第22話
その日は曇りだった。いまにも崩れそうな天候の中、試合は行われた。
県大会の初戦。優勝、すなわち甲子園まであと四勝。県大会からは全校応援なので、地区予選まではなかった吹奏楽部の演奏が鳴り響く。
先発は
初戦の試合も重要だが、次の試合は優勝候補の一角である
県大会からはすべての試合が同一会場で行われる。だいたい筑後、筑豊、北九州のどこかの球場の年ごとの持ち回りで、今年は北九州だ。勝つたびにわざわざ北九州まで駆け付けないといけないので、全校応援の生徒の中には負けを祈る声も少なくないだろう。向井さんは「テンションが上がる」と言っていたけれど、俺はだだ下がりだ。そりゃもちろんヒーローになれるかもしれないが、逆に恥をさらすことも十分ありうる。むしろ、その可能性のほうが高い。
北九州市民球場のベンチ前に出て、円陣を組んで声出しをする。中心で構えるのは向井さん。
「よっしゃ。頼むぜ、お前ら」
ぐるりとまわりを見回して、中野さんのところで目を止める。
「俺につなげよ」
中野さんは、こくりとうなずく。
それを見てから向井さんは、すうう、と息を吸いこんだ。そして。
「声出してくぞっ!」と絶叫。
その言葉尻にかぶせて、全員が続く。
「おおおおっ!」
たっぷり数秒間声を出し続けたあと、最後に向井さんが叫ぶ。
「ぜったい勝つぞっ!」
「おおっ!」
それだけで、スタンドの全校応援からまばらな拍手が聞こえた。
やがて、四人の審判団が出てくる。
「集合準備お願いします!」
「集合!」
「っしゃあ!」
グラウンドの真ん中に集まる。俺は、ふうーっと息を吐いて、静寂の中号令を待つ。
球審は整列を終えたのをゆっくりと確認してから言った。
「――礼!」
「お願いします!」
試合開始。先攻は福岡南。折尾聖心の先発は背番号一。サイドスローの変則右腕だ。
そして左打席には、小南が入った。地区予選では三年生の
小南は結果でその期待に応えてみせる。フルカウントにもつれ、なおも粘りながら、
そして、小南は初球スチール成功。三年生の
その後、進塁打で二死三塁としてから、六番の
一回裏の折尾聖心の攻撃。こちらも先頭打者が粘り、中野さんは四球を与えてしまう。三点差だが相手ベンチは送りを選択。一死二塁と得点圏に走者が進む。
「一個ずつな!」向井さんがベンチから声を送る。
得点圏に走者を置いて中軸を迎えたが、ここからが中野さんは落ち着いていた。威力のある真っすぐで果敢に内角を攻め、三番を
二回は両校無得点。
三回表。ここでも小南が魅せる。初球。甘めに入ったスライダー。完璧に捉え、ぐんぐんと伸びた打球はフェンスに直撃した。
それだけでは終わらない。
氷見さん、飛高さんにも連打が飛び出し、ここで折尾聖心はエースを降板させる。代わってマウンドに上がったのは、背番号十の左腕だった。
右打席には、二年生の
代わり端の初球。甘く入ってきた真っすぐを思いっきり引っ張った。強い打球は左中間を破り、二人の走者が生還。リードを六点に広げる。後続は打ち取られたものの、三回裏も中野さんが難なく終わらせ、三回終了時点で六対〇とワンサイドゲームの様相を呈していた。
しかし、徐々に流れが変わり始める。
四回表は三者凡退。その裏、中野さんが二つの四球を与えながら無得点で切り抜けたが、五回表も三人で攻撃が終了。三回表から数えて八者連続でアウトを奪われる。
五回裏の聖心の攻撃。安打と四球で無死一、二塁。二ゴロの間に走者がそれぞれ進塁し、一死二、三塁。
俄然、相手ベンチ、スタンドの声援にも熱がこもる。
ブラスバンドの『ルパン三世』のテーマがグラウンドに響く。
初球。真っすぐをファウル。
そして二球目のスライダーが高めに浮いた。聖心の二番打者は上からボールを叩きつけ、鋭い打球は一塁手の飛高さんと二塁手の平井さんの間を抜けていった。一人、二人と走者が帰ってきて、歓声が上がる。
「っしゃあ!」
「ナイバッチ!」
四点差。
こちらのベンチからも声援を送る。
