに、どもるようにしながら口を開いた。その顔は、ひどく赤かった。


「その、祥太郎……婚約者……とか、恋人……とか、できてたり……する? もしくは……奥さん……とか……」

「ああ、いるよ」

 

 サシャが、絶望の淵に突き落とされたような顔をした。


「今、僕の目の前にね」

「もう……バカ!」


 祥太郎は、改めてサシャに向き直った。


「サシャ、俺も……俺は、君が好きだ。それを伝えたくて、俺は今日まで生きてきたんだ」


 それを聞いたサシャは、新たな涙を溢れさせながら言った。


「ああ……僕は……祥太郎を好きでいて、良かったんだね……?」

「うん。これだけのことを伝えるのに……十年近くもかかっちまった。済まない、サシャ」

「僕は……生まれてきて、生きてきて、本当に良かったよ……!」


 二人は、抱きしめ合った。


 祥太郎に抱きしめられたサシャは、グスタフ・クリムトのとある絵の女のように、心の底から満ち足りた顔をしていた。


「……ああくそっ! 今日はなんていい日なんだ!」


 感極まったのか、涙の止まらない様子の田原が、同じく目元を潤ませている仁川と鴨井に抱き着いた。


「うわ、よせよバンカラ野郎、気持ち悪い!」と仁川。

「気持ちはわかるが苦しい、放してくれ!」と鴨井。


 ややあって、田原は豪快に目元を背広の袖で拭った後、声を張り上げた。


「よおし! 合唱だ、『嗚呼玉杯』いくぞ! さん、し!」





  嗚呼玉杯に 花うけて   

 

  緑酒に月の 影やどし





 祥太郎たち五人は、肩を組みながら、大声で歌った。その中心には、祥太郎とサシャがいた。


 突如として始まった『嗚呼玉杯』に、周囲の在校生や卒業生たちが振り向いた。





  治安の夢に 耽りたる    

  

  榮華の巷  低く見て





 一人、また一人と、合唱の輪が広がっていく。


 外されたばかりの門札が、凱歌に翻る旗のように、空に突き上げられた。それをフィルムに収めんと、マスコミの記者たちが、先を争ってシャッターを切った。

 

 門の周りは、いまや大合唱の渦の中にあった。






  向ヶ岡に  そゝりたつ   

 

  五寮の健兒 意氣高し






 互いの不在と不幸な戦争とで隔絶された空白の十余年が、あっという間に埋まっていくのを、祥太郎とサシャは、肩と肩とで伝わってくる互いのぬくもりとともに感じていた。歌いながら微笑み合う二人の顔には、嬉し涙と、溢れんばかりの希望が浮かんでいた。


 一高の時計台は……戦中戦後と若き一高生たちを見守り、育んできた時計台は、春の陽と、そして一高生たちの歌声を一身に受けていた。


 そして、一高生たちの合唱が終わるまで、何も言わず、ただ優しく未来へ向けて時を刻みながら、見下ろしていた。















  向ヶ岡に  そゝりたつ   

 

  五寮の健兒 意氣高し








     <完>



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冴えない俺が、留学してきたドイツ人美少年のご学友にされてしまった件 鮎川 雅 @masa-miyabi

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