第12話

「うあー、効くなー」

「効くぜー」

 温泉の中の岩盤にもたれかかって、柚樹ゆずき稜人いつひとがそれぞれ弛緩した声を出す。ほかにだれも客がいないからか、二人は湯船の端と端で大声で言葉を交わす。

「せっかくの露天風呂なのに、なんで河野こうの小南こなみも中の湯船に浸かるかねー」

「あの二人なら、さっきからずっとサウナと水風呂を行き来してるよ。サウナもいいけど、せっかくの温泉ならこっちだよなー」

 な、ハル、と柚樹に水を向けられて、「あー、そうだな」と俺は生返事をする。

 しかし、ぼうっとした頭で俺は、「いまは河野と話したなくないからこれでいい」などと考えていた。俺がマウンドを降りるとき、あいつの目の色が失望に染まっていた気がした。学年ごとに風呂を使う時間が決められていたから従っているけれど、本来なら風呂に入るタイミングもずらしたかった。そしてそんな考えすらも、ため息に紛れてどこかへ消えて行ってしまう。

 そんな俺の様子を不審に思ったのか、「まだ気にしてんの? 明日もまた練習試合あるんだし、さっさと切り替えたほうがいいんじゃない?」と柚樹が言ってくる。

 言われるまでもない。そんなことはわかっている。だけど、まだ自分の中で消化しきれていない。

 柚樹の言葉を無視して、俺は湯船に浸かったまま視線を正面に固定する。頭に乗せたタオルが落ちそうになるので、畳み直してからもう一度頭に乗せる。それから、意味もなく、竹を隙間なく束ねたしきりを見つめる。

 今日の試合、途中出場から四球、安打、四球の後に連打を食らって、その後も四球。一と三分の二イニングを被安打五、四球が四つ、失点六と散々だった。

 どうしてこうなったんだろう。もともと緊張する性質ではあったけれど、中学の頃はここまでひどくはなかった。……いや、最後の試合もこんな感じだったか。

「おーい、ハル、聞いてんの? なに見てんのさ」柚樹は俺の視線の先を見て、ニヤリとした。「ほほう? のぞき穴でも見つけた?」

「そんなわけないだろ」俺は否定する。「……というか、この向こうって女湯なのか?」

 なにを言っているんだと言わんばかりの柚樹。「ふつうに考えればそうだと思うけど」

「……うーん、そうなのか?」

 しきりが一枚だなんて単純な構造ではないと思うけれど、確かに方向としては向こう側が女湯だと考えるのが自然だろう。だとすれば、俺は女湯の方向をじっと見つめ続けていたことになる。それはなんというか、非常に具合が悪い。すっと視線を逸らす。

