一章 俺が納得いっていない

第2話

 福岡南ふくおかみなみ高校の入学式から二週間ほどが経過した、とある日の昼休み。俺は高校から親しくなった友人の加納柚樹かのうゆずきと向き合って、昼食をとっていた。

「うーん、気づけば下旬だなー」空になった弁当を鞄にしまい、伸びをしながら柚樹は言った。男にしてはやや高めな声で続ける。「なんか、高校って案外ふつうだなあ」

 教室内には、柚樹と俺のように昼食をとっている生徒の姿が大半を占めている。まだ一年生の最初だ。上級生が多い食堂を使うのは皆ためらわれるらしい。

 俺はごくりと煮物を飲み込んでからうなずく。「そうだな。安心した」

 柚樹は不満そうに眉根を寄せる。「安心? 幻滅じゃなくて?」

「なんで幻滅するんだよ」

「だって、バラ色の高校生活じゃん。多少は劇的であってほしいというかさ」

 気持ちはわからないでもないけれど。

「でもなんだかんだ言って、結局は平穏がいちばんじゃないか?」

「ダメだよダメ。そんな『世の中斜めから見てます』みたいなやつに限って、青春しとけばよかったって後悔することになるんだよ」

 なんだかとげのある言い方だ。

「でも、望んだからってバラ色に色づくわけでもないだろ」

 というか、柚樹はすでにクラス内でも目立つ存在だ。俺からすれば、柚樹の今後の高校生活がバラ色であるだろうということは想像に難くない。

「それも結局はなにも得られないやつの理論なんだよ。『為せば成る』とは言わないけど、『為さねば成らぬ』はその通りでしょ」

「……とは限らないだろうけど、まあ、為そうとせずして成るっていう期待はおこがましい期待だろうな」

 ようやく俺も弁当を食べ終わる。残りの米粒を一粒一粒せっせと口に運んでから、「で? なにか為そうとする当てはあるのか?」と訊いてみる。

 ぐでっと机の上に突っ伏す柚樹。「それがないんだよねぇ」

「中学のときはスプリントやってたんだろ? 陸上部じゃダメなのか」

 柚樹は後頭部を見せたまま、「それはない。ぜったいに」と言った。それから少し頭を傾けて、「……というか、ハルはなにかやってなかったの?」と訊いてくる。

「なにかって?」

「いや、俺が短距離やってたのは話したけど、そういえばハルがなんかやってたかどうかは聞いてないなって思って」

 俺はちらりと窓の外を見やる。窓の外には、すっかり若葉色が多くなり見栄えの悪くなった桜が、一本だけ立っている。

「俺は」答えようかどうか一瞬迷ったせいで、少し言葉を切ってしまった。「野球部だった」

「へえ、野球か」柚樹は目を丸くして顔を上げる。それから楽しそうにこう続けた。「そういや、俺の中学の同期も野球部に二人いるんだよね。あの二人がいるんなら、野球部も楽しそうだな」

「へえ。知り合いがいるんなら、初心者でも多少はハードルが下がるだろうし、行ってみたらいいんじゃないか?」

 その言い方に違和感があったのか、「あれ、ハルはしないの? 野球」と柚樹は訊いてきた。

「俺はいいかな。中学のときも途中で野球部をやめたし。いまさらだ」

「じゃあ、本当になんにもしないのか」

「かも」

「ふうん。つまんないな」

 俺は苦笑した。

「べつに、柚樹がつまんないわけじゃないだろ」


 その日の放課後。昼間は曇り空だったけれど、だんだんと雲の色が暗くなってきたと思ったらついには、六限の終わりごろにぽつぽつと雨が降り始めてしまった。この春はやけに天気の悪い日が多い。

 後ろから柚樹が話しかけてくる。

「俺、今日は野球部の見学に行こうと思うんだけど、ハルも来ない?」

 俺は視線を流して窓の外を促す。

「この雨なのに行くのか?」

 柚樹は俺の目を見たままうなずく。「そりゃそうだよ。むしろ雨の日のほうがその部活の本気度がわかりそうなものじゃん」

「本気度?」

「ああ。やっぱり部活をするんなら、全国を目指すくらいじゃないと意味がない」

「……こんな県立の進学校に、そんな部活があるか?」

 そう指摘すると柚樹は少し眉根を寄せた。「うーん、そうかもしれないんだけどさ。でも、本気じゃない部活にわざわざあいつらが入るとは思えないんだよね」

 あいつらというのは、昼休みに言っていた同じ中学の同期だとかいう二人のことだろう。

 正直なところ、俺はあまり高校野球を見ないのでここ福岡県の高校野球の勢力図がどうなっているかはほとんど知らない。もちろん、甲子園や神宮大会で上位に勝ち進むような全国的に有名な学校なら知っている。けれど、この福岡南高校は県立にしては強いというくらいのイメージならなんとなくあるが、たぶんそこまでの強豪校ではない。少なくとも、ここ数年は甲子園に出場していないはずだ。

