第26話

 その日の練習は夕方五時ごろに終わった。いつもより少し軽めの練習。

「わかっていると思うが、明日の試合の先発は向井むかい。勝った場合準決勝まで三日しか空かないから、そこで先発予定の中野なかのは明日の試合ではできるだけ温存するつもりだ。いいな?」

「はい!」

大森おおもりは、いつでも行けるようにしっかり準備しておいてくれ」

 前の試合でいまいちだった俺にも、まだ出番は与えられるらしい。

「はい!」と返事をする。

 その後、改めて集合時間等を確認したあと、解散となる。

「ハル、帰ろうぜ」

 稜人いつひとに声をかけられたが、俺は首を横に振った。

「悪い。ちょっと教室に忘れ物」

「待っとこうか?」

「いや、いい。もう教室閉まってるだろうし、職員室に鍵を取りに行ってまた返しに行かなきゃいけないから、だいぶ待たせそうだし」

「なら明日でいいんじゃね?」

「明日試合だろ」

 あ、そうか、と稜人。

「っていうか、なに忘れたんだ?」

「スマホ」

「ああ」

 腑に落ちたらしい。

「わかった。じゃあ先帰ってるな」

「うん」

 俺は武道場前で着替えを終え、帰り準備を整えてから職員室に向かった。


 職員室の前で、俺はすうっと息を吸いこみ、そして吐いた。

 自分がいまからしようとしていることに対して、覚悟を決めるためだ。いまからの自分の言動が最低だということは理解している。でも、最低であっても最悪だとは思わない。

 そう。柚樹の言った通りだ。野球部は居心地がいい。だから俺は、それを俺が壊してしまうことに我慢ができない。

 ノックして、引き戸を開ける。

「失礼します」

 目的の人物を発見する。

山内やまうち先生」

 声をかけると、振り返る。いつもの疲れた表情。

「どうした、大森」

「すみません、ちょっと相談したいことがあります」

 山内先生はいぶかしむような表情になる。しかし、「わかった」とうなずくと、素直に廊下に出てくる。

 ぜったいにほかのだれかに聞かれたくない話なので、できればどこかの教室を使いたかった。しかし。

「そこでいいか?」

 先生は、職員室前の廊下に並べられた自習用の机を指さす。

 ……まあ、仕方がない。

 仮にも夏休み。しかも夕方五時をまわって、ほとんどの部活が活動を終える時間帯だ。まわりに生徒の姿はないし、構わないか。

「はい」

 うなずいて、先生に続いて俺は椅子に腰を下ろす。

「それで?」と促される。

 俺は真っすぐに先生の目を見る。

「お願いがあります」

「……」

 単刀直入に言う。

「明日の試合、俺を試合に出さないでください」

 ピクリと先生の眉が動いた。

「どういう意味だ?」

「そのままの意味です」

「……」

 俺は叱責されることを覚悟していた。先生が無言の間、どんな言葉だったとしても受け入れようなどと考えていた。

 しかし先生はそうしなかった。がしがしと頭をかいて、ため息をつく。

「じゃあどうしてそんな嘆願をするのか、理由を教えてくれ」

 想定外の反応に、俺は少したじろぐ。しかしあくまで冷静を装う。

「そうすることが、いちばん勝率が高いからです」

「勝率がいちばん高いのがどの選択かなんて、だれにもわからない」

「……だとしても、俺が試合に出場することは勝率を下げることになります」

 先生の声が低くなる。

「同じことを、お前はベンチ入りできなかったほかの部員に対して言えるのか?」

 そんなふうに責められることは覚悟していた。むしろ、理由を聞かれる前にそうなると思っていた。

「それで俺が試合に出ることがなくなるのなら、言えます。自分がどれだけ嫌味な存在かもわかったうえで、言います。三年生たちの夏を終わらせるくらいなら、そっちのほうがずっといい」

 先生は鋭い目で俺をにらんでくる。いままで怒ったところを見たことがなかったが、怒ったらこんな顔をするらしい。

 気圧されて、顔が下を向いてしまう。

 中学の頃と、俺はなにも変わっていない。また繰り返すのは、目に見えている。あのとき俺は、野球部のだれからも心の中で馬鹿にされていた。チームメートと仲違いして、自分の実力で黙らせようなんて思いあがって、その結果失敗して。チームメートも最低だったが、俺も愚かだったのは間違いない。