織絵おりえちゃんとかいま入ってたりして」

安依あいさんもな」

「呼んでみる?」

「そうしてみようぜ」

 うなずいてから、稜人はしきりの向こう側に呼び掛ける。

「あ、おい」

「おーい、織絵ちゃん。いるかー?」

 慌てて止めようとしたが、間に合わなかった。浴場には、稜人の大声が良く響いた。しいん、とする。

「……」

 三人顔を見合わせる。

「反応ないな」

「いないのかな」

 じゃあもう一度、と稜人。んんっと喉を鳴らしてから、妙な声を出す。「おぉーい、織絵ちゃーん」

「馬鹿やめろ」小声で言いながら、俺は今度こそ稜人の口をふさぐ。恥を知らないのか、こいつは。

「おい、やめろハル! 裸で迫ってくるんじゃない! 俺は男に襲われる趣味はないぞ!」まったくと言っていいほど稜人は声量を落とさない。

 対照的に俺は声を殺して、稜人を止めようとする。「うるさいっ。いいから黙れ」

「織絵ちゃん、安依さん、助けてくれーっ! ハルに襲われるー!」

 そんなふうにぎゃあぎゃあと騒いでいると、しきりの向こうから、「うっさい、バカ! 静かにしなさい!」と悲鳴にも似た怒鳴り声が響いてきた。

 それから一拍ほどおいて、クスクスと笑い声も聞こえてくる。

「あ、いた」と柚樹がつぶやいた。

 稜人が間の抜けたことを抜かす。「なんだ、向こうにはほかの客もいたのか」

 なぜそれくらいのことにこいつらは頭が回らないのか。篠原しのはらさんだって、最初は他人のふりを決め込んでいたに違いない。今頃はさぞ居心地が悪いことだろう。

 かわいそうに、と同情していると、がらっと戸が開いた。だれかが露天風呂に入ってきたのだ。見ると、山内やまうち先生だった。俺を含め三人とも固まる。

「はあ、まったく」どうやら、稜人の声が中にまで届いていたらしい。呆れたような目で俺たちを見下ろして、先生は言った。「宿ではしゃぐなと注意しただろう。罰として、向こう一か月のグラウンドの整備当番はお前らだ」

 ……なんで俺まで。


 この遠征では二日目に熊本で試合が組まれているので、秀明館しゅうめいかんとの練習試合の後、野球部は熊本の山鹿やまがに移動して宿をとっていた。当初俺が温泉旅行気分でいたのは、山鹿が温泉地だからだ。のんびりと試合観戦して夜はゆっくりと温泉に浸かるつもりだったのに、試合では炎上するわ温泉では稜人と柚樹のせいで先生に怒られるわで、とんでもない遠征となってしまった。

 マウンドを降りるときは、本当にふがいなかった。後ろを守っていた先輩たちの視線が怖くて、ただただ地面を見てベンチに帰った。

 いったいどんな目で見られているのか。その恐怖で頭の中が塗りつぶされていた。

 降板してベンチに戻ってくると、先生には真っ先に「明日も行くからな。用意しておけよ」と言われた。

 なにを言われたのか一瞬意味が分からなかった。試合を壊した俺になぜ出番が与えられるのか、理解に苦しむ。今日の試合で出番を与えられたにもかかわらず、それをふいにしたのだ。それなのに、稜人や柚樹など試合に出られない部員もいる中でもう一度俺にチャンスを? 

 ふざけんな。

 打ちのめされて余裕のなかった俺は、憎悪といっていいほど激しい憤りを覚えてしまった。つい思いきり先生をにらんでしまうと、先生は短く言った。

「投手が足りない」

 言われてようやく俺は、河野が「向井むかいさんのほかに計算できる投手が必要」と言っていたのを思い出した。今日百球以上を投じた向井さんの出番は明日はない。中野なかのさんも七十球程度。おそらく山内先生の考えでは、明日の試合で長いイニングを投げさせるのは避けさせたいところだろう。

 投手繰りが苦しくなった原因は間違いなく俺にある。思考はぐちゃぐちゃだったけれど、ごくわずかに持ち合わせていたらしい責任感から逃れられず、なんとか俺は「わかりました。すみません」とだけ言葉を返した。


 温泉に浸かってから旅館の売店でコーヒー牛乳を買って、廊下に置かれている作り付けの長椅子に腰掛けてくつろいでいると、ようやく頭の中が整理されてきた。試合になるとどうも視野がぎゅっと狭まってしまう。

 明日はこの旅館の近くの球場に三校が集まって、合同で練習試合を行うらしい。俺が登板する予定なのは、地元の県立高のBチームなのでそこまでレベルの高い相手じゃないはずだ。

 大丈夫。落ち着け。

 目をつむって、そう自分に言い聞かせる。

 でも、失敗したら。

 その想像に身震いしてしまう。膝を抱え込み、ここが廊下だと思い出してすぐに姿勢を元に戻す。こんな情けない姿、だれにも見られてないよな。そう思って左右を見回す。だれもいないことを確認して胸をなでおろすと、自嘲的な笑みがこぼれる。たかが練習試合でなにをこんなにも思い詰めているのだろう、俺は。……本当に情けないな。

