第9話 その、新たな留学生は……2/3







 サシャは、一高名物の時計台のある、本館の屋上にフランツを連れてきた。春になり、少し陽の長くなった、夕焼けの余韻のある夜空が、東京の街の上に広がっていた。


「へえ、良い眺めだな、ここは。酔い覚ましにもちょうどいい」


 フランツはおどけたように言ったが、サシャはフランツに向き直り、ドイツ語で問いかけた。


『……一体、何のつもりだ?』

『え? いきなり何だい、何のつもりかって……?』

『言葉の通りだ。先日、大使館で初顔合わせをしたとき、僕と同じ一高に来るなんてこと、一言も言ってなかったじゃないか?』


 ぽかんとしていたフランツが、やがてしたり顔になった。


『はは~ん……もしかして君は、俺がこの学校に来ることになったのを面白く思っていないのか? だから、今日はずっと不貞腐れた態度をとってたのか?』

『…………』

『おいおい、まさか、ドイツ人留学生としての自分の立場とアイデンティティを奪われるとか思っているのか? そんな子供じみたことを……』

『……そんなことじゃない。この時期に、本国から、大使館に送られてくるなんて……』

『ま、そこは君と同じ形だな』

『……お前は、どこの所属だ?』


 それを聞いて、フランツは芝居がかったように、困った様子をして頭をかいた。


『いきなりお前呼ばわりか、参ったな……。前にも言ったろう? 武官付だと……』

『ただの武官付の事務官とは思えない。どこの所属だ?』


 フランツは微笑を崩さずに、いったんうつむき加減になったが、すぐに顔を上げて言った……その眼だけは、笑ってはいなかった。


『……君のような下っ端は、知らなくて当然だよ』

『想像はつくぞ。おおかた、ドイツ国防軍の特務機関だろう?』


 否定も肯定もせず、フランツは続けた。


『まあいい、手間が省けた。では警告するぞ、サシャ・フランベルグ親衛隊S S少尉。今後、防共協定の締結作業から足を洗え。そちらのほうが、身のためだ』


 やっぱりか……というような表情を浮かべたサシャは、身構えるようにして聞いた。

 

『やはりお前ら国防軍は、独日防共協定を潰す気か……?』

『なあサシャ、落ち着いて聞けよ。我が国はヒトラーのお陰で、世界有数の大国へと復活した』


 サシャが、色をなして大声を上げた。


『……総統を呼び捨てにするな!』

『おいおい。我々貴族からすれば、あの男は平民上がりの万年伍長じゃないか。何を遠慮する必要がある?』

『言い直せ。さもないと……』

『おっと。そういえば、君は違ったな。このエセ貴族が』

『っ……! どうして、それを……』


 衝撃を受けた様子のサシャに構わず、フランツは続ける。


『あまり、我々国防軍の情報収集能力を舐めないで欲しいな』

『…………』

『話を戻すぞ。大国に復活したとはいえ、我がドイツは金保有量もまだまだ少ない。おまけに、貿易相手国も限られている。そのほとんどが、発展途上国だ。つまり……』

『……』

『我々は原始的な物々交換……バーター取引による貿易で食っていくしかないんだ。相手から資源を買い、こちらからは工業製品を売る。ま、ほとんどが兵器だけどね。……それしか、我々が国際社会で生きていく道はない』

『……』

『つまり、我々は海外の取引相手を大事にしなくてはならない。その中でも、中国は大切なお得意様だ。蒋介石は武器を欲しているし、何より中国国内には豊富な資源がある。そんな中で、蔣介石と敵対する日本と協定を結ぶ? 愚策だ。今、中国側の機嫌を損ねるわけにはいかない』


