第3話

 エステルにある、アルと祖父セルモの家には、セルモが探索者だったことを印象付けるような持ち物は一切なかった。迷宮に関連するような書籍、物品の類も一切なく、まるでセルモ自身が迷宮の存在を忌避し、そういったものを意識的に遠ざけているようだった。そういった家庭環境もあり、初等教育を受け始める年齢になるまで、アルは迷宮の存在自体を知らなかったのだ。一般的な家庭であれば、初等教育を受ける前までには、迷宮という場所が存在することくらいは子供に伝えるものだが、そういった簡単な情報すら、セルモはアルに対して教えていなかった。初等学校で友人たちから迷宮の話を聞いたアルは、今まで迷宮について知らなかった反動からか、迷宮に対して強い興味を抱いた。ただし、この時のアルは、色々な物を生み出す不思議な場所としての迷宮に興味や好奇心が沸いただけで、迷宮に生涯を掛けたいと思うほどの強い思いは抱いていなかった。この興味と好奇心が探索者に対する憧れに変化するには、何か強いインパクトを与えるものが必要だったのだ。


 その切っ掛けとなるものは、最初から家の中に存在した。家には昔から入室禁止とされている部屋があり、セルモからは、扱いを間違うとケガをするようなものがあるので、部屋には決して入らないよう強く言い含められており、好奇心の強い子供だったアルも部屋の存在が気になってはいたものの、祖父の言付を破ってまで、その部屋に入ることはなかった。言付が破られたのは、セルモの単純なミスが切っ掛けだった。仕事で数日間、家を空ける用事があり、アルを家に残して出掛けることがあったのだが、その際に件の部屋の鍵を閉め忘れてしまったのだ。セルモが出掛けてすぐに、アルは部屋の鍵が掛けられていないことに気付いたものの、初めの内は言付を守って部屋に近付くことはなかった。しかし、好奇心の強い子供に、言付を数日間守り通すことは無理な話だった。初日こそ好奇心の誘惑を退けたが、二日目の朝には、遠慮がちにではあるが開かずの間へと足を踏み入れていた。


 初めて入る、その部屋は、部屋のほとんどが書棚で埋め尽くされており、祖父が言うような危険なものは何もないように見えた。幾つか、セルモが仕事で使用する薬品瓶のらしきものが置かれており、これの事を危険といったのかと考え、なるべく、それには近付かないように慎重に部屋を探索した。


 書棚に置かれた本は、市販されているようなものは少なく、ほとんどがセルモ自身の手で記された迷宮に関する研究記録と手記になっていた。多くの研究書の中でも特にアルの心を強く惹いたものは、迷宮内に点在する遺跡に関する研究だった。迷宮内にある遺跡の詳しい起源は不明で、現在の人類よりも遥かに昔の人々が築いたものであることはわかっているものの、何の目的で迷宮内に築かれたものかはわかっていなかった。遺跡で見つかる古代技術の多くは探索者協会によって接収され、地上の文明の発展に役立てられているようだが、使用法以外不明な遺物が多く、見つかったものを、そのまま利用するしかない事例が多数存在するようだった。手記を読み進めるうちに、セルモが探索者協会の中でも遺跡の探索と研究に力を入れていた探索者だったことがわかり、協会内では「教授」の二つ名で呼ばれる二級探索者であったこともわかった。手記の内容のほとんどは、セルモ自身が足を踏み入れた遺跡の事で占められていて、新たな発見を喜ぶセルモの様子や未知の遺物に対する驚きなどが生き生きと描写されており、まるで自分がその場にいるような高揚感をアルに与えた。アルはセルモが留守の数日間、研究記録と手記に夢中になり寝食も忘れて研究書と手記を読み漁った。その結果、セルモが家に帰ってくるまでには、すっかり探索者という職業に魅了されたのだ。セルモが帰宅した際も、全く気付くことなく読書に没頭していたため、開かずの間に入り込んでいることを見られてしまった。


 セルモは、言付を破ったことついてはアルを叱ったが、手記や研究記録を読んだことについては、特に咎めることはなかった。部屋の中にあった薬品類と、棚に飾られていた幾つかの遺物が地下倉庫に仕舞われた後、開かずの間の入室禁止は解除され、アルは自由に研究記録と手記を読むことを許された。この頃から、セルモによる健康体操なるものの手ほどきも開始されたので、アルが探索者を目指すことを想定していたのかもしれない。この頃のアルは未だ、探索者に対する漠然とした憧れしか持っていなかったが、ある日読んだ手記の中の一文が彼の人生を決定付けた。