 すると、廊下から声が聞こえてきた。

大森おおもり、全然ダメだったな」

 息が止まる。

「練習じゃあ、もうちょっと良かったのに」

「まだ試合は早かったってことか」

「な」

 声が次第に大きくなってくる。こっちに来るとわかって、俺は慌てて売店の脇の共用トイレに入って、声が通り過ぎるのを待つ。

「しかも、それで明日も出番あるんだろ? 今日なんか安永やすながより優先して出番もらってたし、いくらなんでも安永が気の毒だぜ」

「なんで向井さんは、ああも推すんだろうな」

「同じ中学のよしみらしいけど……」

 次第に声が遠ざかる。

 完全に声が聞こえなくなってからも一分ほど待って、まわりにだれもいないことを確認してトイレから出る。椅子の上に自分のスマホを見つけた。そういや、置きっぱなしだったな。

 また椅子に腰を下ろしてから、今度はあまりの情けなさにため息が出る。

 ……なにやってるんだか、俺は。

 そのとき、スマホがブーッとけたたましい音を鳴らして振動した。マナーモードだったので通知音は鳴っていないけれど、木製の堅い椅子だったせいでバイブレーション機能が普段以上に働いてびくっとした。

 ブーッ、ブーッと小刻みに音が鳴る。電話らしい。画面には『向井 当真』という表示。慌てて出る。

「はいはい」

『おーい、大森か?』

「はい。大森です。どうしました」

『外出るから、飯食ったあと、二十一時に玄関前に出て来い』

 はい?

「外、ですか?」

『ああ。部屋にあった雪駄はやめとけよ。それと浴衣も。動きやすい私服も持ってくるように言っただろ?』

 ああ。そういえばそんな謎の指令もあったな。いや、じゃなくて。そんなアドバイスよりもまず先に。俺はもう一度繰り返す。

「外、ですか?」

『ああ』

「なにしに」

『んー、まあ強いて言えばゲンを担ぎに、ってとこか?』

「はあ」

 どうやら教えてくれる気はないらしい。

『ほかの一年もいたほうがいいなら、いまのうちに誘っとけよー。俺、お前以外の一年には声かけてないから』

「はあ」

『じゃ、あとでな』

 通話終了。

 俺は、まるでそれが向井さんであるかのようにスマホの画面を見つめて、つぶやいた。「……なんだったんだ」

 とはいえ、よくわからないけれど、「ほかの一年も――」という言葉については、「お前からほかの一年にも声をかけておけ」という意味にもとれたので、SNSチャットアプリの野球部一年グループに、『向井さんから連絡』『興味あるやつは二十一時に玄関前集合』と投稿しておく。

 早速、稜人から返信。『なんかすんの?』

『さあ』『教えてくれなかった』

『なんだそれ』

『だから、本当に興味のあるやつだけ来ればいいと思う』

『要するに強制じゃないってこと?』

『うん』

 俺以外は、と言ってしまえばだれも来ないような気がしたので言わないことにする。

『了解』

 晩飯を終えたころには既読が「5」となっていたので、とりあえず全員には共有されたらしい。


 さて何人来ることやら、と思っていたら、約束の時間を迎えて旅館の外には十三人の野球部員が集まった。全員、どころか半分もいないが、大所帯だ。向井さんを含め三年生が四人、マネージャーの篠原さんを含めた二年生が三人、一年生はまさかの全員参加。

「お前、思いのほか人望あるのな」と驚いた様子の向井さんに言われる。

 ふつうならその発言には憤りを覚えるべきなのかもしれないが、俺自身もまさか一年全員集まるとは思っていなかったのでなにも言えない。

「まあいいや。行こうぜ」と向井さんは上級生たちに呼びかける。

 一行は、すっかり暗い夜道を歩き始める。外灯が点在し、時折そばを車が通りすぎる側道を進んでいく。先頭を行くのは副主将で正捕手の氷見ひやみさんと部長の平井ひらいさんだ。その後ろに向井さんと二年生女子マネージャーの篠原さんが並び、残りの二年生二人が続く。基本的には三年生が最前列、一年生が最後尾に固まっていたのに、なぜか俺の隣にだけ三年生、主将の飛高ひだかさんがいる。なんで? 俺、あんまり飛高さんと話したことないんだけど。