 なので、俺は柚樹の言うことをあまり真に受けなかった。

「ふうん。ま、どちらにせよ、俺は行かないよ」

「ちぇっ。せっかく楽しそうなのに」

 不満そうに柚樹が舌打ちをするのに苦笑を返してから、「じゃあな」と俺はリュックを背負って教室を出る。

 さっさと帰ろう。そう思って校舎を出ようとしたところで、雨足が激しくなってきた。アスファルトの上にたまった水たまりに、雨粒が激しく打ち付ける。

 ……まったく、間の悪いことだ。ひとつため息をついて、俺は方針を変更する。

 学校に残っていてもすることがないから帰ろうと思ったけれど、帰宅したところですることがないのは同じなのだ。このタイミングで下校しても安物のスニーカーと制服の裾をずぶぬれにするだけ。

 それならば、と、雨が止まずとも弱くなるまで暇をつぶそうと思って、俺は図書室に向かうことにした。

 図書室は校舎内ではなく別館にあり、別館は正門の近くにあるので、そこまでの進路変更は必要ない。俺は吹き抜けの連絡廊下を通って、別館に向かう。

 いくつかの雨粒が、風に乗って吹き付けてくる。そこまで濡れるわけではないので、とくに気にしない。雨の風景を眺めながら、そういえば、「野球部」という単語を口にしたのは久しぶりだな、と気づく。

 中学の頃に所属していた野球部。

 いい思い出もあるけれど、どちらかと言うと思い出したくないことのほうが多い。とくに稜人と話すときは、互いに意図的にその話題を避けていたように思う。

 野球は好きだ。見るのもやるのも好きだ。中学二年のときに野球部をやめてからも、プロ野球やMLBの試合はそれなりによく見ている。野球部をやめたのはまあ、端的に言って人間関係が原因だった。野球をやるのがいやでやめたわけじゃないので、久しぶりに野球をやりたい気持ちは確かにある。

 だから、柚樹が誘ってくれたのは、実は本当にありがたいことだった。野球をまた始めるきっかけになってくれる言葉だったから。

 でも。

 いまさらだ。

 二年もブランクがあるし、ひどくいまさらだ。

 どうしようもなく、熱が欠けている。

 いまの俺、というかあのときの俺は、野球部をやめてどこかほっとしていたところさえある。

 このぬるま湯から、わざわざ出る気にはなれない。いまの心情を端的かつ正確に言い表すのなら、「億劫」なのだ、いまの俺は。

 どうしようもなく野球部に入るのがいやというほどではないけれど、野球部をやめるきっかけになったような面倒な出来事に遭遇するのが、億劫なのだ。


 図書室には、すでに少なくない学生がいた。偶然なのか、俺と同じで雨に濡れるのを嫌った学生が多いのかはわからない。しかし、空席がないわけじゃない。

 棚から適当な文庫本をとりだして、正面にだれもいない席を選んで、座って読み始める。

 選んだのは、以前読んだことのある本だった。きっと、なんだか胸がざわざわしていたから、ほっとしたかったんだと思う。その小説は、ただただ夜通し歩くだけの話。高校生活の思い出を仲間と語らいながら、一日中歩くだけの、ものすごく平坦な話。でもその思い出は陰影に富んでいて、清々しさと煌めきに満ちている話だ。


 のめりこんでしばらくの間読みふけっていると、ふと正面にだれかいるのに気づいて顔を上げる。いつの間にやら、女子生徒が正面の席に座っていた。そしてなぜか、じっと俺の顔をのぞきこんでいる。

 なんだなんだ、と一瞬思う。それと同時に、図書室の利用者が目の前の女子生徒と俺以外、いつの間にかだれもいなくなっていたことに気づいた。図書室の壁掛け時計を確認すると、すでに十九時をまわっている。しまった、いつの間に、と思っていると、女子生徒が話しかけてきた。