「現在、私がいる地点が人類が到達した中で最も深い場所であるが、この迷宮は依然として底を見せていない。きっと、迷宮の果ては、まだ遥か先なのであろう。私が存命の間に迷宮の果てを見ることは叶わないかもしれない。しかし、そこを目指して果てなき旅を続ける者こそが探索者なのだ。私は……」

 アルは、この手記の一文「迷宮の果て」という言葉に衝撃を受けた。果てなど存在せず、延々と続くように思える迷宮にも終わりはあるのだ。誰も見たことはないのだろうが、終わりは存在する。アルはこの時決意した。迷宮の果てを見るのだ、そこに何があるか確かめるために。


「アル、どうした?大丈夫か?」

 下を向いて考え込んでいたアルを見て、ポルトが心配した様子で声を掛けた。


「迷宮の果てが見たいんだ、そこに何があるか知りたいから」

 アルは顔を上げると、ポルトの眼をまっすぐ見て答えた。


「果てねぇ……そんなもんあるのかよ」

「だから、それを調べに行くんだよ。探索者になれば、それが出来る」

「わかったわかった、冷めちまうし、取り合えず飯食おうぜ」

 ポルトの興味は、自分の前に運ばれてきた巨大なハンバーグに移ったようで、ナイフとフォークを手に肉塊と格闘を始めている。


 ポルトの様子を見て、アルも自分の前の日替わり定食に手を付ける、今日の献立は卵料理の様で、大きなオムレツと野菜スープ、パンなどが食膳に並べられていた。ポルトの食べているハンバーグほどではないが、アルの前に置かれたオムレツもかなりの大きさだ。量が多いのがこの店の特徴なのかもしれない。食事を終えるのに一時間以上使い、食後のサービスだと言われ提供された、これまた巨大な野菜ジュースを飲み終わる頃には、店の外が夕陽で赤く染まり始めていた。


「大分時間食っちまったな」

 ポルトが丸くなった腹をなでながらそう言った。


「あの量じゃしょうがないよ」

 アルも普段の倍ぐらいに膨れた腹を見て溜息を吐く。


「エルゴン駅に行くのはまたにするか」

「そうだね、明日はお互い早いし、今日は寮に戻ろうよ」

 そう言って、二人は寮に戻ることにした。寮に向かって歩いていると、こちらに向かって歩いてくる二人の女生徒が見える。すれ違う際に軽く会釈をすると、赤い髪の少女は、軽く手を上げてこちらの挨拶に応え、金髪の少女は胸に手を当てて頭を下げた。


「金髪の方は貴族みたいだな」

 二人の少女がある程度離れたところで、ポルトがそう呟いた。


「え、そうなの?」

「あの会釈の仕方、王都の貴族がするやつだ……貴族様も探索者になんかなるんだな」

 ポルトの口ぶりからして、貴族に対してあまり良い感情はないようだ。


 軽食を買いに行くというポルトと、寮の前で別れ部屋に戻る。シャワーを済ませてベッドに横になると、急に眠気がこみ上げてきた。他にすることもないので、アルは抵抗することなくそのまま眠ることにした。眠る前に誰かの声を聴いた気がしたが、起きる気力もない「悪いけど明日にして……」と呟いたところで意識が途切れた。


 翌朝、寝る時間が早かったせいか、約束の時間よりも大分早く目が覚めた。身支度を整え部屋から出ると、ドアノブに袋が下げられているのが見える。中身はスナック菓子と飲み物で、他にメモが一枚入っている「寝てるみたいだから、ここに置いとく。金は気にしなくていいぞ」眠る前に聞こえた声はポルトのものだったようだ。買い出しに行く機会もあるだろうから、後で何か買って返そうと考え、ポルトの差し入れを有難く貰うことにした。


 階下に降りると、ラウンジになっている玄関横のスペースで、背の高い金髪の青年が新聞を読んでいた。


「お早うございます」

 アルが声を掛けると、青年はこちらに気付いて立ち上がった。


「おはよう、昨日は話す機会がなかったけど、アルケイデス君だったよね?」

「はい、名前が長いのでアルと呼んでください。みんな、そう呼びます」

「わかった、そう呼ばせてもらう。僕はアルフレート・ザウバー、アルフでいいよ。アルだと被っちゃうしね」

 そう言って、アルフは笑顔になる。


「アル君は、今日から指導を受けるのかな?」

「はい、朝から指導教官と会う予定です」

「そうか……僕は明日からみたいなんだ。今日は、指導教官に何か予定があるみたいでね。寮で自習をするようにメモに書かれてたんだ」

「そうなんですか」

 どうも、指導教官によって方針がかなり違うらしいことが伺える。初日からこれだと、アルフの指導教官は放任主義なのかもしれない。


 寮の外に出ると、濃い霧が立ち込めていた。ニュースなどでよく聞く、朝霧の王都という呼び名は伊達ではないらしい。霧を掻き分けるように、昨日見掛けた喫茶店に向かう。通勤時間帯のはずだが、人影はまばらで若い人間はあまりいないようだ。すれ違う時に挨拶をしてくる老人が多いので、歩いている人の多くは近隣の住人なのかもしれないと思った。


