第12話 その、秋の日の夕方は……3/3
祥太郎の訪問から、数日たった日の午後。
サシャはベッドから出て、机に向かい、タイプライターをカシャカシャと打っていた。
一高から帰ってきたフランツがその部屋を訪れたのは、だいぶ陽が傾いたときのことだった。
『邪魔するぞ……なんだ、起きてたのか。もう体調はいいのか?』
『……ああ、心配をかけたな。個別指導も、お前ひとりに任せて済まなかった』
『…………言っただろう。無茶はするなと……』
『そうだったな』
サシャが、手を止めてフランツに振り返り、微笑を返した。
フランツは、タイプライターに向き直ったサシャの両肩に手を置いた。
『……なんだかんだ言って、君は最近、俺を拒否しなくなったな?』
サシャはタイプライターに目を戻し、呟くように言った。
『僕は…………どうせ、お前の嫁になることは変わらないんだろう?』
フランツの顔が、わずかに強張った。
『……吹っ切れた、と言った方がよさそうだな……?』
『……どうとでも』
しばらくサシャはタイプを打っていたが、やがてまたその手を止めて、口を開いた。
『なあ……フランツ?』
『何だ?』
『……いずれ本国に帰還したら、お前が望む通り……お前と結婚してもいい。フランベルグ家に婿入りという形で、な』
フランツは、呆けたような顔でそれを聞いていた。
サシャが言葉を続ける。
『父とは話をした。父も喜んでいたよ』
『そう……か。そうだよ、それが、フランベルグ家にとっても、俺たちにとっても、そして第三帝国にとっても、いちばんの選択肢だ』
フランツは喜色を隠しきれない声色で言ったが、サシャは寂しげな微笑ひとつ浮かべて、うなずいただけだった。
『…………だろうな』
そのサシャの言葉は、どことなく投げやりに、フランツには聞こえたようだった。
フランツはたまらなくなったように、サシャに問うた。
『サシャ……お前は、本当にそれでいいと思っているのか? 本当に……俺を愛しているのか?』
サシャはタイプライターから手を離して、フランツに乾いた笑みを浮かべた。
『愛なんて、抽象的で主観的な、要するに曖昧な感情だ。そんなものは分からない』
『……分からない、だと……?』
フランツが声を硬くしたが、サシャは構わずに続けた。
『結婚するにあたっては、条件を付けさせてもらう』
『……何だ?』
サシャは、書類の山に目をやりながら言った。
『独日防共協定は今年中に、必ず締結させる。決して妨害するな』
『ふん。そこまでして、成立させたいというのか? 前にも言っただろう? 防共協定は、我が国益に必ずしも貢献しないと……』
『その認識については相違があるから、議論しても無駄だ。それに、防共協定の恩恵は、我が国のみがあずかるわけでもない』
それを聞いたフランツは、しばらく考えている様子だったが、やがて顔を上げて口を開いた。
『そうか……防共協定が締結されれば、我が第三帝国と日本によるソ連の牽制が成立して、結果的に日本の安寧が保たれうる。それを望んでいるのか……?』
サシャは、無言のままだった。
『なるほど……分かったぞ。君は、この国を……祥太郎たちを守ろうというんだな……?』
『……それが僕なりの、この日本へのささやかな置き土産だ』
『そうか……君は、この日本と日本の友だちのために自分を犠牲にしたかったのか……?』
『そう理解してもらって構わない』
フランツはうつむいて、拳を震わせ始めた。
『あと、もう一つ……正式に結婚するまでは、ベッドは共にしないからな』
それを聞いたフランツが、低く、怒りのこもった声を上げた。
『……立てよ、サシャ』
『え……? 何だよ、急に……』
フランツの尋常でないさまに圧されるように、サシャが椅子から離れた。
それをみたフランツが、サシャの両肩を、渾身の力の入った両手で掴んだ。
『え……え? やめろ……! 痛いよ……!』
悲鳴を上げるサシャの唇を、フランツは己のそれで乱暴に封じた。
『……んっ!』
サシャの唇を塞いだまま、フランツは、サシャの華奢な身体を抱え上げて、そのままベッドに諸共に倒れ込んだ。
『……君を、他の誰でもない、この俺のものにしてやる』
『やめろ……離せっ! 離して……!』
暴れるサシャの上に、フランツは覆い被さった。
『暴れても無駄だ! ……執事も今は出払っている。誰も来ないぞ!』
そう言いながら、フランツは、サシャのシャツのボタンを、上から外そうとした……そのときだった。
サシャの首に掛けられていたロケットペンダントの蓋が、サシャの胸の上で、倒れ込んだはずみで開いていた。
そこには、フランツにも見覚えのある写真が……去る五月に、五月祭の模擬結婚式で撮影された写真が、そこに納まっていた。それが……否応なく、フランツの眼に入っていた。
フランツは、雷に打たれたように固まった。
『これは……祥太郎じゃないか……!』
『……っ……ひっ……』
サシャは、静かに泣いていた。
『……くそっ! ちくしょうめ!』
嗚咽を上げ続けるサシャから、フランツは自分の身体を引き剥がした。
『……やっぱりか……俺をばかにしやがって! ちくしょう! なんて女だ! 俺を……俺はっ……!』
そう言い残して、フランツはベッドから逃れるように降り、ドアの音も荒々しく、部屋を出て行った。
シーツの上に投げ出され、涙を流し続けるサシャだけが、部屋に残されていた。
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