四章 私が悔しい

第20話

 六月に入ってもしばらくは晴れが続いていたけれど、半分を過ぎたころから天気が崩れ出し、ほどなく梅雨入りになった。つい最近、大雨の可能性が高いという予報が出て、実際にはそうでもなかったということがあったけれど、石本いしもとさんによれば、『大雨が降るかどうかは全然わからんっすよ。数値モデルで「猛烈な雨」を出しとっても、前なんか十ミリくらいしか降らんかったからですね。もう一般の電話でなんて言っていいかわからんですよ。大森おおもりさんには正直に言えるからいいっすけどね』ということだった。

 どんよりとした雲から絶え間なく雨が降りしきる様子を見ていると、なんだかしんみりとした気持ちになって、時折、夏の気配が恐ろしげにひたひたと忍び寄ってくるような、奇妙な感覚に襲われる。

 俺にとっては最初の夏だけど、三年生にとっては最後の夏だ。区切りが近づいてきていることに対する緊張感が、野球部内にも漂っている。

 今日は六月下旬の月曜日。

 六限の現代文の授業後、俺は一年十組の現代文担当の早川はやかわ先生から廊下に呼び出された。新卒三年目くらいの先生で、しかも美人なので人気のある先生だ。

「どうして、今朝課題を提出しなかったの?」

 先週金曜日が提出期限だった課題のことだ。俺はそれを提出しそびれ、今日の朝一番で必ず提出なさいと厳命されていたにも関わらず、授業が始まる瞬間までそのことを完全に忘れていた。本当に、自分の頭がどうなっているのか不思議でならない。部活のことしか考えてなかった。

「ええと。失念していまして……」

 顔色を窺いながら言い訳すると、早川先生はにっこりとして言う。

「そんなに嫌がらせをするところを見ると、あなた、どうやらよほど私のことが嫌いみたいね」

 ……ははは。これはご冗談を。

 俺はつられて空笑いをしながら、「いえいえ。好きだからこそ、嫌がらせをするんですよ」と男子の馬鹿さ加減を教示した。すると。

「……」

「すみませんでした」

 というわけで、放課後、課題をこなすことになった。

 今日は月曜日。本来であれば、月曜は部活が休みの日となっているので問題ないのだけど、いつかと同じく今日は招集がかけられている。帰りのホームルームが終わり次第、視聴覚室に集合しなければならないのだ。ただその一方で、これ以上早川先生の逆鱗に触れたくはない(まあ、すでに触れているのだが)。

 なので、こうするしかない。

飛高ひだかさんに少し遅れるって伝えといてくれ」

「わかったわかった。いやぁ、さっきのハルとアカネ先生のやりとり、めちゃくちゃ笑えたなぁ」

 くそ、聞いていたのか。言っちゃダメだとは思っていたのだが……しかし、だからこそ言いたくなるのがひとの性というものだろう。

「うるさい。さっさと行け」

「わかったわかった」柚樹ゆずきは忍び笑いをしながら言う。「じゃあ、先行ってるね」

 ちなみに、わざわざ一年十組の教室に迎えに来てくれた清水しみずさんもいる。廊下から聞こえてくる柚樹と清水さんの会話が徐々に遠ざかっていく。

大森おおもりくん、なにかしたの?」

「いやー、ハルって、あんなアホなのになんで友達少ないんだろう」

 柚樹め。言いたい放題言いやがって。

 半ばやけくそで課題にあたる。

 課題は『羅生門』の読書感想文。授業で扱ったので内容は頭に入っている。埋める量は、A4サイズの紙一枚分。そこまで多いわけじゃない。ひとのエゴイズムがうんぬんかんぬん、とわかったふうなことをとりあえず書き連ねていく。

 黙々と書き進める。

「……」

 ひとまず書き終えた。が、ここで迷いが生じてしまう。

 部活があるので、これを読み返すことなくさっさと早川先生に提出したい。しかしその一方で、二度の提出期限を守れなかったのだから、最低限、読めるようなものを提出するべきなのではないか、という思いもある。