「切り替えな! 次!」
続く打者にも
そして六回表。相手の反撃ムードを削ぐためにも重要なイニング。そのはずだったが、特に相手左腕のチェンジアップに手を焼いた。一死からようやく久しぶりの走者を出したものの、併殺で結局三者凡退。いやな流れが続く。
六回裏。先頭打者を早いカウントで追い込みながら、五球ファウルで粘られ、中野さんは四球で出塁を許してしまう。この時点で球数は百球を超えていた。疲労が見えていた中野さんを代えないわけにはいかなかった。投手の交代は良くも悪くも試合の潮目になる。折尾聖心の三回での投手交代はいい流れを引き寄せたが、福岡南の投手交代は――さらに相手に勢いを与える結果になった。
無死一塁の状況から、マウンドに上がったのは二塁を守っていた三年生の
平井さんは初球で二盗を決められると、決めに行ったフォークを
「っしゃ、続けユウキ!」
「力抜いてな!」
さらに、聖心の応援のボルテージが上がる。
「大丈夫!」
「落ち着いてな!」
バックから声をかけられて、平井さんはマウンド上で一度屈伸をした。多少落ち着いたのか、続く打者にはストライク先行。一ボール二ストライクと早いカウントで追い込む。そして、決め球のフォーク。いい高さ。
がちっというような鈍い音が響いた。
空振りはとれなかったが、先っぽだ。打球は
――ゲッツー!
おそらく田中さんの頭にもそう浮かんだはずだ。捕球したあと、握り損ねた。ボールは無情にも地面に転がり、慌てて田中さんが拾ったときにはすでにオールセーフ。
無死一、二塁。ピンチが拡大する。
「
「次も来るぞ!」
地区予選まではノーエラーだった守備がここに来て、バタバタし始めた。
左打席には九番打者。アウトをとれないまま上位にまわされるのはまずい。
初球。相手打者がセーフティの構えを見せる。
球審の手は上がらない。ボール。いやな揺さぶりだ。
二球目。今度は完全にバントの構えを見せている。平井さんが投球すると、打者はバットを引いて、バスターの構え。しかし、外に外れてボール。
「大丈夫!」
「いいボール行ってるぞ!」
三球目もバントの構え。平井さんが投げると、バットを引いた。バスターだ。今度は思い切り強振。快音を響かせ、打球は一、二塁間を襲った。が、抜けない。二塁手の柴田さんが横っ飛びで打球を止め、膝をついたまま一塁でアウトを取る。
「ナイス、シバ!」
「まずひとつな!」
いまのは大きい。仮にこの走者を還してしまったとしても、まだリードは保てる。
「開き直れよー」
投球練習を中断して、隣でハラハラした様子の向井さんがつぶやいた。俺は試合の様子をちらちら窺いながら、自身の準備に集中する。
「ナイスボール」
仏頂面で言いながら、
カキィンと澄んだ音が響いた。
ぎくりとした。グラウンドを見る。
足が止まり、落ちてきたボールを捕球する。それぞれの走者がスタート。もちろん送球は間に合わない。
犠牲フライで失点。これで、スコアは六対四。
ふうーっと向井さんが息を吐いた。それはそうだろう。フェンスを越えていたら、追いつかれていた。むしろ、一死二、三塁からの一点は想定の範囲内と言える。犠飛で済んで良かったところだろう。
なおも、二死三塁。運が悪ければ仕方ないが、できれば三塁走者を還さずに済ませたい場面。しかし平井さんは大きく枠を外し、四球を与えてしまう。
次は二番打者。初球だった。痛烈な打球は、運よく遊撃手正面のライナーだった。小南は一歩も動くことなく、丁寧に右手を添えてボールをグラブにおさめた。これでスリーアウト。ようやく守備の時間が終わり、ほっと息をつく。
それにしても。
「平井さん、走ってないですね」
そう話しかけると向井さんは渋い顔になる。
「ああ、今日はあんまり良くないな。持ち直せばいいんだけど」
顔を下に向けて引き下がる平井さん。本来なら今日は向井さんの出番はなかったはずだが、そうも言っていられないかもしれない。
