情念を司る。雄。

エリー.ファー

情念を司る。雄。

 崖の上から見える海は青く澄んでいる。

 まるで、泡の一つ一つが群れを成して陸に襲い掛かっているかのようである。

 叫び声が二度、聞こえる。

 私は無視をする。

 もう一度、聞こえる。

 当然のように無視をする。

 誰かが不幸に耐えきれなくなったのか、何か抱えきれない幸福によって気が狂ってしまったのか。

 分からない。

 何一つ、分からない。

 けれど。

 何だっていい。

 理由は一つである。

 どうでもいいからだ。

 この、海。

 視界にある、青い海。

 そして、添え物のような青い空と白い雲。

 たまに現れる鳥たち。

 鴎だろうか。

 詳しいことは分からない。

 風の音を聞きながら、私の居場所を探る。

 世界の中にいるはずの私は、時々、迷子になる。

 どうして、私は私のままいられるのだろうか。

 多くの変化が現れては、幻想になり下がったり、現実に爪痕を残しているはずなのに。

 気が付けば、私だけがここにいる。

 そうか。

 そういうことか。

 単純なことだ。

 私は私にとっての観測者であり、観測している限りは、この物語を続けるために存在する必要があるのだ。

 私は、今、私の中にある命を燃やして生きているのではない。自分に課した観測するという使命によって生かされているのである。

 その瞬間。

 視界が暗くなった。

 気が付くと倒れていた。

 体が血まみれになっていた。

 海の香りが消えている。

 ただ、空が見える。

 頬には、名前も知らない草が当たっている。

 少しばかり不快だが、自分の感覚を分析すると直ぐに慣れてしまった。

「すまない。ここで、君には死んでもらう」

 誰かの声が聞こえた。

 私自身かもしれないと思った。

 けれど。

 視界に入ってきた男は髭面で、全く違う風体であった。

「死ぬ気はありません」

「そちらに死ぬ気がなくても、この未来を避けることはできない」

「どうしてでしょうか」

「決まりなんだ」

「誰が作った決まりなのですか」

「分からない。分からないが、したがって欲しい」

「したがって欲しいというのは依頼なのに、私の命を奪うのに許可を取ろうとはしませんでしたね」

「あぁ。そうだ。そう、その通りだ。これは、依頼ではないんだ。脅迫だ」

「分かっているなら」

「あぁ、分かっているさ。でも、この生き方以外、私にはないんだ。これが限界なんだ。何も知らないようなふりをして、誰かの命を奪うことでしか、自分を現在に、現実に、現状に繋ぎとめておくことができないんだ」

「その気持ちが分かりません。それに」

「それに、なんだ」

「申し訳ないのですが」

 その瞬間。

 男の体が爆ぜた。

 しかし、私の体に血がかかることはなかった。

 男は霧散した。

 私は血塗れだったはずの体が綺麗になっていることに気が付いた。

 しかし。

 体を起こすことなく、目を瞑った。

「お怪我はありませんでしたか」

 女性の声が、あたり一面を響いている。

 近くにスピーカーのようなものがあるのかもしれない。

 私は腹に力を入れた。

「えぇ。問題ありません。怪我をしたように思いましたが、気のせいでした」

「そうですか。それは、安心しました」

「あなたは、誰ですか」

「あなたの近くにいる者です」

「ストーカーですか」

「そう、そうかもしれませんね」

「ストーカーさん」

「はい」

「ありがとうございました」

「どういたしまして」

 海の香りが漂う崖の上である。

 間もなく、私はここから出て行く。

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