 黒板の上の壁掛け時計の針を見つめる。

 もうすぐ十七時になる。ちっちっと進む時計の針。

 うーん。

 腕を組んで、目を閉じて難しい顔になる。

 目を開けると、秒針が一周して、長針がかちりと「Ⅻ」ぴったりを指した。

「あー、くそ」

 仕方ない。

 俺は後者を選択した。自分の書いたA4紙二枚分の読書感想文を読み返す。

「……」

 黙々と修正を入れて、十分くらいで推敲が終わった。

 すぐに職員室に持って行く。その途中、廊下の窓から見える景色は灰色に色づいていた。たまにこういう日がある。昼間なのに、積み重なった雲のせいで日が射しこまず、夜みたいに暗い日が。向こう側の校舎の教室から漏れている明かりが、ぼんやりと温かみのある色で周囲を照らす。

 職員室にたどり着く。

 早川先生がすでに帰っていれば、顔を合わせずに済む。先生の机に、読書感想文を置いておけばそれでいいからだ。その期待を胸に職員室に入室する。

「失礼しまーす」

 果たしてその期待は、見事に裏切られた。早川先生はしっかりと自身の机の前に鎮座しておられた。こちらを見て、「持ってきた?」と尋ねてくる。

「はい」俺は手に持っていた読書感想文を渡す。

「ちょっと待っていなさい」

 いまこの場で読むらしい。

「はい」

 先生はため息交じりに言う。「その心底いやそうな顔をやめなさい」

 おっと。顔に出ていたらしい。

 先生にご高覧賜る間、俺はぼんやりして待つ。


 一分とかからず感想文を読み終えたらしい早川先生は、「はあ」とため息をついた。

「どうして、普段からこれくらい真面目になってくれないのかしら」

 普段も真面目なんですがね。今日が例外なだけで。

「では、確かに受け取りました。もう退出して結構ですよ」

「はい。それでは失礼しました」

「……満面の笑みで言うのもやめなさい」

 まったく。わがままな先生だぜ。せっかく若くて生徒からの人気もあるんだから、もっとにこにこしていたらいいのに。

 そっと職員室の扉を閉めたあと、俺は駆け足で一年十組の教室に戻る。早く視聴覚室に行かなければ。

 しかし教室に入った瞬間、俺はすでに手遅れだったことを知る。

「遅いぞ、大森」

「よりによって今日課題を忘れるって、ハルって案外そういうとこあるよね」

「そうなの? なんか、意外だね」

 柚樹や清水さんだけでなく、河野こうの小南こなみ稜人いつひとと野球部一年全員がいる。

 も、もしかして。

「もう終わったのか?」

 河野が答える。「ああ、もう終わったぞ。ベンチメンバーの発表」

 マジかよ。

 今日は夏の大会のベンチ入りメンバーが発表される大事な日だった。よりによってその日に、俺は教室に居残りしなければならなかった。自業自得なのだが。

「先生、怒ってたぜ? 大森はなにしてるんだって」と小南が笑って言う。

 もし俺がベンチメンバーから漏れていたとすれば、先生は俺の不在など気にかける必要はない。ということは、つまり……。

 清水さんが満面の笑みで告げてくる。

「大森くん、ベンチ入りだよ。小南くんと河野も一緒で。よかったね」

 ……俺だったか。つい顔をしかめてしまっって、河野から呆れ顔で言われる。

「お前、せっかくベンチメンバーに選ばれたってのに、なんて顔してるんだ」

「はは。まあ、それもハルっぽい気もするけどな。いやなのか?」と稜人。

 正直に言えば、いやだ。俺が試合に出ても、失敗する未来しか見えない。

 ただ、さすがに素直にそうとは言いにくい。

 清水さんいわく小南と河野はベンチ入りしたということなので、稜人と柚樹は漏れたということだ。ベンチ入りしたくてもできなかった上級生もいるだろう。それなのに素直に稜人の問いかけを肯定できるほど、俺は無神経じゃない。

