空っぽの迷子

森高実

序章 合格者番号の掲示はこの奥

第1話

「あいつさ、あれだけ啖呵切っといてこれかよ」

「くっそ、最悪だわ」

「マジありえねえ。これで終わりとか」

「ほんとだよ。あいつが自分に酔うのは勝手だけどさ、そのせいで俺らがとばっちり受けるのはおかしいだろ」

「あーあ。俺らの最後の大会、あいつのせいで台無しだな」

「あいつもさ、――みたいに消えてくれたらよかったのに」

「ははっ、お前言い過ぎ。まあわかるけどな」

「結局、――も含めてあいつらなんの役にも立たなかったな」

「確かに。あいつらのせいで俺らの三年間無駄になったとこあるよな」

「消えた分だけ、――はまだ貢献してくれたのかもな」


 その日俺が目を覚ましたのは、朝の九時過ぎだった。布団の中にやけに熱がこもっており、体が汗でびっしょりと濡れている。なにか夢を見ていた気がする。だけど内容は思い出せない。いや、夢を見た気になっているだけで本当は夢なんて見ていなかったのかもしれない。

 手を枕もとにさまよわせてスマートフォンを探り当てる。そのまま目の前に持ってきて時間を確認する。……どうやら、予定よりもずいぶん寝過ごしてしまったらしい。

 まったく。

 寝起きで血の巡りが悪い頭の中、ぼんやりと考える。もうすでに合格発表は始まっているだろうな。

 今日は三月十五日の火曜日。

 中学を卒業したばかりの俺は、例年よりも一足早い春休みを迎えている。とくになにかすることがあるわけでもないので、本来なら寝坊したところで問題はないのだけど、今日に限ってはとても珍しいことに予定が入っていた。

 公立高校入試の合格発表があるのだ。

 合格者の受験番号が貼り出されるのは朝九時だったはずなので、明暗の分かれる光景が繰り広げられているのはちょうど今頃だろう。ラグビー部員に胴上げされているほかの合格者の姿を一度直に見てみたいと常々思っていたのだけど、さすがにそれはあきらめざるを得ない。そう思案すると、わざわざ結果を見に行くのが急激に面倒になってきた。まあ、だからと言って見に行かないわけにもいかないけれど。

 のそのそと、布団の中からはい出る。

 途端、冷気に襲われ、俺は布団の中に戻った。

「……」

 寒の戻りというやつだろうか。布団の外は、極寒だった。昨日までは、そうでもなかったはずなのに。さっきまでは暑かったはずの布団がいまは暖かくて心地いい。ついもう一度目を閉じそうになるけれど、我慢する。合格者番号の確認に間に合わないなんて事態になってはたまらない。

 寝ちゃだめだ寝ちゃだめだ寝ちゃだめだ、と頭の中で繰り返していると、ぽつぽつ、と音がすることに気づいた。窓の外に目をやると、いつの間にかカーテンが開けられていた。ははーん、さては侵入者だな? ……まあ、妹だろう。あいつは、俺の部屋に入ることへの躊躇がない。

 外では、雨が降っていた。

 ははあ、これが寒さの原因らしい。傘をさして受験校に向かうのは面倒だけど、この寒さで雨の降りしきるなか合格者番号の開示を待つというのはもっと面倒だっただろう。たとえ予定通りの時間に起床することがかなったとしても、待ち時間やひとごみを考慮すれば、賢明な俺は結局遅い時間に家を出ていたに違いない。

 先程は不意打ちを食らって無様にも布団の中に撤退したが、わかっていれば耐えられぬほどではない。えいやっ、と俺は布団から出て、身を縮込めながら部屋を出る。

 当然ながら、家にはだれもいなかった。今日は平日。もうみんなとうに出てしまったのだろう。顔を洗ってから、台所に向かう。炊飯器の中をのぞくと空で、コンロの上には鍋もなにも乗っていない。冷凍庫にご飯、戸棚の中にインスタント味噌汁、冷蔵庫の中にウインナーを発見した。というか、野菜室にはなにもないし、冷蔵庫の中にウインナーと卵くらいしか食材がない。大丈夫か、うち? とりあえず、冷凍ご飯を電子レンジで解凍して、小鍋に水を注いでからお湯を沸かす。

 待ち時間の間に、着替えてしまうことにする。自室に戻って着替えようとしたところで、制服にするかどうか迷う。ふつうに考えて、合格発表を見に行くのなら制服という気がする。少しの逡巡の末、結局俺は私服で行くことにした。もう使うことのない中学の制服だから別に構わないのだけど、制服の裾を濡らすよりもジーンズの裾を濡らすほうがまだマシに思えた。周りが制服ばかりなら目立つので避けるところだが、もう大半の受験生が帰ってしまっているだろう。だれもいないのであれば私服でも問題ない。ジーンズをはき、上には綿シャツ、それからセーターを重ねる。