 サシャは、唇をじっと嚙みながら、フランツの話を聞いていた。


『そうか。やはり国防軍は、あくまでも対中接近に力を入れるということなんだな……!』

『ああ。いずれ、見られる事になるぞ。我が国の優れた武器を装備した蒋介石軍が、中国で……恐らくは上海あたりで、日本軍と激突する様子をな』

『何だと……? そんなこと、させてたまるか!』

『させてたまるか……? あのな、中国への武器輸出は、ヒトラーも黙認していることだよ』


 苦笑交じりに言うフランツ。

 いっぽうのサシャは、呆けたような表情になった。


『総統が……中国への武器輸出を……ご存知だと?』

『ああ。でなければ、大掛かりな輸出事業は不可能だ。シャハト経済相あたりの閣僚レベルだけで企んでやれることじゃないのは、想像つくだろう?』

『…………』

『君はピュアすぎるな。我が第三帝国が富み、儲ける。どこが悪い話だ? 愛国者を自称するなら、歓迎こそすれ、頭を抱える事ではないと、俺は思うけどな』

『しかし……それでは、日本が……』

『……情けない。ミイラ取りがミイラというやつだな。君は、日本に、日本人に感情移入し過ぎている』

『僕が……日本人に感情移入を……?』

『そう言うことだ。まったく、君は甘ちゃんだな? それでよくも親衛隊少尉に任官されたもんだ……思いあがるなよ。さっきも言ったが、このエセ貴族」

『……』

『しょせん、ぽっと出の集まりでしかない親衛隊に、まともな貴族はいないときた。我々国防軍の方が、伝統も血筋も確かだ』

『…………』

『何を打ちひしがれてるんだよ。それに、君の秘密は、そんなもんじゃないだろう?』


 そう言うなり、フランツはサシャに歩み寄り、サシャの形のいい顎を、右手でくいと上げた。


『…………君は、綺麗だな』

『なっ……!』


 思わず後ずさるサシャ。


『君は義父……ノルベルト・フランベルグ大佐に気に入られていると聞いたが、なんだ、女の武器を使ったのか?』

『きさま……! いい加減なことを!』

『君の出自くらい分かってる。言っただろう、我々の情報収集能力を舐めるなって』

『総統閣下に忠誠を誓わない国防軍ごときが、無礼なことを言うな……!』


 その言葉を聞いたフランツの表情が、一変して硬くなった。


『俺をあまり怒らせるなよ。逆らってばかりいると、俺も本気で君らを潰しにかかるぞ』

『潰す……? 笑わせるな。一体どうやって?』

『簡単さ。例えば、君を凌辱レイプして殺して、宮城の濠にでも放り込めばいい』

『は……?』


 サシャは絶句した。


『異国の地で、同胞の少女が辱められて殺された。それが明るみになれば、本国での対日感情は悪化する。そうなれば、防共協定は成立しないだろう』

『…………』

『そして君が、性別や身分を偽って、大使館に潜り込んでいたことも明らかになる。親衛隊としては大失点だな?』


 フランツの薄ら笑いに、サシャは思わず背筋を凍らせてしまった。


 が、フランツは、すぐに頭を横に振って言った。


『……とまあ、これは冗談だけどさ』

『冗談……?』

『ああ……どうせ、君一人がノルベルト大佐の手伝いをしたところで、防共協定締結にどれほど資するかなんてことは、たかが知れているからな』

『…………』

『さっき言ったことは気にしないでくれ。俺は冗談好きなんだ』

『明白に親衛隊我々に敵対することを言っておいて、何が……』

『だから冗談だって。それよりも、君は君自身の心配をしたほうがいいぞ』

『僕自身の心配?』

『君の将来のことだよ。君は男のふりをして、ずっと独身を通すつもりか?』

『…………』

『君もわかっているだろう? いつまでも今のままではいられないってことを』

『……何が言いたいんだ?』

『我が第三帝国においては、事実上、健康な成年男女が独身でいることは許されていない。知っているだろう?』

『……言われるまでもない』

『だったら、君もいずれ誰かと……同胞のアーリア人と結婚して、複数の子供を産まなければならない。違うか?』

『…………』

『その辺について、今の君はどう考えている?』

『どうって……それは……』


 押し黙るサシャ。


『君はどうも、結婚に積極的ではなさそうだな……?』

『…………』

『ふうん。じゃあ君は、本国に帰って、知らない親衛隊の男と無理やり子作りをさせられて、母親にされたいか?』

『……』


 サシャは、何も言えない自分に気づき、唇を噛んだ。


 しかし、いっぽうのフランツは、これまでの威勢はどこへとばかりに、どことなく上目遣いになって言った。


『だったら、…………この極東の地で会ったのも何かの縁だ。俺と結婚して、俺の子を産んでくれないか?』

『……は?』

『貴族の女には飽きた。お上品すぎて、ヤリがいがない。君みたいなじゃじゃ馬と一緒なら、存分に楽しくやれそうだ。それに、生まれの卑しささえ除けば、君は金髪碧眼の優秀なアーリア民族だ』