 いまの野球部はあのときとは違う。だから、俺のせいで試合に負けたとして、それが必死にやった結果ならだれも俺を責めたりしないだろう。

 でもだからこそ、俺は裏切りたくない。裏切るくらいなら、軽蔑されたほうがいい。

 試合に出たくないのに、試合に出る。それは中途半端だ。そんな中途半端な態度でいるから、前の試合のようにチームに迷惑をかける。本当にチームに迷惑をかけたくないのなら、最初から先生にはっきりと言うべきだったのだ。恥も外聞もかなぐり捨てて。

 最悪、野球部を追われてもいい。それすらも覚悟をしていた。

「わかった」

 先生がそうつぶやいて、俺ははっと顔を上げる。

「ほかの部員にどう見られるかを理解しているうえでの、お前のいまの言動だということは理解した。だが俺は、野球部の監督である前に教師だ。お前のその願いを聞き入れるわけにはいかない。明日、おそらく俺はお前を登板させる」

「え」

 愕然とする。

 もう部活に顔を出すなとか、やる気のないやつに用はないとか、そんな言葉がくると思っていた。それで、俺が試合に出場することはないと、そう思っていた。だけど。

「待ってください」

「相手は西国にしこくだ。向井ひとりでどうにかできるかは疑わしい。平井ひらいの調子もあまり良くないし、お前が奮起してくれることが勝利の必要条件だと俺は考える」

「俺は、前の試合でも駄目でした。そもそも、やる気のないやつを試合に出すんですか!」

 ほかの野球部員の気持ちはどうなる。

 いつの間にか、俺のほうが先生を責めている。

「そこまでお前が思い詰めていることに気づけなかったのは、俺の責任だ。すまん。だが、お前が必死に試合に向かう以上、俺は、文句は言わない。ただ、本気で試合を楽しんでくれればそれでいい」

 唇をかむ。

 なんで。

 思いっきり叫びたかった。

 なんでわかってくれないんだよ。

「お前がチームのためを想ってくれていることがわかるくらいには、俺だってお前のことを理解しているつもりだ。だから考え直せ。お前の主張は間違っている。だれにでもわかる簡単なことだ。チームに貢献するもっと単純な方法があると、本当はお前だって気づいているんだろう」

 だれも裏切りたくない。

 だれにも恨まれたくない。

 恥をさらしたくない。

 そんな、子どものような駄々を理性でなんとか押さえつける。

「それじゃ答えになっていません。ほかの部員に示しがつかないでしょう」

「だったら、試合のとき、態度で示せばいい。試合に出てあからさまに手を抜けば、俺もお前を代えざるを得ない」

「……っ」

 ぎりっ、と歯を食いしばる。

 そんなこと、できるわけがないだろう。

 先生はふっと緊張を解く。柔らかい声音で言った。

「悪い。言いすぎたな。とにかく明日に備えて、今日はもうゆっくり休め。お前が思い詰めることは一切ない」

 これで話は終わりだとばかりに、先生は席を立つ。

 去り際、先生はこんな言葉を俺にかけた。

「お前はもっと、本心にしたがうべきだ」


 先生が去ってすぐ、完全下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。俺は立ち上がって、鉛のように重い足を動かす。