「そういうわけじゃない。けど」

「けど?」

「俺が入ったってことはじゃあ、だれがベンチから外れたんだ?」

 河野は、俺の訊きたいことを正しく理解して答えた。

安永やすながさんだ」

 ……そうか、安永さんが外れたか。

 ベンチ入りできる人数は二十人。福岡南ふくおかみなみ高校野球部に投手は三年生一人、二年生二人、そして一年が俺一人で、計四人いる。しかしそれは本職が投手の選手が四人しかいないというだけで、上級生の野手の中には投手を兼任できるひともいる。それを踏まえて、あらかじめ投手四人のうちベンチ入りできるのは多くて三人というのが共通認識だった。

 つまり、少なくとも一人がベンチから外れる。その筆頭は当然ながら俺だと思っていたのだが、外されたのは安永さんだった。

「気にするな」きっぱりと河野は言った。「実力で勝ち取ったんだ。堂々としていろ。安永さんはまだ来年もあるし、そもそもお前が気遣うほうが惨めになる。俺が安永さんの立場なら、ぜったいに気を遣われたくない」

 俺は、なにも言い返せなかった。河野の言うことはまったくもって正しい。うなずくしかない。

「……わかってるよ」


 その日の帰り。春日原かすがばる駅から出たところで稜人が訊いてきた。

「ハルさ、野球部に入るって決めたとき、俺がなんて言ったか覚えてるか?」

 珍しく真面目なのが声だけでわかる。

 なんて言ってたっけな。覚えてるのは。

「中途半端は御免だって言われたっけな」

 もう雨は止んでいる。折り畳み傘をたたんで、指に引っ掛けてぶら下げる。

 ああ、と稜人はうなずく。

「中学んときはさ、ハルの気持ちも分かったよ。お前がいないのに東堂とうどうたちと野球を続けようとは俺も思わなかった」

 野球部をやめると稜人に伝えたとき、稜人はあまりにもあっさりとこう言った。

 ――なら、俺もやめる。

 あの言葉がなければ、稜人がいなければ、俺はきっと負い目に耐えられなかった。野球部をやめたあとの中学校生活が決して苦いだけのものにならなかったのは、稜人がいたからだった。

 でも、と稜人は続ける。「いまはちがう。向井むかいさんたち上級生もそうだし、柚樹も河野も小南も清水ちゃんも、あいつらとはちがう。それだけははっきりと言えるぜ」

 表情がゆがむのが、自分でもわかった。

 俺はかろうじて言う。「知ってる」

 そんなこと、とっくの昔に知っている。

 ふっと稜人は息を吐き出す。「小南ってさ、最近めちゃくちゃ上手くなってるだろ?」

「もとから上手いけどな」

「そう。もとから上手い。そうなんだけどさ、最近さらに上手くなってないか?」

「……そういえば、そうかもな」

 言われてみれば、思い当たる節がある。最近、やけに練習に熱が入っていたな、あいつ。

「だろ? だから俺、言ったことあるんだよ。『試合が近づいてきたから、気合入ってるな』って。そしたらあいつ、なんて言ったと思う?」

「さあ、その通りなんじゃないか?」

 稜人は心底愉快そうに笑った。「『そうじゃなくて、ハルが練習するから』だってよ」

「……は?」間の抜けた声が出る。意味が分からない。

「お前さ、いつもだいたい野球のこと考えてるだろ? 暇があればMLBの動画とか見てるし、部活終わったあとも相変わらず体幹とかいろいろやってるし」

「それは、まあ。……だけどそんなの、小南だってそうだろ。稜人だって」

「そりゃある程度はな。でも正直なところ、俺はお前ほど野球ばかり考え続けてられないかな。たぶん、それは小南も一緒だ」

「そうか?」

 そんなことはないと思うけれど。

 稜人は続ける。「小南はさ、ハルがどうしてあれだけ練習できるのかがわからないんだと。試合に出て活躍したいとか、なんとしてでも試合に勝ちたいだとか、そういう欲がハルには感じられない。あいつには、お前が無欲だと映ってるんだろうぜ」

