第16.5話 その、離ればなれの二人は……1/2







 一九四五(昭和二十)年、五月八日。


 支那(中国)大陸・上海。


 そのとある街の、昼下がりでありながら薄暗い裏路地に、一台の黒い乗用車が停まっていた。


 サシャ・フランベルグは、その助手席に座っていた。


 車内には……運転台には、もう一人、男の姿があった。それは、日本陸軍のカーキ色の軍服に、少佐の襟章と、憲兵徽章をつけた憲兵少佐だった。


 その男に、サシャは日本語で話をしていた。


「……重慶側国民党軍の無線発信拠点と思われる家屋を発見、以降定期的に監視しています。……以上、ご報告となります」


 サシャが報告を終えると、憲兵少佐は満足げにうなずいた。


「分かった。ご苦労……いえ、ご苦労様です。お嬢様」


 サシャは、憲兵少佐に、頭を振って言った。


「やめてください。今のあなたは、僕の執事ではありません」

「何をおっしゃる。上海までいっしょに来た時点で、私とお嬢様は、一蓮托生なのですよ」


 憲兵少佐……佐川豊は、かつて日本にいたときよりも目尻に多くなったしわを寄せて、さながら好々爺の笑みを浮かべた。


 サシャも、それを見て、ふっと微笑した。


「そう……だな。これまで、よく僕を支えてくれたな……」

「お互いに、この生き馬の目を抜くような街で、よくも生き延びてきたものです。あの日から……」

「ああ……」


 あの、昭和十一年の冬。


 東京帝大病院を佐川とともに抜け出したサシャは、日本郵船の定期便に乗って日本を脱出し、ここ上海へとやって来たのだった。


 義父ノルベルト、そして親衛隊という後ろ盾をなくしたサシャにとって、日本で生き続けるのは無理な相談だった。そして……親衛隊が黒幕らしいと知った以上、祖国に帰ることも。


 白い肌を持ったサシャが、祖国以外に生きていける場所……それが、白系ロシア人などが数多く住んでいる上海だった。サシャは、彼らに紛れ込みながら、生きていくことにした。


 生きていくためには、むろん働かねばならない。元ナチス親衛隊の将校という正体を隠して生きていくには、サシャにはほとんど選択肢がなかった。 


 いっそ、貧しい白系ロシア人の女がやっているように、身体を売ってしのごうか……そんな考えが浮かんでしまったことも、一度や二度ではなかった。しかし、そのたびに、サシャの脳裏で……サシャを叱咤して止めてくれる存在が……祥太郎がいた。


 そんなサシャを養ってくれる組織を、佐川が見つけてきてくれた。日本陸軍の、上海憲兵隊……通称・上海憲だった。


 もちろん、ただで済む話ではない。代償として、サシャは、憲兵に使われる密偵となり、雑多な人々で溢れかえっているここ上海で、蒋介石の率いる国民党政府のスパイと潰し合いに明け暮れる日々を送っていた。


「歩兵科出身の予備役の私めが憲兵将校として配置してもらえるとは、上海憲も人手不足は否めなかったということですな」

「まあ、僕にとっては、幸運な話だった。お前にとってはそうではなかったかもしれないが……」

「まあ、最後の御奉公です。お国のため、そしてお嬢様のために……」


 そこまで言ってから、佐川は付け加えた。


「……一つ、残念なお報せが」

「何だ?」

「昨日、ドイツが無条件降伏しました。ヒトラー総統は自決し、ベルリンは完全にソ連軍の制圧下となりました」

「……」


 過去の栄光はいずことばかりに、東西の戦線で敗北を重ねてきた、ヒトラー率いるナチス……ドイツ第三帝国が……潰えた。  


 サシャは、手元に眼をやり、顔を曇らせた。


「そうか……戦局は絶望的だと聞いていたが、ついに……」

「……ご心中、お察しいたしします」

「いや……何とも言いがたい。僕は、祖国に引き上げられ、そして祖国に捨てられた存在だから……」

「……」

「だが……やはり祖国だな。良くも悪くも、これまでの僕を僕たらしめてきたのは、総統閣下率いるナチスだ。捨てられたとはいえ、いくばくかの感慨はない……とも言えないな」


