第11話 その、夏の避暑地は……3/3
八月十一日、二十三時過ぎ。月明かりが煌々と、高原を照らす夜だった。
皆が待ちに待っていたオリンピック競技が、幕を開けようとしていた。女子二百メートル平泳ぎの決勝戦である。女子が活躍する水泳競技で、なおかつ日本人選手が勝ち上がっているということで、皆、この観戦を楽しみにしていたのだった。
ドイツとの時差が八時間あるため、そのラジオ実況は、日本では暗くなってからの放送となっていた。
祥太郎たちは、この夜もコテージのデッキにイスとテーブルとラジオを持ち出して、酒とつまみをちびちびやりながら、決勝が始まるのを今か今かと待っていた。
田原が口を開いた。
「いやあ、軽井沢での避暑も残り数日か。あっという間だったな!」
鴨井も言った。
「そうだな。オリンピックももう少しで終わるな……。それにしても、日本勢も頑張ったけど、やっぱりドイツは強いな! 暫定だけど、金メダル獲得数は、ドイツがトップじゃないのか?」
それを聞いたフランツが、ビールをぐびぐび飲みながら、ソーセージをばりぼりと貪り食いながら言った。
「そりゃあ、我々ゲルマン民族は心身壮健を旨としているからな!」
田原が苦笑した。
「おいおい、心身壮健を旨とする奴が、深夜に飲み食いしてもいいのかよ?」
「う、うるさい! 今だけは特別だ!」
「そういえばフランツ、お前、親しくなった外国人の女の子たちに呼ばれてパーティーに行ってたのはいいとしても、朝まで帰らなかったことがあったな?」
「お、俺、何も悪いことはしてないよ!」
フランツが、なぜかサシャのほうを気にしながら、酒の入った赤ら顔のままで、必死に弁明を始めた。とうのサシャは、ザワークラウトをポリポリと食べているだけだった。
それを聞いて、仁川が口を開いた。
「何だと? 隅におけない奴だな、フランツ!」
悪乗りしてきた仁川にも、田原は容赦なかった。
「仁川、お前もテニスでどこぞのご令嬢と仲良くなって、ひと夏だけの家庭教師になったって聞いたぞ? 本当は何を教えているんだか……」
不意打ちを喰らった仁川の顔が、青くなった。
「なっ……俺も、何も疚しいことはしていない!」
「ほ~ん? 本当か?」
「くそっ! からかいやがって、このバンカラ野郎が!」
田原はため息を一つついて言った。
「ったく、どいつもこいつも、健全に避暑生活を送れないのかよ!」
ところが、軟派連も黙ってはいなかった。
「何だよ、本当は羨ましいだけだろ?」と仁川。
「モテない男は、どこの国でも辛いんだな」とフランツ。
それを聞いた田原が、みるみるうちに赤くなった。
「こ、こいつら! ぶっ飛ばしてやる!」
立ち上がりかけた田原を、祥太郎と鴨井が二人がかりで止めた。
「まあまあ、とにかく飲めよ」と祥太郎。
「青春は青年の数だけある。気に病むなよ」と鴨井。
ちくしょうと言いながら酒瓶を仰いだ田原をよそに、フランツが、ふと口を開いた。
「そう言えば、俺、サシャが酒を飲んでるところ、見たことないな」
ザワークラウトを飲み込んだサシャが、ぴくりと震えた。
フランツが、ビール瓶を片手に立ち上がった。
「なーサシャ、ちょっとだけ飲んでみろよー!」
それを聞いた祥太郎は慌てた。
「だ、ダメだ! 酒は無理強いするもんじゃない!」
「何だよー、ご学友のガードは堅いなー」
そこへ、ラジオをチューニングしていた鴨井の声がした。
「そんなことより、おい、そろそろ始まるぞ」
鴨井の言葉に続き、スピーカーから、アナウンサーの声が聞こえ始めた。
《日本の聴取者の皆様、深夜ではございますがスイッチを切らないで下さい。こちらはドイツ・ベルリンであります。ただ今より、女子二百メートル平泳ぎの決勝を実況いたします。実況アナウンサーは、私、
《我が日本からは、
待ちに待った競技に、祥太郎たちは拍手を沸かせた。
《……ホイッスルが鳴りました、各選手は一斉にスタート台に並びました》
祥太郎たちは、固唾を飲んでラジオに向かった。
数千キロの海の彼方で号砲が鳴る音が、スピーカーから明瞭に聞こえた。
《スタートしました…………前畑嬢、わずかにリード! ドイツのゲネンゲルと並んでおります!》
皆が一斉に歓声を上げた。明らかに、これは日独の一騎打ちになると見て取れたからだ。
《イギリス、遅れました! これは前畑嬢とゲネンゲルの接戦であります!》
《まさに大接戦、火の出るような大接戦、まことに心配でございます!》
祥太郎たちの緊張が否応なく増した。
《前畑がんばれ! 前畑がんばれ! 前畑がんばれ! がんばれ! がんばれ!》
アナウンサーが、『がんばれ』しか言わなくなった。
「うおおおおお! 前畑がんばれええええ!」
祥太郎たちが叫んでいる横で、フランツもドイツ語で叫んだ。
『ゲネンゲル、
そのとき、なんとサシャが、椅子から立ち上がり、ラジオに喰いつくようにしているフランツの両肩に手を置きながら、ラジオに向かって叫び始めた。
フランツだけがびっくりしたようにサシャに振り返ったが、他の者はラジオに喰いついていて気づかない。
『ゲネンゲル!
あとはもう、全員が日本語とドイツ語で、ラジオに叫び続けていた。
やがて、会場の大歓声に圧されて、ラジオは雑音同様になった。
《…………前畑勝った! 前畑勝った! 前畑、勝ちました!》
「うおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
「やったあああああああああああああ!!!」
祥太郎と田原と仁川と鴨井が、ぴょんぴょん飛び跳ねながら抱き合い、やがてひとかたまりとなって、ウッドデッキから外の地面へ倒れ込んだ。
「くそー! ゲネンゲル、敵わなかったか……!」
不貞腐れかけて、デッキの床に座り込んでいるフランツ。そのフランツのかたわらに、サシャがやって来た。
フランツは驚いて、赤くなった顔をサシャに向けた。
サシャは言った。
「フランツ……まあ、そう言うなよ。僕らの留学国が、僕らの祖国のオリンピックで優勝を果たした。これは喜ぶべきことじゃないか」
そう言って、サシャは、やおらフランツが直飲みしていたビール瓶を奪いとり、一気に全部がぶ飲みした。
フランツや他の面々は、それを呆気に取られて見ているだけだった。
そしてサシャは、ビールを持った右手を、自分の胸の前にまわすようにして、舞台俳優のように一礼した。その足元は、若干ふらついていた。
「友邦日本の勝利に、ドイツを代表して、心からの祝福を!」
わっと歓声が上がった。
フランツが、いつもの癖で、サシャの肩に腕をまわした。
サシャは、拒否しなかった。
わだかまりもしこりもなく、この夜は更けていったのであった。
*
ベルリン・オリンピックは、全般的に成功を収めた大会と言って差し支えない。
ドイツは、最多である三十三個もの金メダルを獲得し、全世界にアーリア民族の優秀さを見せつけた。
ベルリン・オリンピックは、ナチスのプロパガンダとしての役割を十二分に果たして、八月十六日にその聖火を闇に沈めたのであった。
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