七回表。簡単に二死となってしまうが、今日は七番に入っていた平井さんが粘りに粘って四球をもぎ取り、二死一塁の状況。
右打席に
……今日の平井さんは悪すぎる。
ここでベンチが動いた。
正直俺は、向井さんだと思っていた。相手はセンバツ出場のチームを逆転サヨナラで破っている。二点差の終盤。エース温存などと言ってられないはずだ。
――しかしコールされたのは、俺の名前だった。
マウンドに向かい始めてから、心臓が異常な速度で早鐘を打っていた。準備投球が終わってから氷見さんになにか言われたが、なにかを言われたということしか覚えていなかった。
折尾聖心のブラスバンドの演奏が、耳をつんざくように鳴り響く。
そのことから、集中できていないのがわかった。深呼吸をする。
二点差。自分の頭の中で状況を整理する。最悪、この走者を還しても構わない。そもそも俺の出した走者じゃない。情けない考え方だが、そのくらい割り切らないと到底落ち着くことなんてできやしない。
「プレイ!」とコールされる。
「さぁ来い!」
「打たせて来い!」
ふっと息を吐いて初球を投じる。膝を少し上げ、右足を軽く曲げ体重を乗せる。そして、右足親指の付け根あたりに力を籠め、上体を前に移動。「んっ!」と声が漏れた。腕を振り抜く。
真っすぐが高めに外れた。
「いいボール!」
「打たせていいぞ!」
力みすぎだ。だけど、緊張しているときほど、どうなっていたら力が抜けているのかがよくわからない。力みをなくそうとすると、自分の動作が余計わからなくなる。いま、どういう動き方をしている? 頭がかあっと熱くなる。
まずは、息を大きく吸おう。
そして、状況を俯瞰しよう。
そう、一点はいい。当然失点がないほうがあとが楽になるが、俺の仕事はリードを守ることだ。
二塁走者を確認して、クイックで投球。
「ストライーク!」
外低めいっぱい真っすぐ。会心のボール。
際どかっただけに、とってくれて一安心だ。オーケー、そこはストライクだな。
ふわふわと浮遊感はあるものの、なんとかなるような気がした。
氷見さんのサインを確認する。初球とまったく同じボール。
大丈夫。さっきと、同じ感覚で。
二塁走者を確認して、左足を小さく上げる。俺個人の感覚では、クイックというのは焦ってはいけない。外野のバックホームと同じだ。「ぜったいに走者を刺す」と意気込めば意気込むほど、送球はあらぬ方向へとそれるものだ。そう
練習通りに。
そのことだけを念頭に、投球をする。
パァン、と氷見さんのミットが音を鳴らす。球審のコール。
「ストライーク!」
よっし。
もしかして、今日は調子がいい? 珍しいこともあるものだ。
しかし打席には四番打者。簡単にいかない方がいい。一球真っすぐを外し、平然と見送られ、平行カウント。
状況としてはどうだろう。無死二塁。一塁が空いてる状況だけに歩かせてもいい気はする。が、二点差だ。俺個人としては、多少無理してでも勝負に行きたい。走者をためるよりは一点取られる方がまだマシな気がする。
氷見さんはゾーンにカーブを要求する。低め。追い込んでいるだけに、ぜったい間違えちゃいけない。
そのことを強く意識して投球する。と、ワンバウンドになったボールを氷見さんが体で止めた。
くそ。
一瞬顔をしかめそうになったけれど、氷見さんはそれでいいと言うようにうなずいてみせた。これでフルカウント。
次、氷見さんが要求してきたのは、二、三球目と同じアウトローいっぱいの真っすぐ。俺は素直にうなずく。
それが、いちばん確率が高い。
同じ感覚でいい。
モーションに入る。
リリースした瞬間、まったく予想通りのボールが行った感覚があった。氷見さんが、きっちりとミットを止める。まるで、動かす必要など微塵もないと言うように。
俺も、球審のコールを疑っていなかった。しかし――コールはされなかった。
打者は見送って、一塁へと歩き始める。球審を見つめてみても、これといった反応はない。
……ああ、くそっ。そうなるのか! 二、三球目とまったく同じはずなのに!