「全然気づかないから、いつ気づくんだろうと思ってました」

 知った顔だった。ただ知ってはいても、知っているだけで話したことはなかった。

「ええと、いつからいたんだ?」

「んー、五分くらい前からです。その様子だと、ひとりになっているのにも気づいてなかったでしょう?」ぱっちりとした目が、悪戯っぽく弧を描く。

 窓の外はすっかり暗くなっている。暗いせいで雨粒がつくる斜線はよく見えないけれど、さっき帰ろうとしたときよりは弱くなっているような気がする。

 俺は改めて、目の前の女子生徒に目を向ける。ぱっちりとした目。ふわふわとした薄く茶色がかった髪。会うのはたぶん、あの合格発表のとき以来。

 まず確認する。

吉田よしださん、だよな?」

 彼女は微笑みを浮かべたままうなずく。

「はい。知ってくれていたんですね、大森おおもりくん」

 そりゃ、まあ。

 俺は気まずくて目をそらす。

 ……そりゃまあ、中学の頃も見かけたことくらいはあるし。

「それで、俺になにか用?」

「ええまあ。用ってほどでもないんですけど」

 吉田さんの後ろのほうが視界に入る。図書委員の女子生徒と司書の先生がこちらを見ていた。俺と目が合うと、二人とも目をそらす。なにか勘違いでもされていそうで、少し居心地が悪い。

「もう遅いし、帰りながらでもいいか? 帰り、電車だよな?」

「はい、大丈夫です。ちょうど帰るところだったので」

 清水さんは少し体をよじって背負っているリュックを見せてくる。

「じゃあ、行くか」

 俺も足元にある自分のリュックを背負って、吉田さんと連れ立って図書室を出た。


 雨は小雨になっていた。傘を差そうかどうか迷う。でも、差さなければ駅まで歩いているうちに結局ずぶ濡れになっている気もする。なので俺は折り畳みの傘を広げた。一方で、臙脂色というのだろうか、サツマイモ色のような少し和風を感じさせる色合いの傘を広げながら、吉田さんが訊いてくる。

「天気予報、見ない派ですか?」

 きょとんとしてしまう。「ええと、なんで?」

「いえ、今日午後から降水確率八十パーセントだったので。それでも折り畳みなのは、普段から天気予報を見ないで折り畳み傘を常備しているからかなって」

「うん。まあ、合ってる」

 彼女は微笑を浮かべて言った。「兄がそうだったので」

 一瞬言葉に詰まる。俺はなんとか、「……ふうん、そうか」とだけ返した。

 県道沿いは車の往来が多い。日が沈んだあとの曇り空でも、ヘッドライドが行き交っていて、極端に暗いとは感じない。しばらくは適当な雑談をした。吉田さんは一年四組で、どうやら剣道部に入ったらしい。俺のほうは一年十組で、部活はいまのところ入るつもりはないけれど、そのうちどこかに入るかもしれないと話した。

 ラーメン屋のところで道を左に折れる。県道から外れると、途端に光量が減って音も少なくなる。

 静かになったところでようやく、吉田さんが切り出した。

「私、今日は大森くんに訊きたいことがあったんです」

 赤信号で足を止める。すると彼女は傘を傾け、俺のほうに向き直る。そしてしっかりと目を合わせてくる。

「大森くん、野球部には入らないんですか?」

 予想外の内容に、少なからず俺は驚いた。彼女がなぜそんなことを訊くのかわからない。

 大きなトラックが目の前を通り過ぎていった。エンジン音が十分遠ざかってから、俺は訊き返した。

「なんで、そんなことを訊きたいんだ?」

 吉田さんは少し躊躇してから言った。

「あなたに、野球をしてほしいと思ったからです」

 ……それじゃ答えにはなっていない。

 もしかしたら彼女は、俺が中学のときに野球部に所属していたことを知っているのかもしれない。俺だって吉田さんが中学のときに剣道部だったことを、言われてみればなんとなく覚えていた。だからその逆だってあってもおかしくはない。ならば、確かに高校で野球部に入る気のない俺に対して、「あれ?」と思うくらいなら不自然じゃないのかもしれない。

 そう、それだけだったら説明がつく。おかしいのは、彼女がそれをわざわざ俺に、直接尋ねてきたことだ。

 吉田さんと俺は、中学の頃、とくに親しかったわけじゃない。俺のほうは存在を知っている程度だったし、彼女からしてもそれは変わらないだろう。なにしろ、話したのも今日が初めてなのだ。そんな彼女がどうして俺の動向を気にするのか、それが分からない。

「なんでそんなことを思うんだ?」

 そう訊いても、彼女は理由を説明することなく、逆に問いを重ねてくる。

「野球をする気、ないんですか?」

 少しむっとする。俺の質問に答えてくれないのに、自分の質問に答えてもらえると思うのは都合がいいんじゃないか?

