第16話 その、突然の別れは……(後)2/3
祥太郎は、表情が硬くならないようにしつつも、サシャから眼を逸らすようにして言った。
「うん……医者から聞いたよ」
サシャは、ゆっくりと上体を起こした。そして、病衣の胸を、はだけさせた。その両手は、小さく震えていた。
「サシャ、もういい。やめろ……」
「祥太郎……君には見て欲しい。目を逸らさないでくれ……」
ガラス窓から差し込む午後の陽光に白く眩しく輝いている、控えめな少女の胸が、そこにあった。
率直に、綺麗だ……と祥太郎は思った。
やがてサシャは、はだけた病衣を元に戻した。
「祥太郎…………思ったほど、驚いてはいないな?」
「その……前々から、薄々感じてはいたんだ」
「どういうところで?」
「俺は、サシャの友だちなのに、一緒に立ちションしたこともなければ、一緒に風呂に入ったこともない」
「……」
「それに……サシャが留学してきた日のことを思い出してみろよ。俺たち文乙は、最初、サシャが少女だと思っていたんだ。だから……男だと聞いて、がっかりしてたんだ。それほど、サシャは中性的……というより、綺麗なんだ。サシャは……女であるほうが、しっくりくる存在だ。俺の妹の道子だって、サシャのことを女だと思い込んでたくらいだった」
「…………」
サシャはうつむいてしまった。
「そういえば……フランツが、結婚がどうとか話してたな。あれは、もしかしてサシャとの結婚のことだったのか?」
「ああ……そうだ。一高での留学が終わってドイツに帰ったら、僕とフランツは結婚するつもりだった」
「そっか……。じゃあサシャは、フランツのことが好きだったんだな?」
サシャは首を大きく横に振った。
「違う」
「え……?」
「……死人に……フランツには申し訳ないが、僕はフランツを愛していたわけじゃない」
「じゃあ、どうして結婚の話が……?」
「たんに……家柄の存続のために、ある程度仕組まれた結婚だったんだ」
「仕組まれた……? それって、どういう……」
「フランベルグ家が、正真正銘の貴族を迎え入れるためさ」
「……正真正銘の……?」
サシャは天井を仰ぎ見ながら、吐き出すように言った。
「僕の嘘はまだある。僕は、フランツと違って、貴族なんかじゃない」
「ええっ?」
「僕は……僕は、本当は……」
サシャは、辛そうに手元を見た。
祥太郎は、ゆっくりと口を開いた。
「……そもそも、どうしてサシャは、男のふりをして一高に来たんだ?」
「僕は、父と同じ、ナチス親衛隊の少尉だ」
祥太郎は息を飲んだ……そうだったのか。だから二二六事件のとき、親衛隊の制服を着こなしていたのか。
「でも……親衛隊の将校……だって? ドイツの学生じゃなかったのか……?」
「ああ……」
「サシャっていうのも……偽名なのか?」
「それは、本名だ。昔から、よく男なのか女なのか分からないって言われてた。小さい頃は、それでいじめられたりもした」
「…………」
サシャは、次の句を告げるのも辛そうにしていたが、ややあって、意を決したように話し始めた。
「僕は、ベルリン郊外の貧しい農家の子どもとして生まれた。欧州大戦の終わりごろだ。敗戦国のドイツは貧しかった。むろん、僕の家もそうだった。産んだはいいものの、育てることができなかった父母は、僕を教会の孤児院に預けた」
「……」
「祥太郎は、裕福な家庭に育ったと思うよ。孤児院のことなんか、僕は思い出したくもない。貧しい環境に、捨てられて荒んだ子どもたちが集められたら、どうなると思う? ……弱肉強食だよ。友だちなんか、できなかった。できたことといえば、誰よりも早く読み書きを覚えたくらいだ」
「…………」
「父は……ノルベルト・フランベルグは、僕の実父じゃない。義父なんだ。義父は、子に恵まれなかった。そこで孤児院に来て、読み書きもしっかりできる優秀な子供を探した。……そして、実父母の血統も調査されたうえで、純粋アーリア人種Ⅰの認定を受けた、僕が選ばれた……。他に、選択肢はなかったらしい……」
「……………………」
サシャは、訥々と語り続けた。
「僕はそれから、男として育てられた。そうすれば、少なくとも僕の代までは、フランベルグ家は男の領主を擁する、れっきとした貴族の家であるということができるからね……。そして短い期間だったが、僕はヒトラーユーゲントとナポラにも入った。そして、貴族の子ということで、親衛隊にも入ることができた。軍事訓練と日本語教育は、親衛隊で受けた」
「…………」
「そして去年、僕は義父とともに日本に来た。日本で独日防共協定の締結のために動くことになった義父の補佐が第一目的だった。その便宜上、僕は特別に親衛隊の将校……少尉に任官されたんだ」