四球。無死一、二塁。同点の走者。
文句を言いたい気持ちはあったが、そこまでの度胸が俺にあるはずもない。心中でとどめておく。改めて打者に向き直ろうとすると、「タイムお願いします」と氷見さんがマウンドに来た。
「あんまり気にするな。ボール自体は悪くない」
「……はい!」
二度軽くジャンプをして、俺は気を取り直す。
「とりあえず、四球で無駄な走者だけは避けるぞ。同点オッケーだからな」
はい、とうなずく。
「おそらくここは送りだ。素直にさせていい。まずは一つアウトをとるのが最優先だ」
「わかりました」
「けど、点を取られていいってわけじゃないからな」
「わかってます。優先順位があるってことですよね」
ああ、と氷見さんは珍しく微笑して守備位置に戻る。
プレー再開。打席には五番打者。
予想通り、最初から送りバントの構えだ。ヒッティングの可能性もゼロじゃないだろうが、相手の立場からすればまずは同点だろう。さっきの四球がまったくストライクが入らずのものなら様子を見てくるかもしれないが、勝負に行っての四球で、しかも球審さんには悪いがジャッジミスだ。素直に送ってくるだろう。
バントをさせていいというのが氷見さんの指示だ。俺は確実にストライクを取りに行く。
真ん中やや内角気味のボールが、三塁方向に転がる。
「大森! 一つ!」
俺は三塁を見ず、とにかく落ち着いて一塁へ送球。きっちりとアウトを取る。
バント成功。状況は一死、二、三塁。一本で同点の場面になる。
「オッケ、
「打たせていいからな!」
バックの声。特に、小南のにやにやとした表情が目に付く。口角を上げながら、一死を示す人差し指を俺に向ける。
……楽しそうだな、あいつ。こちとら、そんな余裕はないってのに。
ふう、と一息。
同点まではオッケー。
大丈夫。
相手スタンドのブラスバンドから、チャンステーマが流れてくる。一段と声援が大きくなる。
回は七回裏。もうチャンスの数は限られてくる。
「行けるぞ、
「頼むぜ!」
必死。いや、悲痛とさえ言えるような声が届いてくる。左打席からは睨むような眼光。
怖気づくな。追い込まれているのは向こうだ。最悪、こっちには向井さんだって残っている。心配いらない。
走者を確認して、投げる。
チッ、とかすったようなファウル。
「うぉい、いいボール!」
「もう一球!」
打者はフルスイング。俺から見ても力みすぎだ。まともに当たるとは思えない。しかし、異常な緊張感が込み上がる。一発があれば逆転。
頭が熱くなってくる。そこまで気にならなくなってきていたブラスバンドの演奏や声援が、また意識に上ってやけにうるさく感じる。まただ。まずい。集中できていない。
一ストライクからの二球目。真っすぐが大きく外れた。平行カウント。自分でも腕の振りが鈍くなったのがわかった。力みすぎだ。もっと力を抜け。
三球目。鋭く腕を振り抜くことを意識する。カーブ。低めを振ってくれる。
「さぁ追い込んだ!」
「ここで決めよう!」
大丈夫。
そう自分に言い聞かせる。
四球目。アウトコースへの真っすぐ。やや内寄りに入って、弾き返された。キン、という音。ピッチャー返し。
まずい。抜ければ同点。
とっさに足が出ていた。一瞬ひるんだが、構うかとばかりに足を伸ばす。つま先に当たって、ボールが転々とする。
慌ててボールを拾いに向かう。その瞬間、三塁走者がホームへ突っ込むのが見えた。
無理だ。間に合わない。
その考えを裏付けるように氷見さんから、「ファースト!」と怒鳴り声が聞こえた。
ボールを拾う。すぐに一塁へ送球。
パンっと飛高さんのファーストミットにボールがおさまった。タイミングは微妙。
一塁審は水平に手を広げた。
「セーフ! セーフ!」
くっ。
思わず顔をしかめていると、だれかが叫んだ。
「バックホーム!」
その声で我に返る。しかし、二塁走者は三塁を大きく回ったところで止まった。飛高さんがそちらへ牽制すると、三塁に戻る。