 台所に戻ると鍋の中の湯が沸騰していたので、お玉ですくった熱湯をインスタント味噌汁の具材を入れたお椀に注ぐ。そして火力を弱めてから、ウインナーを鍋の中に放り込む。すると、今度は電子レンジがピーと電子音を鳴らした。ラップを解いて器にご飯を盛ってから箸でほぐすと、むわっと湯気が立ち上がった。あとは茹で上がったウインナーをすくって、手抜きの朝食が完成。


 食べ終わって食器や鍋を洗ってから、こたつに入って朝の情報番組を少しの間眺める。

 ふう、と一息つき、俺は重々しく腰を上げた。

「そろそろ行くか」

 玄関で靴を履き、ドアノブに手をかける。もちろん傘も忘れない。

 すると、尻ポケットに突っ込んでいたスマートフォンが振動した。画面を見るとチャットアプリの通知が来ていた。相木稜人あいきいつひとからだった。

『もう見に行ったか?』

 なんのことかすぐにわかる。稜人も俺と同じ福岡南ふくおかみなみ高校を受験したのだ。

 返信する。

『まだ』『そっちは?』

『俺もまだ』『なら、一緒に行こうぜ』

 少し考える。まあ、向こうから言い出した以上大丈夫か。

『了解』『うち来てくれ』

 俺の家は、稜人が駅に向かうときに通るであろう道の途中にある。集合場所としてちょうどいい。

『いまから行く』

 そこまで話したところで、スマートフォンの画面を切る。稜人待ちになったのなら、わざわざ寒い玄関にいる必要はない。俺は靴を脱ぎ、こたつのあるリビングに引き返す。

 五分ほど経ったところで稜人から連絡がきた。

『着いた』

 その表示を見て、うとうとしかけていた俺ははっとして、なにも返信せずにばたばたと家を出た。ドアを開けると、すぐそこに稜人がいた。紺色の傘を差し、人懐こい笑みを浮かべている。稜人も制服を着ていなかったので少し安心した。

「おっす」と稜人。

「ん」俺も軽く手を挙げてあいさつのようなものをする。

 稜人とは、保育所と小中学校が同じで、小学校のころのソフトボール、中学の野球部でも同じチームだった腐れ縁だ。

「じゃあ、行こうぜ」

 うなずいてから、俺は半透明の傘をさす。

 並んで駅に向かう。歩き始めると、さっそく稜人が尋ねてくる。

「ハルは大丈夫なんだろ?」

 尋ねるというよりは、半分くらい決めつけている言い方だった。聞かれているのはもちろん高校入試の合否のことだろう。

「まあ、たぶん大丈夫」

 少しだけ謙虚に答えておく。正直なところ、よほどのことがない限り落ちないだろうと思っているのだけど、万が一落ちていたら恥ずかしいのでそこまでは口に出さない。

「なんでそう思うんだ?」稜人の言い方が気になったので、訊いてみる。

「そりゃ、落ちたと思ってるんなら、あの自意識過剰なハルが受験の合否をだれかと一緒に見に行くわけがないだろ?」

 少しムッとする。自意識過剰というのは認める。が。

「自意識過剰じゃなくても、自信がないなら他人と受験結果を見に行かないだろ」

 自分が落ちたと思うのなら、合格者たちの喜びに水を差さないように配慮するのは当然の気づかいだ。

「そうか? 俺、たぶん落ちたんだよなあ」

 おい。自分が苦い表情になるのがわかる。

「なんで一緒に行こうとか言い出したんだ。帰りに気まずいのはいやだからな」

「ふふん。それは大丈夫だ。俺はたとえ落ちたとしても、落ち込まない覚悟はしてきたからな」

「……なんか、ネガティブ寄りのポジティブだな」

 俺としては、それがいちばんいやなんだけど。素直に落ち込むところより、無理して笑っているところのほうが傍から見ていて痛々しいものだ。……まあ、稜人は少し冒険して福岡南を受けたと聞いている。駄目元だった部分もあるとすれば、確かにダメージは小さいかもしれない。

 駅に到着する。改札を通ってホームに降りる。電車を待つ間、なんとなく雨を眺めていると、おもむろに稜人が口を開く。

「なんだかなあ。合格発表の日に雨ってどうよ?」

 少し考える。

「べつにいいんじゃないか?」

「なに言ってんだよ。雨が激しいと、桜が散るんだぞ。縁起が悪いだろ」

「今日のしとしと雨で散る桜なら、雨が降らなくても散ってたと思う」

 それに、雨が降ったら縁起が悪いんじゃあ受験生全員が対象だ。

 県内トップクラスの進学校である福岡南高校の今年の倍率は、県立にしては高めで確か一・五倍ほど。受験者のうちのほとんどがサクラサクで、本当にそんな縁起が存在するのだとしても、縁起が悪いと感じるのは三分の一だけだ。雨が降ったからといってどうということもない。空が晴れて、晴れて合格者数が増えるというのなら話はべつだけど。