 喫茶店に着き、中を確認すると、既にケイロスが窓際の席に座っていた。こちらに気付いたらしく、手を上げて自分の方に来るようにジェスチャーをしている。


「ケイロス先生、お早うございます」

「おはよう、アル。随分早いね」

「昨日、すぐに寝てしまったので、目が覚めちゃいまして」

「初日はそうなることが多いよ。朝食はもう取ったかい?」

「未だです」

「なら、好きな物を頼みなさい」

「良いんですか?」

「弟子に不自由させないのも指導教官の務めさ。セルモ先生にも随分お世話になったよ」

「わかりました。それじゃあ、お言葉に甘えて」

 アルはオリジナルブレンドのコーヒーとホットサンドを注文した。ケイロスも同じものを注文し、メニューを初老の店主に返した。


「ヴラカスには行ってみたのかな?」

 水の入ったグラスに口を付けてから、ケイロスはアルに尋ねた。


「はい、昨日の夕食はヴラカスで取りました」

「量に驚いただろう?」

「ええ……」

 先日の食事を鮮明に思い出し、アルは腹が膨らんだような気分になった。


「その様子だと、洗礼は済んだみたいだね」

「洗礼?」

「これも伝統でね」

 ケイロスが言うには、寮の食堂として利用されているヴラカスは、訓練生の初利用の時には普段より倍近い量を出すのが、伝統になっているらしい。


「普段はあそこまで多くないから、安心しなさい」

「それ聞いてホッとしました。毎回あの量はさすがにきついです」

「毎回、あそこまでの量を平らげる必要はないが、探索者は体が資本だからね、しっかり体を作りなさいというメッセージだと思ってほしい」

「わかりました」

 話しているうちに、食事の用意が出来たようで、テーブルにコーヒーとホットサンドが並べられた。


「食べながらでいいから、聞いて欲しい」

 ホットサンドに手を伸ばしたアルに、ケイロスが話しかける。その言葉にアルがうなづくと、ケイロスは話し始めた。


「今日は、探索者用の装備品を買いに行くつもりでね、装備品の使用法なんかを説明しようと思っている」

「幾ら位掛かりそうですか?」

 セルモに用意してもらった金銭は結構な額だが、探索者用の装備品が、どの程度の値段かは想像もつかない。


「弟子の装備品は師匠が用意するものなんだよ。お金の心配はしなくていい」

 そう言って、ケイロスは静かに微笑んだ。


「流石に、そこまで迷惑を掛けるのは……」

「迷惑だなんて思わないよ、私もセルモ先生に準備していただいたからね。それにね、セルモ先生は私生活にお金を掛けるタイプの人じゃなかったら、わからないだろうが、探索者ってのは大金持ちなんだよ」

「そうなんですか……でも、そこまでしてもらうのは」

「気になるなら、君が収入を得た時に、ヴラカスで何か奢ってくれればいい。店の様子からはわからなかったろうが、あそこは迷宮産の食品を扱う高級飲食店なんだよ」

「あれ、でも定食屋だって言ってませんでした?」

「定食屋なのは本当だよ。ただ、探索者御用達の店って意味でだけどね。店のメニューに値段が書いてなかっただろう?」

「はい」

「扱ってる食品が迷宮産だからね、価格が安定しないから時価なんだよ。財布の中身を気にする人間は、入れないような店なのさ」

 店の中に身なりの良い老人しかいなかった理由がわかった。少しは知っているつもりだったが、探索者というのは想像以上に、とんでもない存在らしい。セルモの手記には迷宮以外のことに関する内容が全くなかったので、探索者の生活について知るには一般の書籍に頼るしかなかったが、探索者の収入は一般人が考えるようなレベルのものではないようだ。


「食事が終わったら、エルゴン駅に向かうよ。駅周辺には探索者用の店が集まっていてね、そこへの行き方を最初の授業にしようと思う」

「わかりました」

 返事をしてすぐに、アルは急いでホットサンドを頬張った。中の具材は魚のようだが、食べたことのある味ではない、もしかするとここも高級店なのかもしれない。味わいたい気持ちもあるが、今は探索者が使う店を見てみたいという気持ちが上回っている。


 ケイロスに窘められつつ、急いで食事を終えると、二人でエルゴン駅へと向かった。

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