 ううむ。実際に、俺にはそんな欲はない。だけど、わからない。俺は訊いた。

「……だとして、それがなんで小南が練習により熱を入れてる理由になるんだよ」

「たぶん、小南にはそれがすごいことに映ったんだよ。たとえ頑張る理由がなかったとしても野球にのめりこむこと、それくらい野球が好きでいられること、プロに行ってなおかつ活躍できるやつは、そういうやつばかりなんじゃないか。そういう焦りを生む程度には、すごいことに映ったんだ」

「……」

「まあ、それで小南がやる気になってるのは全然いいんだけどさ」

 そう言いながら、稜人は探るように俺の目をのぞき込む。

「でもハル、お前は無欲なんかじゃないだろ?」

 言葉に詰まる。

 稜人は強い口調で続けた。「無欲で頑張れるやつなんか、いてたまるか。本当は、試合に出て思いっきり野球を楽しみたいんだろ? お前、自分に嘘つくのが上手いもんな」

「俺は……」

 なにかを言わなくてはいけない。そう思って口を開いたのに、続く言葉が見つからない。

「中学のときとはちがう。だれも、お前が失敗することなんて望んでねえよ。それに、自分のせいで負けるのが怖いのは、だれだって一緒だ。お前だけじゃない」

 稜人は空を見上げる。たぶんまだ雲が残っているのだろう。星は一つも見えない。

「だからさ、ハル。――中途半端は、やめようぜ」


  ※※※


 相木あいき稜人いつひとはいらだつ。

 帰宅し、夕飯を済ませたあと、稜人は軽装に着替える。それからカバーに入れたバットを左手に外へ出る。向かう先は稜人の住む家の隣にある小さい公園だ。

 この公園は公民館に併設されており、シーソーやジャングルジム、滑り台といった遊具だけでなく、ゴミ捨て場やテントなんかを収納している倉庫も設置してある。白色の外灯がどこか不気味に公園内を照らしていた。

 その隅の方で、稜人は素振りを始める。特に回数は決めていない。疲れてきて、まともなスイングじゃなくなるまで振る。苛立ちを振り払うように、稜人はバットを振り続ける。

 稜人と寿々春は、もっとも古い付き合いだ。保育所の年少の頃からいまに至るまでの。だからこそ、稜人は寿々春の考えを周囲の人間よりも理解できてしまい、そのたびに苛立ちを募らせる。

 とっくに稜人は知っている。寿々春がと思っていることを。

 頭にくる。稜人は夏の試合に出る権利をもっていなくて、寿々春はその権利を手にしているというのに。

 試合に出たくないなんて気持ちで野球部にいる意味が、はたしてあるのか?

 だから稜人は寿々春に言った。――中途半端は、やめようぜ。

 しかし、その一方で同情の余地があるとも稜人は思っている。だからもどかしくて、さらにイライラが募る。

 中学二年のときの、中体連。あのときの野球部の雰囲気は異常だった。珍しく寿々春が崩れて、それを見たチームメートたちが抱えていたのは焦りでも不安でもなく、呆れだった。もしくは嘲笑。中堅手センターを守っていて、正直見ていられなかった。

 その原因となった場、寿々春が怒りを喚き散らした場に稜人はいなかった。すでに事後、どこか白けた雰囲気を目の当たりにして、「なにかあったんすか?」と稜人は問うた。

 あとで寿々春に話を無理矢理聞き出して、稜人は耳を疑った。

 ――死んでよかった。

 たとえ冗談でもこの言葉をだれかに向けることのできる人間に、ひとの心があるとは思えない。

 以来、寿々春はずっとひとを疑っている。怖がっている。

 気持ちを理解しようとは思える。稜人はその場にいなかった。当事者だからこその苦しみだってあるだろう。

 でも、それがあいつらを裏切っていい理由にはならないはずだ。河野を、小南を、柚樹を、清水ちゃんを、そして俺を。

 ――本当は、だれよりも野球が好きなんだろう? 思いっきり、試合で野球を味わいたいんだろう? だから、未だトラウマを抱えているくせに、野球部にいるんだろう?

 戻って来いよ。俺は、野球を本気で楽しんでいた頃のお前の後ろで中堅手を守りたい。

 稜人は苛立ちを抱えながら、黙々とバットを振り続ける。

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