第12話 その、秋の日の夕方は……1/3









 ときは九月……秋になった。


 一高生の三年の皆は、さすがにこの時期になると、受験を前にして、そわそわと準備をするようになった。何しろ、もうあと半年で、入試も卒業式も迎えることになるのだから……。


 放課後も、ある者は教室で、ある者は図書室で、またある者は寮に戻って……と、それぞれ思い思いの場所で受験勉強に精を出すようになった。


 だが、この年に限っては、文乙の皆は、こぞって中寮のホールで教科書とノートを開く姿が目立っていた。なぜなら、サシャとフランツが、終礼後から午後の八時ごろまで、ドイツ語の個別指導をしてくれることになったからだ。


「やっぱり語学は、辞書とにらめっこするより、生き字引きに教えてもらった方がはかどるな!」

「ああ、これならドイツ語を得点源までもっていけるかもしれないな!」

 

 そんな喜びの声が、文乙の皆から聞こえてきていた。






 *






「今日は茶菓子を持ってきた。差し入れだ。好きに食べてくれ」


 この日の放課後の中寮のホールのテーブルの一角には、大きな皿の上に山と盛られたバウムクーヘンが、サシャの手によって置かれていた。


 文乙の皆は歓声を上げた。


「やったぞ、甘味だ! バウムクーヘンだ!」

「コーヒーだ、コーヒーをもらってこよう!」


 食べ盛りの一高生たちが狂喜乱舞しているのを、離れたところに座っているサシャとフランツは、微笑ましく見ていた。


 サシャがフランツに、ドイツ語で口を開いた。


『……まさか、お前も一緒になって個別指導をやるとは思ってなかった』

『おいおい、俺を仲間外れにしようってのか? そりゃあないぜ』

『だとしても、数日で飽きて来なくなると思ってたが……何か、裏でもあるのか?』

『ああ、ある』

『何だと……?』


 サシャが、警戒の眼でフランツを見た。


『君がここに入り浸っている間は、防共協定の準備は進められないだろうからな。俺も安心していられるってわけだ』

『……ふん。だからと言って、別にお前まで付き合うことはないだろう』

『だから言ったろう、我が同胞。仲間外れはないぜって……』

『……勝手にしろ。いずれにしても、防共協定の準備は、こちらでつつがなく進めてるからな』


 それを聞いたフランツが、眉をひそめた。


『……サシャ、まさか、帰ってからもタイプ打ちを手伝ってるのか?』

『お前の知ったことじゃない』

『二足の草鞋っていうやつか。身体を壊すぞ、無茶はよせよ』

『お前にとっては、むしろ僕が身体を壊した方が、願ったり叶ったりじゃないのか?』

『はっ……ばかなことを。将来の妻が、身体を壊すのを黙って見ていられると思うか?』

『将来の妻……か』

『……なあ、サシャ。俺の気持ちは変わらないぞ。俺たちは親衛隊と国防軍の懸け橋になり、良き父親・母親になるんだ。俺がフランベルグ家に婿入りしてもいいって言ったろう? 俺は本気だぞ。もう留学生活もいくらも残されちゃいないんだ。そろそろ、君の答えが欲しい』

『僕の答え、だと?』


 サシャが、皮相な笑みを浮かべた。


『はぐらかすなよ。なあ、サシャ……』


 フランツがそこまで言ったとき、ノートを持った祥太郎が、二人の前にやってきた。


「えっと……話し中だったか?」


 サシャが答えた。


「いや、何でもない。大丈夫だ」

「そっか。サシャ、すまないけど、この論文の訳を見てくれないか?」

「ああ。どれどれ……」


 祥太郎とサシャは、頭を寄せ合うようにして、ドイツ語訳に没頭し始めた。


 手持ち無沙汰になったフランツのところにも、田原がやって来た。


「なあ、フランツ」

「ん?」

「今さらすぎるかもしれないが、聞いてもいいか?」

「なんだ?」

「なんで英語と違って、ドイツ語には男性名詞と、女性名詞とやらがあるんだ? 面倒で仕方がないんだが」

「……ふっ。分かっていないな。だからモテない男は困るんだ」

「なっ……何だと?」

「まあ、男性名詞と女性名詞を使いこなせない奴には、ドイツ語はおろか、異性のなんたるかも理解できないだろうさ!」


 田原が顔を真っ赤にした。


「フランツめ……! 言ってくれるじゃないか!」

「悔しかったら受験独語のリーディングくらい、モノにしてみせろよ!」

「言われなくてもそうしてやる! ちくしょう!」

「ははは、頑張れよ」

「……だがフランツよ、そういうお前は、気に入った女をモノにしたことがあるのか?」


 そう聞かれたフランツは、厳しい眼で田原を見返したが、しかし何も言い返すことはなかった。


 そうとは知らず、祥太郎は、サシャに指摘された箇所を修正しつつ、教科書にあるドイツ語論文の和訳を進めていた。


 ……ひとりでやるから身につく独語、なんてのは嘘だな……と祥太郎はぼんやり考えていた。受験勉強は、突き詰めると結局のところは個人戦かもしれないが、こうして誰かに支えてもらうと、どこかしら団体戦に思えなくもない。


 ……サシャには、色々なことを教えてもらいっぱなしだ。ドイツ語は言うに及ばず、去年のあの軍事教練でも、皆で一つになって戦うということをサシャは教えてくれた。あれ以来、俺たち文乙は、どことなく連帯感を持ってことにあたるという意識が強くなった気がする……と祥太郎は思っていた。でなければ、クラス内でそれまで交わることのなかったハイカラ仁川バンカラ田原が仲良く(?)なったり、寮祭でも一丸となってメイドカフェーを成功させたり、あまつさえ集団で受験勉強をやったりするようなことはなかっただろう。


「……ありがとう、サシャ」


 思わず口にしてしまったことに、祥太郎は言ってしまってから気づいた。


 慌てた祥太郎がみると、サシャは、机に伏して、かすかな寝息を立てていた。……長い睫毛と、さらさらとした金髪、きめの細かい肌、そして半開きの唇が、無防備にさらけ出されていた。


 ……寝不足なのだろうか? と祥太郎は思いつつ、サシャの肩に、学生マントをそっと掛けてやったのだった。 





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