第5話 その、一高のメイドは……2/3

 

 






 話し合いが終わったころには、とうに日は暮れていた。サシャは、プンプンしながら、裸電球の街灯に照らされた一高前駅への道を早歩きしていた。祥太郎は捨て置けず、一緒について来ていた。


 サシャが、怒り心頭と言った感じで口を開いた。


「……だいたい、祥太郎が勝手に僕のことをやり玉にあげるから、こんなことになるんじゃないか! ふざけるなよ!」

「あ、あはは……ごめんよ……」

「ごめんで済むか!」

「で、でも……きっと楽しいぜ? 紀年祭……」

「僕は休むぞ! そんなもの、出られるか! 先祖に申し訳が立たない!」

「さ、サシャ……」


 祥太郎はサシャをなだめようにも、もう取り付く島はなかった。


 サシャは最後まで怒り散らしながら、改札の向こうに消えていったのだった。







 ところが、翌朝。







 祥太郎が、昨日のことを改めて詫びようと、登校してきたサシャに向き合ったときだった。


 サシャのほうから、ためらいがちに口を開いてきた。


「……僕……やるよ」

「え……やるって、その……紀年祭のメイドを……か?」

「……ぁぁ。だって……父が……ぜひやれって……」

「嘘だろ? やってくれるのか? やった!」


 祥太郎は、思わず快哉を上げた。

 それを聞きつけて、級友たちが集まってきた。


 田原が、感激したように言った。


「なんだ、サシャ、何だかんだ言って、やっぱりメイドやってくれるんだな!」

「べ、別に……やりたくてやるんじゃないからな!」

「何でもいい! よし、それじゃあ、衣装を準備しないとな」


 田原がそう言ったとき、サシャが、静かに何かの紙袋を自分の机の上に置いた。


 祥太郎が問うた。


「何だこれ?」


 サシャが、赤くなりながら答える。


「…………メイド服なら、持ってきた」

「え? 衣装も自分で用意してきたのか?」

「うちに……大使館に詰めてるメイドから借りたんだよ!」

「やる気じゃないか、サシャ!」

「ち、違う……! これも父が……」


 クラス内が、いっそう騒がしくなった。


「ちょっとサシャ、着替えてみろよ!」

「嫌だよ! もうすぐ授業が始まるじゃないか!」

「まだ十分はある! いいから、俺たちにメイド姿を見せてくれ!」


 皆の剣幕に押されて、さすがのサシャも折れてしまった。


「べ……別室で着替えてくるからな!」

「何だよ、別にここで着替えていいじゃないか」

「嫌だ! ただでさえ恥ずかしいのに、着替えシーンまで見られるなんてたまったものか!」


 そう言って、サシャは紙袋を抱えて教室を飛び出していった。


 待つこと数分、サシャは教室の扉を開いた。


 その姿を見た文乙の皆が、おおおおお、と力のこもった歓声を上げた。


 まるで、英国か仏国の王室の宮殿からぬけ出してきたように可憐な、それでいて初々しそうに下を向き、スカートの裾を両手で握りしめながら恥じらっている金髪碧眼白人メイドが、そこにいた。


「おお……ぴったりじゃないか!」

「すげえ! お世辞じゃなくて、本当に綺麗だ!」


 二年文乙の教室内で、期せずして万歳が響き渡った。


「サシャ万歳!」

「メイドカフェー万歳!」

「ドイツ第三帝国万歳!」

「一高万歳ーっ!」


「やめろ! もう何も言わないでくれ!」


 サシャは両手で顔を覆い、その場に膝をついてしまった。


 そこへ、サシャの後ろから、声をかけた者があった。


「……一限が始まるというのに、何の騒ぎだ?」


 中澤教授の声に、皆は一様に静まり返り、慌てて国文の教科書とノートを机の上に広げた。


 サシャが、おそるおそる中澤に振り返った。


 一八八六(明治十九)年の一高創立以来、その校舎に出現したことがないであろうメイド姿の生徒を、中澤はまじまじと見つめた。


「……席に戻りなさい」

「……はい」


 サシャは、その教室にいる全員の視線を浴びながら、さながら十字架を背負ってゴルゴタの丘へ向かうイエス・キリストのごとく、足を引きずりながら、ゆっくりと力なく自席に戻った。


 中澤は、何ごともなかったように教科書を開き、講義を始めた。


 結局その国文の時間じゅう、サシャは、尿意を我慢しているかのように、真っ赤になって震えながら授業を受けていた。


 国文の授業をメイド服姿で受けたという留学生のエピソードは、その後、一高に代々受け継がれていくこととなる。



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