 ここ最近知ったことだが、野球部では主将と部長がそれぞれいる。主将である飛高さんの役回りは役職名通り練習や試合でのまとめ役、一方部長である平井さんは、体育委員会への出席など事務関連の役割を主に担っているらしい。ちなみに向井さんはエース兼野球部サッカー会会長らしい。よく分からない。

 少し夕立があったようだけど(石本いしもとさんの予想通りだ)、いまはもう、雲ひとつない透明な空に星がちりばめられている。

 温泉で火照った体に、夜風が気持ちよかった。

 飛高さんが話しかけてくる。「初試合だったろ? どうだった」

 飛高さんは河野以上の体格を誇る。男らしい彫りの深い顔立ちと低く体の芯に響くような声とが相まって、なんとなく隣にいるだけで圧倒されてしまいそうになる。それでもあまり緊張しないでいられるのは、飛高さんの気さくな人柄ゆえだろう。

「散々でしたね」

 そう答えると、飛高さんは豪快に笑った。「はっは。そりゃいいな」

 まったく。ひとの失敗を嬉しそうに。

「なんもよくないすよ」

「でも悔しかったんだろ。ならよかったじゃないか」

 どのあたりが「ならよかった」んだ。なんもよくねえよ。

 しだいに道は暗さを増す。先頭の平井さんと、すぐ後ろの篠原さんが懐中電灯で足元を照らしている。平坦、もしくはやや上りになっているような外灯もない道。まるで肝試しだ。

「三年になるとな、悔しさが次につながるなんて思えなくなってくる」低いのに飛高さんの声は不思議と良く響く。「負けるたびに、高校で試合のできる残り回数が頭にちらつくんだ。けっこういやなもんだぞ。それに主将なんて任せられると、素直に悔しがることさえ憚られる」

「そういうもんですか」

 そういうもんだ、と飛高さんは笑った。

 俺はいい加減聞きたかったことを尋ねた。「ところでこれ、どこに行ってるんです?」

「ん、お前知らないで歩いてたのか?」

「そうすね。あと目的も聞いてないです」

「山登りだよ。宿の近くに頂上にでかい石が置いてある山があるらしい。なんかな、すごくバランス悪くたってるふうなのに、ぜったいに動かない石なんだと」

「石? ですか」

「ああ」

 ふむ。パワースポットみたいなものだろうか。

「歩いてどれくらいかかるんすか」

 飛高さんは平然と答える。「一時間くらい」

 マジかよ。石を見るために、温泉に浸かった後に一時間の山登りか。今日の試合、情けない投球をした罰ゲームかなんかだろうか。

 表情に出したつもりはなかったけれど、内心を読まれたらしい。

「まあ、そうめんどくさがるな。いまさら宿に戻る度胸もないだろ」と飛高さん。

 それはまあ、その通りだ。ここにいる全員は、基本的にこのイベントに好意的だからこそ集まったはず。その中で空気を壊してまで帰る度胸は俺にはない。

「だれがどういう理由で企画したんすか」

「えーっと、『だれ』の部分はここにいる三年四人だな。それで理由は……そうだな」少し考えるような間の後、飛高さんはこう続けた。「山内先生がうちのOBで、甲子園に出た話は知ってるよな」

「えっ」思わず声が漏れた。初めて聞く話だ。

 飛高さんは俺の反応を見て意外そうに首を傾げた。「ん、知らなかったか」

「え、ええ」驚きを隠せないまま俺はうなずく。「初耳です」

「なんだ、そうだったのか。実はあのひと、ああ見えてだいぶ熱いクチなんだよ」それで、と飛高さんは話を仕切り直す。「先生が学生のときだから、もう十五年くらい前だろうな。そのときも山鹿の球場で練習試合があったらしくってさ。夜、宿を抜け出して、近くの山の頂上の動かずの石ってやつと、ついでに麓の神社に参ってきたんだと」

