第25話
翌日に試合を控えた七月下旬の月曜日。午前中、俺はふつうに授業を受けていた。
何回かの席替えを経て、
「……」
黒板を見るように意識しつつ、なかなか授業に集中できない。気づけば俺の視線は、一つ前の柚樹へと注がれる。
後ろからでは、もちろん柚樹の顔は見えない。しかし、いま俺の目には柚樹の頬袋が見えている。もぐもぐと動いている。
先生がふと、板書からこちらを振り返る。柚樹は口の動きを止める。ただし、頬は膨らんだままだ。先生は訝しげに柚樹を見やるが、また板書に戻る。すると口が動き出す。やがて頬のふくらみがなくなったかと思えば、柚樹は足元に手を伸ばす。足元のリュックからにゅっと飛び出しているのは、フランスパンだ。一口よりもやや大きいサイズにちぎってから口に持っていくと、またパンパンに頬を膨らませて口が動き出す。
いくらなんでも自由すぎるだろう。こいつの後ろの席、目立つからいやなんだけど。
正式には、今日はすでに夏休み。しかし、課外授業という名目の授業が行われている。七月いっぱいは午前中だけとはいえ課外授業があるので、全然夏休みという感じがしない。
正午になると、チャイムが鳴る。
ようやく終わった。
いちおう夏休みなので、ホームルームはない。連絡事項はこの時限担当の教師が授業後に簡潔に行う。
「明日は十時から野球部の試合の応援があるから、教室に七時半集合。いつもとちがうから気をつけるように」
いくつかの視線が俺の机に集まる。前の試合の情けない姿はすでにクラスメートたちの知るところだ。
正直気まずい。活躍していればまたべつだったのかもしれないが、明日試合に出たとしても恥をかく光景しか想像できない。俺は下を向いてその視線をやり過ごす。
そのほかいくつか細かい連絡をして、先生は一年十組の教室を出て行く。そうしてようやく、放課後という雰囲気になる。
原則練習のない月曜だけど、明日が試合なので今日は練習がある。俺は机の上に弁当を広げる。
柚樹が振り返って話しかけてくる。
「なんか注目されてるね、ハル」
「……悪い方にだろ」
「そう? そんなことないと思うけどな」
言って、柚樹はまわりを見回す。俺はそのしぐさにつられないよう意識する。
「ま、気持ちはわかるよ。全員が全員良い注目の仕方をしてるわけじゃないし。実際、全校応援とか面倒だからさっさと負けろって思ってるやつもいるだろうし」
「そりゃ間違いなくいるな」
呪詛の声は野球部じゃなく学校に向けてほしいものだ。少なくとも俺は、全校生徒の前で試合することなど望んじゃいない。
「でも堂々としてればいいさ。恥をかくくらい、不幸でもなんでもない。それを不幸だと思うから不幸になる」
少しムッとした。
「別に、不幸とは思ってない」
「ほんとに?」柚樹はにやりとした。
その量るような態度に、少し不安になって俺は訊いた。
「……俺、そんなに同情を買おうとしてるように見えるか?」
「いいや、そこまでには見えない」柚樹は澄まして答える。「でもね、いまの境遇が恵まれていることに気づいていないようには見える」
「恵まれてるって、俺が?」
「うん。
柚樹の瞳に陰りがさす。
「――それでいいのさ」
※※※
中学校に進学するタイミングで、柚樹は親の仕事の都合で引っ越した。引越し先は同じ福岡県内の田舎だった。
小学生の頃に大遥や剛広たちとソフトボールをしていたので当初は柚樹も野球部に入ろうと考えていたのだが、あいにくその中学校の野球部は部員が五人しかおらず、大会などにはほかの学校との合同チームで臨んでいた。
たった五人、柚樹を入れても六人ではなかなかまともな練習はできない。ほかの部も似たり寄ったりだった。
柚樹は、野球部ではなく陸上部に入部することにした。
もともと走るのは好きだし、得意だった。中学一年の頃からリレーメンバーに選ばれ、三年生たちが引退したあとの新人戦では一年生ながら百メートルで県大会二位の成績をおさめた。加納柚樹の名前が、県内に轟き始める。
そして、中学二年の梅雨の終わりごろ――それは起きた。
柚樹は近所の小学校の体育館に避難していた。氾濫発生情報が出て二時間は過ぎた。にもかかわらず、雨音の激しさに衰えはない。
避難所になっている体育館には、たくさんのひとがいた。あきらめずだれかに連絡を取るひと、すすり泣くひと、ただ呆けるひと、じっと祈るひと。
雨が弱まり、ようやく捜索活動が始まるのと時を同じくして、外がどうなっていたのか、柚樹は初めて知った。
雨は山をえぐり土砂で家を潰した。
雨は川からあふれ地形を削った。
――飲み込まれた命は、五十以上にのぼった。
その光景を見て、柚樹は避難所で祈っていたひとたちの姿を思い出した。神様、どうか助けてください。
その祈りをささげた結末が、これ?