 そう言って、サシャは、大きく息をついた。そして、憂い気に続けた。


「ソ連軍がベルリンに乱入したのか……となると、若い女たちは……悲惨な目に……」

「……戦の常とはいえ、惨いものですな」

「ああ……そう考えると、僕もベルリン攻防戦に参加して、誰かの盾になって戦いたかった……」

「…………そうなると、お嬢様も不幸な目にあっていたかも知れません。やはり、運命だったのです。何もかもが……」


 しばらく静けさが漂ったが、やがてサシャがぽつりと言った。


「……あの頃は、良かった」

「あの頃とは?」

「一高に通っていた頃だ。できるものなら、あの頃に帰りたいくらいだ……」


 それを聞いた佐川が、顔をほころばせた。


「まだ、木下様に想いを寄せていらっしゃるのでは?」


 サシャは佐川をちらと見て、微笑しながらうつむいた。


「……お前には隠せないな」

「十年近くも、お嬢様にお仕えしておりますから」

「僕は……祥太郎に、もう一度会いたい。会って、まっさらな心で、もう一度想いを伝えたい」


 顔を上げて言ったサシャに、佐川も力強くうなずいた。


 サシャは続けた。


「二二六事件のときだ……お前は、祥太郎は僕の将来の夫に相応しいと言ったな?」

「ええ、覚えております」

「あのとき……僕は内心、満更でもなかった。だが、そうはいかないのが当時の現実だった……。ナチスは、純粋なアーリア人による国家を求めていた。……アーリア人とアジア人のカップルなど、歓迎されるわけがない。だから僕は……祥太郎を諦めるしかない。あのとき僕は、そう思っていたんだ」

「ナチスから解放されましたな……お嬢様」

「ああ。たぶん……フランツも喜んでくれていると思う」

「フランツ様も、ある意味、ナチスによる犠牲者でしたからな……」

「……そうだな」


 フランツを偲ぶような間をおいて、佐川が口を開いた。


「ドイツは敗北しましたが……我が日本軍も、もう長くはありません。絶対国防圏も破られて、沖縄でも苦戦している様子です。本土決戦も、時間の問題でしょう。それを知ってか、重慶のスパイも動きが活発化しています。ここ上海も、いずれ戦火をこうむることになるでしょうな……」


 サシャは、うなずきながら言った。


「祥太郎は言っていた。インテリ層の召集が避けられなくなったら、陸軍予備士官学校に行って陸軍将校になる……と」

「そうだったのですか……。となると、木下様もいま、どこかで前線に立っているのやも……」


 もしくは既に戦死しているかも……とは言わず、佐川は黙り込んだ。


 ややあって、サシャが沈黙を破った。


「祥太郎は、必ずどこかで生きている。僕は、そう信じてる」


 そのとき、サシャと佐川は、支那服を着た男二人が、前方からこちらへゆっくり近づいてくるのを見た。バックミラーを見ると、同じような男がもう二人、同じく向かってきていた。


「……長居しすぎましたな」


 佐川は、腰の十四年式拳銃を、ゆっくりと拳銃吊りから抜いた。


「重慶の連中だろう。奴ら、モーゼルを持ってる」


 サシャも、使い慣れたルガーP8を、左腋の下から抜いた。


「私と一緒にいるところを見られている以上、なおのこと生かして帰すわけにもいきませんな」

「その通りだ」

「生き残りましょう、お嬢様」

「ああ。そうだな」


 サシャと佐川は、同時にドアを蹴破った。


 身をひるがえしてルガーを続けざまに撃ったサシャの胸元には、あのロケットペンダントが輝いていた。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る