「へえ」

「そしてその夏、チームは甲子園に出場した」

 なるほど。向井さんが言っていた言葉の意味が分かった。

「それでゲンを担ごうってわけすか」

「ま、そういうことだな」

 ふむ。

「勝手なイメージですけど、飛高さんたちがそういうのを大事にするのはなんか意外すね」

「そうか?」

「はい。まあ、偏見なんすけど」

「はは、ひとより図体もでかいしな。そりゃ繊細には見えんだろう。実際、それで当たってる」

「あれ、そうなんすね」

「ああ。パワースポットやら必勝祈願やらの御利益なんかには、これっぽちも恃んじゃいないしな。なにかにつけて目に見えないものを頼ったところで仕方がないだろう」

「? じゃあなんでですか」

 こうやってたかが石ころを見に行くのは。

 そうだな、とつぶやいて飛高さんは夜空を見上げた。つられて俺も見上げると、驚くほどに満天の星々が散らばっていた。目が慣れていなかったのか、いままで気づかなかった。懐中電灯で足元を照らしていてこれなのだから、消灯すればもっと見えるのだろうか。

 やや沈黙があって飛高さんは言った。

「言ってみれば思い出作りだな。せっかくの遠征だし」

 少し拍子抜けする。「思い出作りすか」

 ああ、と飛高さんはうなずく。「一つ上の先輩が言ってたんだが、大学に行ってこれまでみたいに真剣に野球をしなくなると、悔しさで泣いた記憶すらもまぶしく思えるらしいんだよな。中には野球にこれほど打ち込むことを『無駄だ、馬鹿げている』と思うやつもいるのかもしれんが、いまこの高校生としての一瞬を本気でなにかに懸けているということには、俺たち高校生が思っている以上に意味があるらしい」

 ――そんなに本気になんなよ。

 だれかの声が思い出される。

「だからその、なんだ。こういうクサいと思えるようなことでも、残しておきたいと思ったんだ。理由になってないかもしれんが」

 飛高さんのその、照れたようなどこか締まらない言葉は、俺の耳にはもはや届いていなかった。気づけば俺は、問うていた。

「本気になることを馬鹿にされることが、怖くはないんですか」

 飛高さんはまじまじと俺を見た。俺は、「やっぱり訊かなければよかった」という後悔に駆られて飛高さんから視線を外してしまう。

「怖いのは怖いだろうが……」と飛高さんは言った。真剣な声だった。「これまで必死にやってこなければ、いまのまわりとの関係性だとかもろもろがすべて変わっていたんじゃないかと思う」

 俺は顔を上げる。「関係性……」

「ああ。少なくとも、甲子園を目指さなければ、こうやって特別気の合うやつらを引き連れて、『甲子園に行けますように』とゲン担ぎのためだけに夜中に山登りするなんて真似はしなかっただろう」

 確かに野球部に入らなければ、ここまで河野や小南たちとも関わることはなかった。

「仮に過去に戻れて、もう一度甲子園を必死に目指すか否かを選択できたとしても、俺はきっと同じ道を選ぶ。甲子園に行けなかったとしてもな。野球部に入らず手を抜いて生きてる俺よりも、いまの野球に懸けてる俺のほうがずっとマシだと思えるからだ。たとえ馬鹿にされたところで、必死に野球に懸けている俺以上にマシな自分を俺は知らん」

 あっけらかんと飛高さんは言い切ってしまう。

「あいにく、ほかの道を選びようがないな」

 俺は唖然としてしまう。

 まだ道は長く、山の影はすぐそこに浮かび上がっているようだけれど、麓まではまだ少々距離がある。

「ほかの選択肢もあったのに、と思うこともないんですか」

「ないこともないが……タイムリープして人生をやり直した話って、結局皮肉めいたオチが待っているというのがありがちじゃないか? やり直した道が上手くいくと簡単に思える気持ちのほうが俺にはわからん。

 案外、ひとは今現在までに最善の選択をしていて、今現在以降はその選択が最善であったことを証明するために必死に生きるんだと思う。それが、たとえば夢を追うことを諦めるという決断であったとしても、だ」

「はあ」

 飛高さんの言葉を聞いていて去来してきたのは、失望感だった。やっぱり、きれいごとじゃないか。

 俺には、後悔ばかりだ。中学で野球部をやめたときだって、俺がもっと強ければやめる必要なんてなかった。あとになって思えば、やめたことにより自分の非を認めてしまったようで。