飛高さんからボールを受け取ってマウンドに戻る途中、いやでも相手スタンドのわあああっという歓声が聞こえてきた。
一塁から相手選手がガッツポーズをベンチに向ける。
「でかした辻!」
「もう一本行けるぜ!」
呼応するようにベンチやスタンドも盛り上がる。
一点差に迫り、なおも一死一、三塁。
氷見さんがベンチの様子をちらと窺ったのがわかった。
そうだ。もう、向井さんに任せた方がいい。結果がどう転ぶにせよ、ここにいるべきは俺じゃない。そう思って俺もベンチを見たが、とくに動く様子はない。
このままひっくり返されたら。
いやな想像に身がすくむ。
タイムをとって、内野陣がマウンドに集まった。
「足、大丈夫か?」
「はい」俺は何度か軽く跳んで見せて、問題ないことをアピールする。「大丈夫です」
「まだ動かないってことは、先生も同点オッケーってことだ。まず、ここを締めるぞ」
追い詰められているこの状況。罪悪感からか、知れず、「……はい」とか細い返事になってしまった。すると。
「おい!」
氷見さんの鋭い声にびくりと肩が跳ねた。
「気合い入れろよ! ここで、止めるからな!」
「っ! はい!」俺は慌てて強い返事をした。
「まあ、そう言うなよ」飛高さんが氷見さんを窘める。「一年にはきつい展開だろ」
「……」氷見さんはなにも言い返さない。
「
「……わかりました」俺は一度大きく息を吸う。
改めて、氷見さんが内野陣に指示を出す。「基本、スチールは刺しに行くから。小南、ベースカバー頼むぞ。三塁走者がスタートしたのが見えたら、タッチには行かないでバックホームな。確実に刺せる場合はお前の判断に任せる」
「ちゃんと送球頼みますね」小南がにやっとしながら発言した。「じゃなきゃ、ホームに投げらんないんで」
小南の軽口に、氷見さんは不機嫌そうに「わかってるよ」とうなずく。
「じゃ、頼むぜ」
輪が解ける。俺は一度屈伸をして、ふうーっともう一度大きく呼吸をした。
右打席に七番打者。
頭に熱がこもっている。その分だけ、思考が浅くなる。視界が狭い。
落ち着け。
さらにもう一度、深く息をする。
しかし、頭の熱はなくならない。
初球。氷見さんの要求は低めへのカーブ。
ワンバウンド。打者はスイングしていない。一ボール。
二球目。真っすぐ。真ん中高めの浮いたボール。打者はフルスイングで、打球は真後ろに飛んだ。
「おっしい!」
「合ってる合ってる!」
タイミングはドンピシャだった。ファウルになったのは紙一重。そのことを理解しているだけに、俺も息が荒くなる。ゆっくりと呼吸をして落ち着こうと試みる。
それにしても、なかなかスタートを切らない。一死一、三塁のこの状況。しかも相手にとっては一点差ビハインド。一死二、三塁にするのがセオリーだろうに。
三球目。氷見さんから、チェンジアップのサインが出る。今日初めてだ。今日はカーブも上手く決まっていないが、俺にとってはそれ以上に自信のないボールだ。しかもスチールを警戒しているこの状況。
それでも、俺はサインに素直にうなずく。このギリギリの状況で首を横に振る余裕は俺にはない。
モーションに入って、投げる。
まったくの偶然だが、低めに行ってくれた。
完璧にタイミングを外して、空振りを誘う。
「ストライークッ!」
「おっしゃ、いいボール!」
「もう一球!」
「さあ追い込んだ!」
バックが盛り上げてくれる。
よしっ! このストライクは大きい。わずかながら余裕が生まれる。
四球目。氷見さんのミットは外低めいっぱいに構えられる。きっと、いまなら行ける。思い切って腕を振る。
「スチール!」
だれかの声が響く。アウトが増えるなら走られても構わない。
打者は空振り。少なくとも一つのアウトカウントが増えた。
氷見さんが素早く二塁へ送球する。