 サシャは口をぱくぱくさせていたが、ややあって調子を取り戻した。


『ちっ……何を言い出すかと思えば……』

『俺の妻になれば、ただのご婦人としての退屈な人生は歩ませない。約束する』

『断る!』

『どうしてだ。自分で言うのも何だが、俺は生まれも育ちも貴族で、しかも女どもから人気の高い男だぞ?』

『しつこい……!』


 サシャは、フランツに平手打ちをしようと右手を上げた。


 その手首をフランツは掴み、器用にサシャの背後に廻って、右腕をねじり上げた。


『痛っ……』


 苦悶の表情を浮かべるサシャの左の耳元で、フランツがささやく。


『……俺たちの子は、次世代の優れたドイツ人に育つ。それだけも、十分にヒトラーと祖国に貢献することだと思わないのか?』


 そう言って、フランツは、サシャの耳たぶに甘噛みをした。


『っ……! 放せっ……!』

『ああ。ごめん』


 いきなり右腕を放されたサシャは、二、三歩たたらを踏むようにしながら、フランツに向き直り、言った。


『お前には……人として、大切なものが欠けている』

『何だ、それは?』

『……』


 フランツが、聞き捨てならないとばかりに、いらだった声を上げた。


『何だと聞いているんだ……!』

『答える必要はない』

『……そうか。君の日本に対する肩入れのしようを見ると……まさか、誰か親しい日本人……そうだ、あのご学友とやらに、気でもあるのか?』

『……!』


 サシャは、痛いところを突かれたとばかりに、焦りの浮かんだ表情を浮かべた。


『そうか。サシャ、君の泣き所が分かったぞ。木下祥太郎……だな?』


 フランツは、これ見よがしに、両手の指を組み、ぽきぽきと鳴らした。


『……祥太郎に、手を出すな!』

『じゃあ、他の奴ならいいのか?』


 うつむきながら、サシャは絞り出すように言った。


『っ……! いいわけがないだろう……!』

『なるほどな。じゃあサシャ、その代わりと言っては何だが、俺の言うことを聞くか?』

『……何だ? 何が望みだ?』

 

 フランツは、真顔で言い放った。


『ここでシャツを脱いでみせろ』

『なっ……!』

『脱げよ。国防軍を舐めるな。君の大切なご学友が、何らかの不幸な目にあってもいいのか? 言っておくが、俺たちは証拠は残さないぞ』

『…………!』


 サシャはしばらく固まっていたが、やがて震える手で、ネクタイを外し、シャツの第一ボタンに触れた。


 ……が、不意に、サシャは屋上のへりへ向かって走り出した。


 サシャの意図を察したフランツが、慌ててその後を追った。


 サシャは縁のすぐ手前でフランツに振り返り、鋭く言った。


『来るな!』

『おい! ……そこから飛び降りるつもりか? バカなことを……早まるな! その高さなら、大ケガどころじゃ済まないぞ!』

『…………いいさ。お前の言う通り、僕は生まれの卑しい女だ。……消えてしまっても、誰も悲しまない』


 きっとした眼で自分をにらむサシャに、フランツは動揺を隠しきれない声で問うた。


『そこまでして、君は木下祥太郎や、他の一高生のクラスメイトたちを庇うのか……?』


 サシャが力なく苦笑しながら答える。


『だとしたら、どうなんだ?』


 サシャが言い終わる前に、フランツはサシャに飛びかかった。

 二人はもつれ合うように……薄暗くなった空を見上げるように、仰向けに屋上に転がった。二人の荒い呼吸だけが、屋上をしばらく支配した。


 ややあって、フランツが夜空を見上げたまま口を開いた。


『……悪かったよ。冗談が過ぎた』


 サシャも、仰向けのまま答えた。


『…………お前が、下種な欲望をき出しにするからだ』

『こんなところで青カンしたいと思うバカがいるわけないだろう……』

『どうだか。お前ならやりかねない』

『なあ、…………そんなに、この国や、この国の友だちが大事か?』

『……僕は、一応、その程度には人間であるつもりだ』

『そうか……だが、君が死ねば、ご学友が悲しむだろう? もちろん俺もだが……』

『…………』

『……泣いてるのか? サシャ?』

『…………泣いてない』

 

 サシャは、フランツと反対側に寝返りを打った。


『………………ごめんな。重ね重ね、悪いことをした』

『……うるさい』

『…………本音を言おうか? 俺はな、国防軍と親衛隊の懸け橋になりたいと思ってるんだよ』

『嘘をつけ……!』

『俺が君と同じ一高に来たのも、まあそんな理由だ。今すぐ信じて欲しいわけでもない。忘れないでいてくれればいい』

『お前みたいな奴が信用できるか……!』

『……まあ、俺とて、君といきなり男女の仲になりたいわけじゃない。まずは、同じ第三帝国の同胞どうし、仲良くやろうじゃないか』

『下心のあるやつと、仲良くなってたまるか!』

『俺は君を気に入った。ぜひ結婚したいな。婿入りしろというのなら、そうしてもいい』

『勝手なことを並べ立てるな! この国防軍の変態野郎が!』


 サシャは目元を拭って立ち上がり、落ちていたネクタイを拾い上げると、まだ寝っ転がっているフランツの股間を、ブーツでしたたかに蹴り上げた。


 悶絶するフランツを残して、祥太郎が待っているであろう中寮を目指して、本館の階段を駆け下りていった。




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