 いまだにあの選択を後悔している。あれが最善だったなんて、思えないし思いたくもない。

 でも、失望とは違う感情もあった。それは腹立ちだった。飛高さんに対してじゃない。自分に対してだ。

 かつてのあの選択は、間違いなく最善じゃなかった。だけど、選択を後悔していまをこれ以上悪くするべきじゃないのも確かだ。

 たった一度の失敗で俺はなにをくよくよしていたのだろう。

 あの失敗があったからこそ成長できた。そう言うために、俺は頑張らないといけないんじゃないのか? 失敗が良かったと思わなくていい。でも、失敗を必要以上に引きずってもしょうがない。

 やっぱり野球部に入部したのは間違いだったなどと、決めつけようとしてはいなかったか? それも、河野や小南、向井さんら、誘ってくれたひとたちのせいにして。その選択をしたのはほかならぬ自分のはずなのに。

 先ほど旅館で聞こえてきた陰口だって、本当は陰口と呼べるものでもない。実力のない俺が試合に出ていることに対して、不満があるのは当然だ。加えて俺は、上級生たちとそこまで密にコミュニケーションをとってきたわけでもない。よくわからないやつがなぜか優遇されていれば、そりゃ不満にも思うだろう。

 なのに俺は、中学時代の苦い思い出と重ね合わせて、あまつさえ勝手に被害者意識を持っていなかったか? 悪いのは、信頼を得ていない俺だ。先輩たちから信頼を得られるほど日ごろのふるまいが良かったとは我ながら思えない。

「……俺、やっぱり戻っちゃダメですかね」

 なんだか、無性に走りたくなってきた。いまさら、ふつふつと込みあがってくる感情がある。

 そうだ、負けるってこんな感じだった。そんな当たり前のことさえ、俺は忘れていたのか。

「はあ? いまさらどうした」と飛高さん。

「いや、なんというか、こんなふうに山道を歩いてる場合じゃない気がしてきました。体を動かしたいというか」

 飛高さんはまじまじと俺を見て、ぷっと吹き出す。

 つい俺はむっとしてしまう。「……なんすか」

「いや、悪い悪い。お前にも、そういうところがあるのかと思ってな」

「……べつにいいでしょう」

「ああ。もちろんけっこうだ。だけどな、今日はもうやめとけ。負けたときに体を動かして気持ちをリセットしたいのはわかるが、我慢して明日に備えるべきだ」

「それは……きついすね」

「はっは。それも負けた罰だ。甘んじて受け入れろ」

 いよいよ目の前に竹藪が広がってくる。山道だ。


 こう言ってはなんだけれど、一時間も歩いて見に来たわりには、大したことがないなというのが感想だった。

 山の頂上には木造りのこじんまりとした祠があって、その中に注連縄をぐるりと巻き付けられた石が鎮座していた。最初、これが本当に「動かずの石」なのかどうかわからなかったほどだ。

「うっわあ、しょぼ」

「石よりむしろ星のがいいよなぁ」

 勝手に期待しておいて、思い思いに勝手なことを口にする。向井さんにいたっては、「これ動くじゃん」と石を揺さぶるという暴挙に及んでいる。罰でも当たればいいのに。

 ただ、頭上の光景は確かに壮観だった。遠くにあるはずの街の明かりが乏しいのもあってか、いつも見ている夜空よりずっと星が多く輝いている。満天の星空だ。それだけで、いいところだな、などと思ってしまう。

 山の頂上から少し下りたところに、展望台のある広場があった。せっかくなので行ってみる。崖の手前につくられている柵に腕を預けて真下に目を向けると、深い暗闇が広がっていて少しぞっとする。

 ふっと息を吐く。

 今日はもうやめとけ、と飛高さんには言われた。でもまだ、明日に向けてできることがあるはずだ。

 ざあっと風が吹いた。目を細めたせいで視界がぼやける。外灯もない真っ暗な世界。ぼやけて見えるのは、星明り以外になにもない。

 どんなに明日が来てほしくなくても、どうせ夜は明けてしまって、呆れるほど簡単に日はのぼってくる。

 だったら。

 しょうがないから、いまは前を見据えよう。

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