 とはいえ、そこまでこだわることでもない。面倒なので俺は先に吉田さんの質問に答えることにする。

「野球はやらないよ。もう」

 彼女は顔を傘で隠して、「そうですか。残念です」とかすれた小さい声で言った。

 歩行者信号が青になる。

「すみません。私の用はこれで済んだのでそれじゃ」

「え?」

 すたすたと横断歩道を歩いて行ってしまう。俺は馬鹿みたいに、ポカンとその小さい背中を眺めていた。

「……え?」

 短い横断歩道だ。吉田さんが渡り終える前には信号は点滅し始め、やがて赤に変わる。こちら側に渡ってきたひとたちから奇異の視線を向けられる。

 ……まあ、一緒に帰る約束をしたわけでもないし、そういう間柄でもない。それに、彼女と一緒に帰路をともにしたいわけでもない。なら、彼女のこの対応も薄情ではないということか。

 釈然としない気分を抱えながらも、俺は再び信号が青になるのを待って、やがて歩き出す。

 視線のずっと先で、吉田さんが駅の構内に入っていくのが見えた。


 ※※※


 吉田楓よしだかえではため息をついた。

 駅の構内に入るときちらと後ろを振り返ると、彼はまだ交差点の向こう側にいた。追ってきてくれないかな。一瞬でも、そんなことを考えてしまった自分を恥じてしまう。

 でも、私だって勇気を出して声をかけたわけなのに、もう少し考えてくれても。

 駅の構内には、文房具店、ドラッグストア、アパレル店、ファストフード店などが入っている。それらを横目に楓は帰路を急ぐ。

 別れたあとに再び彼と合流してしまうのはとても具合が悪い。電光掲示板には二分後に下りの電車が出ると表示されている。それに間に合えば、おそらくまた顔を合わせずに済む。

 楓は急ぎ足で階段を上がって、なんとか目当ての電車に間に合った。多少ながら余裕を持って車両に乗り込む。やがて、扉が閉まる。

 扉が閉まってから電車が動き出そうとするそのタイミングで、息せき切らした様子の彼が階段を上がってきた。間に合わなかったことを悟ると、少し伏し目がちになる。

 わかるわかる、間に合わなかったとき、電車に乗っているひとたちの視線って気になりますよね。扉の向こうの彼を見て、楓は小さく笑みを漏らす。

 中学二年のとき、楓は一度だけ野球部の試合を見たことがある。野球部を応援する気なんて毛頭なかったし、ただの興味本位だった。

 正直、見ていられない試合だった。その試合で先発したのが彼だったが、初回に四点、二回に二点を取られて早々に下がった。試合の間、相木稜人あいきいつひとを除くだれひとりとして彼に話しかけなかった。その光景を見ていて、胸がぎゅうと強く締め付けられるように痛んだ。

 自分のお願いを、大森寿々春おおもりすずはるが叶える道理がないことは十分わかっている。あくまで、自分の身勝手でしかない。

 でも――それでも、残念だと思ってしまう。

 自分で思った以上に落胆してしまって、表情を取り繕える自信がなかったから別れ方もなんだか淡白になってしまった。

 楓は電車の扉に寄りかかって考える。

 私が抱えている感情の名前はなんだろう?

 いちばん近いと思えるのは罪悪感だ。私に直接の原因はないけれど、私の家族が抱えていた問題が、結果的には野球をやめるという選択肢をとるほどに彼を追い込んでしまった。

 でも、そうじゃない。これは、罪悪感じゃない。だって、私が彼にいまいちばん伝えたいのは、「ごめんなさい」じゃない。

 伝えたい気持ちは、たくさんある。なのに、それをどう口に出せばいいのかわからない。

 ああ、やっぱり、たまたま見かけたからって話しかけなきゃよかったかな。彼のことを、考えてばかりだ。

 楓はまた、ため息をついた。


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