なんだよ、それ。
ふざけんなよ。
――神様なんて、いないんだな。
その一か月後の夏、柚樹は百メートル短距離で全国決勝まで勝ち上がった。結果は三位に終わったが、決勝に残った二年生は柚樹だけだった。
柚樹が思っていたよりもずっと、その結果に周囲は沸き立った。中学校の校舎に垂れ幕がかかって、陸上部に差し入れがされるようになった。あまり柚樹の知らない地元の大人たちからも「頑張ってるねぇ」と声をかけられるようになった。被災した町にとって、唯一と言っていいほどの明るい話題だった。
三年生の最後の中体連こそは、頂点へ。
そんな期待が、かけられていた。
しかし中学二年の三月。進級目前になって、再び引越しが決まった。もともと住んでいたところに戻るのだと言う。
柚樹の父親は県の職員で、柚樹が中学に上がるタイミングで異動が決まり一家で越してきた。しかし中学二年の十二月ごろ、柚樹の祖母が体調を崩し、介護が必要となってしまった。やむを得ない事情があれば、公務員の異動と言えども希望は通りやすくなる。そのため父親がたった二年で以前の職場に戻ることが決まり、柚樹の転校も決まった。
修了式の日。ささやかながら送迎会が教室で開かれた。クラスメートであり、同じ陸上部に所属していた男子生徒が吐き捨てるように言った。
「お前、結局ここを捨てんのかよ」
その一言は、柚樹の中にわだかまっていた罪悪感を間違いなく刺激した。
「ちょっとやめなよ」
「はあ? 間違ってないだろうが。あいつ、去年の中体連で取材受けて、地元に勇気を与えられたらいいですね、とか言いながら、ここを離れるんだぜ?」
はっきり言って、柚樹はその男子生徒とはウマが合わなかった。練習はサボりがちだが運動神経はなかなかのもので、四継ではアンカーを務めている。ただ、態度は横柄。実力があるだけにたちが悪い。
部活で転校することになったと柚樹が告げたとき、彼はこう言った。リレーはどうすんだよ、お前がいないと県に行けねえだろうが。
自分が頑張ろうと思わないあたりが実に彼らしい。
だいたい、柚樹には地元のためになんて気持ちは一切なかった。悲劇を目の当たりにして、部活に集中するのがいちばん楽だったというただそれだけだ。それに。
――地元に勇気を与えられたらいいですね。
この言葉は全国決勝を走り終えた柚樹に記者がぶつけたものであって、柚樹は「そうですね」としか答えていない。決して柚樹が口にした言葉ではなかった。
「だからやめなって」
女子生徒が制止の声をかける。
「なにも間違ったことなんか言ってねえだろ。だいたい、お前らみんなだって少なからずそう思ってるんだろ?」
場がピリッとした。
「口にした俺と、口にしないだけで腹の中ではそう思ってるお前ら。いったいどうちがうんだ。言ってみろよ」
だれも反論しなかった。
柚樹は「トイレに行く」と行って教室を出た。修了式には学校の指定鞄を持ってきていたが、どうせ転校するので使わなくなる鞄だ。それに、どうせ中身はティッシュだの空のクリアファイルだのしか入っていない。
柚樹は、鞄を置いたままひっそりと下校した。それ以来、クラスメートたちとは顔を合わせていない。
中学三年から新しい中学校に通うようになり、大遥や剛広と再会した。陸上部からしきりに勧誘の声がかかったが、すべて断った。なんとなく、また陸上をやる気にはなれなかった。
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