 結局、これじゃなんの解決にもなっていない。

 どうすればいいんだろう。

 視界がゆがむ。ふらふらとおぼつかない足取りになる。

 廊下の角を曲がろうとしたところで、だれかと衝突しそうになった。

「あ……」

 その人物と視線が合う。知っている人物だった。

 だけどいまはだれとも話したい気分じゃなかった。それに、そんなに仲のいい相手でもない。俺は無視して、脇をすり抜ける。

 すると、声をかけられた。

「あの、大森くん」

 イライラした。感情が荒んでいる。いまは彼女にあたってしまいそうだから、話したくない。

 俺は吉田よしださんに背を向けたまま、「じゃあ」とだけ言った。そして、歩き出す。

 すると、「待ってください」と言われて、また足が止まる。

「ごめん。いま気分が悪いから」

 だから、話しかけないでほしい。放っておいてほしい。俺はまた歩き出す。

 それでも。

「だから待ってください!」

 今度は腕をつかまれ、引きとめられる。

 鬱陶しく思いながら、反応しないわけにはいかない。

「なんだよ」と振り返る。

 吉田さんは、いまにも泣きそうな顔をしていた。うつむいて、か細い声でつぶやく。

「どうして、あんなことを言ったんですか?」

「あんなこと?」

「試合に出さないでくださいって」

 心臓をつかまれたような気がした。

「……聞いてたのか」

「ごめんなさい」気まずそうに謝って、吉田さんは続ける。「……大森くんがひとりで職員室に行こうとするのが見えたから、明日頑張ってくださいって声をかけようと思ったんです。そしたら」

 俺が先生を呼び出して、最低なお願いをする場面に出くわしたと。

 吉田さんは訊いてくる。

「どうして、あんなことを言ったんですか?」

 俺はぴしゃりと言った。「吉田さんには関係ない」

「そうかもしれません。でも、私は大森くんにあんなことを言ってほしくないんです」

 意味が分からない。

 吉田さんは俺をにらみつけて、声を震わせながら挑発するようなことを言った。

「また、中学のときみたいになるのが怖いんですか?」

 その挑発は、俺の心に間違いなく刺さった。いまの俺を挑発するうえで選ぶ言葉としては正解だった。

「……うるさい」

「確かにあのときはだれも味方がいなかったかもしれません。でも、いまはちがうんですよね。なのに、なにを怖がって――」

 遮るように叫んだ。

「うるさいって言ってるだろ!」

 叫んでしまってからハッとする。

 だけど、いまのは吉田さんも悪い。俺は居心地の悪さを覚えながらごまかすように訊いた。

「なんで、そんなに俺を気にするんだよ」

 思えば、吉田さんは春先、俺に野球部に入ってほしいと話しかけてきたことがあった。そして、いまもこうして俺に話しかけてきている。

「ごめんなさい。自分勝手なのはわかってます。私、最低ですよね」

 吉田さんはそんなふうに自嘲する。

「でも、悔しいじゃないですか。兄があんなふうに悪し様に言われて。それを唯一かばってくれた大森くんが、あんなふうに野球部をやめちゃって。

 応援、したいじゃないですか。また野球を始めてくれて。一年生なのに、ベンチメンバーに選ばれて、試合に出て」

 泣くように笑いながら、吉田さんは言った。

「私は、あなたに楽しそうにしていてほしいんです」

 俺は、驚いていた。吉田さんがそんな気持ちを抱えていたことにじゃない。

「知ってたのか? 吉田先輩が――」

 俺がその先を言い淀むと、吉田さんはあっさりとうなずいた。

「知ってますよ。死んだ兄が嫌われていたことも。大森くんがあえて私にそれを言わなかったことも」

「なんで……」

「野球部のひとたちは知らなかったかもしれないですけど、野球部の部室での声って裏の武道場まで聞こえるんですよ? 兄への悪口は――いえ、あのときの喧嘩の大声は、いやでも私の耳に聞こえてました」