 急行の電車がきたので、それに乗り込む。目的の駅までは、急行なら一駅、普通なら三駅なのでそう遠いわけでもない。高校までは、頑張れば自転車で通える距離だ。

 電車内は、座席がほぼすべて埋まっているくらいには混んでいた。もう午前十時近い時間で、通勤ラッシュも終わっている。もっと乗客は少ないと思っていたけれど、ご年配の方が多いようだ。

 次で降りるわけだし、特に座りたいとも思わない。稜人と俺は、扉付近で吊革に手をかける。稜人がなにやら、スマートフォンをいじりだす。なんとなく画面を見るのはマナー違反の気がしたので、俺は目をそらす。

 トークショーや弁護士事務所、クリニックなどの広告。ところどころにだけ空いた座席。流れていく窓の向こうの景色。いままで電車に乗る機会がそう頻繁にあったわけじゃないからわからなかったけど、電車の中というのはひどく手持ち無沙汰だ。どこを見ていてもひとが視界に入ってしまうし、視線が合ってしまいそうでものすごく困る。今度から暇つぶしになるものを考えておこう。

「なんか、結構皆受かってるっぽいな」

「そうなのか?」

「うん。ひいらぎ春日白水かすがしろうずに受かったって」

「へえ。そりゃよかった」

 ゲームでもしているのかと思ったけれど、稜人はだれかと連絡を取り合っていたらしい。

「受かってたら、先生に報告しに行ったほうがいいのかな?」

「落ちたんじゃなかったのか」

「百万が一ってこともあるだろ」

 そこまで確率低いのか。

「まあ、行かなくていいだろ。そこまで先生たちと縁もなかったし」

「だよな」

 そんな会話をしていると、到着のアナウンスが流れた。

「もう間もなくー、大橋おおはしー、大橋ー」

 電車を降りて、稜人と俺は駅の構内から外に出る。雨は、降り続いている。灰色の中層雲がべったりと空を埋め尽くしている。線路の高架沿いを歩いていく。途中、何人か制服姿の中学生とすれ違った。中学生と呼べるのかはわからないけれど、おそらく同じ福岡南高校の受験生だろう。知った顔はいなかった。

 福岡南高校は、大きい交差点のわき道から坂を上がったところにある。坂の上にあるというだけでなんとなく勝手に、「青春っぽいなあ」などと最初は想像を膨らませていたのだけど、その想像はまったくの間違いだった。校舎があまりにも古びているのだ。いまどきの青春ドラマの舞台というよりは、昔懐かしい人情もの、あるいは、ホラーのほうがぴったりだ。

 その坂を、稜人と俺は上がっていく。バシャバシャと音を立てる靴は、すっかり水を吸ってしまっている。すぐに、正門が見えてくる。

 福岡南高校の敷地内に入ると、まず時計が目に入った。公園にあるような、柱に取り付けられているものだ。十時十五分くらいを指していた。

 掲示場所はすぐにわかった。敷地に入ってすぐのところに立て板があり、「合格者番号の掲示はこの奥」と矢印が描かれラミネートされた紙が貼りつけられていたからだ。

 校舎を素通りしてその矢印の通り奥に進むと、すぐに掲示場所が見えてきた。

「おお、あそこか。だれもいないな」

 講堂と呼ばれる建物の窓一枚一枚に、こじんまりと紙が張り付けられていた。開示から一時間以上経っているからか、すでに閑散としている。本当に稜人と俺以外にだれもいない――

「いや、一人だけいるな」

 よく見ると、ぽつりと一人だけ掲示板の前に立っていた。女子だった。近づいていくと、向こうも気づいたらしく少し傘が傾けられた。

 女子にしても、小柄なほうだろう。肩まで伸びた少し茶っぽい髪。ぱっちりと大きい目。あどけなさが残った顔が、きょとんとしてこちらを向いている。ベージュのコートの襟もとから覗くのは、俺たちの見慣れた制服だ。同じ中学。たぶん話したことはなかったけれど、名前は知っている。

 稜人が俺にだけ聞こえる声でつぶやいた。「吉田よしだ、だっけ?」

 俺もそっと返す。「たぶん」

 吉田さんは、自分のいた場所をすっと空けて校門へと向かい始めた。自分の受験番号の有無を確認し終えたのだろう。

 すれ違うとき、一瞬目があった気がした。とはいえ互いに気にするわけでもなく、次の瞬間には儀礼的無関心をもって目を外していたと思う。

 それから稜人と俺は、合格者番号が羅列されて張り出されている紙を眺める。結果から言うと、受験の結果は二人とも喜ばしいものだった。

 先に受験番号を見つけたのは稜人で、「あ、あった」と呆然とつぶやいていた。本気で落ちたと思い込んでいたのか、お前。報告したときの稜人の母親――おばさんの喜びようもすごかった。

 俺もほどなくして、自分の番号を見つけた。素数で、しかも双子素数だったのでとても覚えやすい数字だったけれど、念のため受験票を取り出して確認する。

『受験番号 349 名前 大森寿々春おおもりすずはる

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