正直なところ二塁は微妙なタイミングだったと思うが、三塁走者が飛び出すような仕草を見せた。そのせいで小南は二塁ベースから一歩前に出て捕球せざるを得ない。それを確認すると、三塁走者は頭から帰塁した。小南はすぐさま三塁へと送球したが、間に合わない。
三塁審がゆっくりとセーフのジェスチャーを示した。
小南が素直にタッチに行っておけば、刺せたんじゃないかと思わなくもない。
とはいえ、打者は空振り三振。
二死二、三塁へと状況が変わる。
「
「きっちり締めよう!」
走者を確認する。
大丈夫。
初球のチェンジアップが低めに決まる。
「ストライーク!」
ほっと息をつく。下位打線だ。打席には大味なスイングが目立つ八番打者。恐れる必要はない。大胆に。
二球目。もう一球チェンジアップ。これも決まって早くも追い込む。
三球目。高めの真っすぐ。釣り球。しかし、バットにかすってファウル。カウントは二ストライクと変わらず。打席に立つ打者は、ふうーっと大きく息を吐きながら俺をにらみつけてくる。俺はごくりとつばを飲み込む。
四球目。相変わらずカーブが外れて一ボール二ストライク。
おそらくここがこのゲームの最後の山場。ここさえ乗り切れば。
五球目。真っすぐ。インハイのボール。強く腕を振って、投げ込む。
「んっ!」
力んだせいか、声が漏れる。そして――。
キイン。
快音が響いた。外したつもりだった。ファウルにしかならないはずのボールだった。だけど。
だれかが叫んだ。
「レフト!」
打球はまるで力感のない、澄んだ音を残して伸びていく。
伸びる、まだ伸びる。
たぶん俺は、その打球の行方を察していた。だけど、信じたくなくて、信じることができなくて、茫然と打球の行方を見つめる。やめろ。やめろ。
伸びる。
伸びる。
俺の目には、打球がスローモーションのようにゆっくり見えた。
――やがて、打球はフェンスに直撃した。
一瞬、世界から音が消えたようだった。
まるで時間が止まったかのように。
しかし、それは一瞬だけ。
球場内が、大きな歓声に包まれる。
「っしゃあああ!」
「まわれーっ!」
怒号が響く。
空気が振動する。
時間の進み方が元に戻る。
目まぐるしく、状況が動いていく。
三塁走者が生還して、同点。
「まわれまわれっ!」
続いて二塁走者も三塁をまわる。当然返球はない。俺はホームカバーのために捕手の氷見さんの後ろにいた。その位置から、生還して拳を突き上げる走者を視界にとらえる。
そして、
スコアボード。
七回裏の部分に「3」が灯る。
そして、スコア合計は六対七。
逆転の
現実味のないままに、俺はその光景を見つめる。試合が決まったかのように騒ぎ立てる相手ベンチとスタンド。静まり返った自軍ベンチとスタンド。
対照的な光景。
頭が真っ白になる。
味方の沈黙が、心を刺す。顔を上げられない。だれからの視線もが怖かった。野球部のメンバーだけじゃない。今日は全校応援だ。
――俺のせいで。
最大六点あったはずのリード。それを吐き出してしまった。三年生たちのこれまでをすべて台無しにしてしまった。ほかでもない、俺が。
胸に穴が空いたような感じがした。
そのタイミングで先生がベンチから出てきた。
向井さんが出てくる。
数泊遅れて、理解が追いつく。
そうか、交代だ。
ようやくの。
待ち望んでいた、交代だ。
どうして代えてくれなかったんだろう。俺なんかじゃなく、さっさと向井さんに任せておけば、こうなることはなかったんじゃないか。
ボールを渡す瞬間、かろうじて声が出る。
「……すみません」
向井さんは無言で俺の肩をたたいた。
飛高さんが、声をかけてくれる。
「あとは任せろ」
顔を上げず、いや、顔を上げることができないまま、俺は答える。
「……お願いします」
全校応援の前で、これ以上ない醜態だった。
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