 俺が中学二年の四月末のことだった。大型連休の初日。練習試合で学校に集合していた野球部員に、そのニュースが飛び込んできた。

 吉田暁人よしだあきとが、交通事故に遭い他界した。

 だれもが言葉を失った。

 ほとんどが葬儀にも参列し、悲しみを共有した。はずだった。

 それから約二か月後。ある日の練習の終わりのことだった。

 部室で帰宅準備をしながら、一つ年上の三年生が言った。

「不謹慎だけどさ、あいつがいなくなったおかげで、だいぶ練習が楽になったよな」

 聞き違いかと思った。しかし、むしろその発言に乗っかるような発言が続いていく。

「違いない。ほんと、空気読んでほしかったよな。俺ら、そこまで本気でやるつもりとかないってのに」

 東堂とうどうが同意する。

「あ、それ、俺らも思ってました。マジで吉田先輩、自分勝手すぎるっていうか」

 不快感を隠せずに俺は言っていた。

「やめろ東堂」

「はあ? なんでだよ」

 東堂は俺に不満そうな視線を向けたあと、また三年生たちに話し始める。

「できないやつのことを考えてやれないところとか、ひととしてどうかっていうか」

「だよなあ。確かに野球は上手くても、あれはないわ」

「あいつが全国とか目指すのは勝手だけどさ、俺らを巻き込むなって話だよな」

「つか、確かにあいつは上手かったけど、全国のレベルで見たら全然だろ」

「現実見えてなかったよなー」

「まあ、言っちゃ悪いってことはわかってんだけど、実際そうだよな。あいつがいなくなってずいぶん楽になったよな」

「もう、やめてください」

 少し強く言う。だけど、まったく聞き入れてもらえない。

 東堂がふざけたことを言ってくる。

「おい、ハル。そんないいやつアピールするなって。実際、お前がいちばん被害を被ってただろ。いっつも練習に付き合わされてさ」

「ああ、大森は災難だったよな。よかったな。解放されて」

「お前だって本音はさ、あいつが死んでよかったって――」

 気づけば怒鳴っていた。

「もういいでしょう! やめてください!」

 何人かが笑いながら言い返してくる。

「……おいおい。なに本気になってんだよ」

「そんなマジになんなって」

 頭にきた。

 それから、ただただ怒りのまま喚き散らした。頭が少し冷めたのは、部室に戻ってきた稜人が張り詰めた部室の雰囲気を見て、「なにかあったんすか?」と全員に向かって訊いたときだった。


 それからだ。野球部内で俺の居場所がなくなったのは。

 その件をいじめにつなげるような馬鹿はひとりもいなかったけれど、居心地は確実に悪くなった。さらに、当時すでに俺はチームのエースだったから、それを疎ましく思うやつも増えたはずだ。

 俺は中学時代、吉田さんとはまるで接点がなかったけれど、彼女の兄とはそれなりに深いかかわりがあった。

 確かにあのひとは他人に厳しかった。でもそれ以上に、自分にも厳しかった。練習はきつかったが、一年秋の新人戦で県大会準優勝した記憶は俺の誇りだ。それに、俺はよく意見を戦わせたから知っている。あのひとは話が全く通じない相手ではない。

 正論を体現することは、確かに周囲の人間に劣等感を与える。そのことは俺だって理解しているつもりだ。

 でも。

 だからこそ。

 不満があるなら、直接言うべきなんじゃないのか?

 周囲の人間は、せめて卑怯でいちゃダメなんじゃないのか?

 せめて、正々堂々としていなきゃ、いけないんじゃないのか?

 しかし、そうやって俺が怒ると彼らは言うのだ。

 ――なに本気になってんだよ。


「私は、特に兄と仲が良かったわけではありません。ふつうの兄妹です。でも、亡くなったことを知ったときは泣きましたし、あんなふうに悪口を聞かされるのも……つらかったです」

「……悪い」

「いえ、大森くんが謝ることではありません。あなたがいてくれたことが唯一の救いでした。

 ひいらぎから聞きました。大森くんが怒っているところは、小学一年生からの付き合いでも一度も見たことがないって。あのとき、あなたはその一度をくれたんです(『BUMP OF CHICKEN: 友達の唄』より引用)」

 それは、そんな大げさなものじゃない。俺にとって、怒るほど大事なものがそれほど多くないというただそれだけだ。

「兄から聞いたことがあります。面白い後輩がいるって。いつもはぼうっとしているのに、本当に劣勢のときにマウンドから大声出してチームを鼓舞したって。私はまだ、あなたのそんな姿は見たことがありません」

 思い出したことがあった。結局は負けた試合。悔しかったけれど、最高に楽しい試合だった。

 赤く色づいた空。人気のない校舎は、しだいに影が濃くなってくる。

「あと一度だけでいいです。私の身勝手に付き合ってほしいんです。こんな形であなたが野球から離れるのは兄も望まないと思うんです。そして、私が悔しいんです。

 あと一度、お願いします」

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