「そうか……サシャとお父さんは、防共協定に関わってたんだな……」
「ああ。我がドイツだけじゃなく、日本の平和の為にと思って、僕は関わっていた」
「フランツも、それを知っていた……?」
「ああ、もちろん」
「……そうか、あのとき……防共協定が新聞報道された日にフランツが怒ってたのは、俺が不用意なことを言ってしまったからなんだな……。くそっ、俺はよくもあんな偉そうなことを……」
「……祥太郎は悪くない。僕が僕の意志で勝手に思ってやっていたことだ」
サシャの言葉に、祥太郎は救われたように思いつつ、サシャに改めて問うた。
「それで……一高に来たのは、どうして?」
「日本のエリートスクールの学生の意識を調査して、同時に彼らに親独の気運を醸成させることが目的だった。我がドイツは、あまりにも日本のことを知らなさ過ぎたから。……でも、これについては、我ながらうまくできなかったと思うけどね。フランツの方が、何倍も長けていたよ……」
「…………」
「義父の目論見どおり、男として育てられてきた僕が、正真正銘の貴族に婿入りしてもらうことで、僕はやっと本来の姿に戻れるはずだった……フランベルグ家も、僕以降の代まで続くはずだった……だのに……ふふ……あははっ……」
笑い出したサシャを、祥太郎は困惑した表情で見た。
「サシャ……?」
「笑えるだろう? ……僕は、全てを偽り続けてきたんだ! 僕は哀れな道化だったんだ! あははははっ!」
「…………」
「性別を偽り、身分を偽り、心を偽り……行きついた先が、何もない場所だった。それだけさ。今の僕を見てくれ。もう、頼るべき人も、忠誠を誓うべき組織も、帰るべき祖国もない」
「それは……どういう意味だ……?」
「警察を通じて聞いたんだろう? 僕が巻き込まれたのは、防共協定に関わるトラブルだと……。その通りさ。だけど、フランツが命を懸けて教えてくれたんだ。本当の敵はソ連じゃない。ソ連に今回の事件をけしかけた黒幕は、僕が所属していた親衛隊そのものだったのさ!」
「な…………」
絶句している祥太郎に、サシャは寂しそうに続けた。
「だが……さしもの僕も、自分自身の心までは欺けなかったよ……」
「え……?」
サシャは大きく息を吸って、ゆっくり吐き出しながらうつむき、やがて顔を上げて祥太郎をまっすぐ見た。
「僕が好きだったのは、フランツじゃない。祥太郎、君だ」
祥太郎は、いっとき、息をすることを忘れた。口を開くのに、かなりの時間がかかった。
「それは……友だちとしてじゃなく、異性として……ってことか……?」
サシャは、小さくうなずいた。そして続けた。
「僕には、対等な友だちを作るなんて、しょせんは無理な話だったんだ……!」
祥太郎は、少し間を開けてから、口を開いた。
「そっか……でも、ありがとう」
サシャが、潤んだ眼で祥太郎を見つめていた。
その縋ろうとするような眼を、祥太郎は直視できなくなってしまった。祥太郎は、慎重に言葉を選んで答えた。
「でも……正直なところ、色々と理解が追いつかない……ごめん、今は無理だ。君の想いに応えるには、俺はまだ……」
どこか斜に構えたように、サシャは言った。
「……そうだよね。だいたい祥太郎が、僕のことなんか、好きになってくれるわけじゃないだろうしね」
「そんなことはないよ。俺も、サシャが好きだ」
サシャが、声を鋭くして答えた。
「やめてくれよ。祥太郎は優しいから、僕に同情しているだけだろう?」
「そんな、同情だなんて……」
「僕は……どうすればいいんだ? もう帰る国もない、頼れる場所も人も他にない、こんな白い肌をもったこの僕は、いったい何を頼りに生きていけばいいんだよ……?」
サシャは唇を噛み、やがて絞り出すように言った。
「……僕なんか、生まれてくるんじゃなかった」
「サシャ、何を言うんだよ?」
「嗤ってくれよ! 僕は貴族なんかじゃない! 男なんかじゃない! ただの生まれの卑しい、賢しいだけの女狐だ!」
「サシャ……」
「嘘にまみれて汚れてるんだよ。この心も身体も。それでも僕を好きだと言えるか? ……僕が求めてきたら、抱こうとできるのか?」
サシャは、はらはらと涙を流しながら、祥太郎をじっと見つめていた。
祥太郎は、いたたまれなさに、ただうつむくことしかできなかった。
ややあって、サシャは眼元を病衣の裾で拭って、布団に潜り込んでしまった。
「……もう帰ってくれ、祥太郎」
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