第二十一話 無秩序な乱戦の果て

妻女山さいじょざんの頂上へと駆け上がった高坂隊と真田隊であったが……

駆け上がる途中で何の抵抗も受けない。

それどころか、頂上に着くと人っ子一人いなかったのだ!


高坂昌信こうさかまさのぶ呆気あっけにとられた。

「これは一体……

幸隆殿!

敵は、なぜ『撤退』を?」


一方の真田幸隆さなだゆきたかは、真相に勘付いていた。

「恐らく。

上杉軍は、兵糧や武器弾薬などの補給がとどこおっていたのでしょう」


「では……

攻める瞬間を待っているように見えたのは?」


「ただの『見せかけ』です」

「何と!?

我らは、上杉謙信にまんまとしてやられたのか!」


「昌信殿。

これは、一大事ですぞ。

撤退する謙信が向かう先は……

兵站へいたん拠点のある善光寺ぜんこうじのはず」


「善光寺!?

信玄様が率いている本隊と遭遇してしまうではないか!

これはまずい!

まずいぞ!

上杉軍が1万3千人いるのに対し、本隊は8千人しかおらん。

しかも。

八幡原はちまんばらのような平らな場所でぶつかれば、兵数が物を言う!」


「その通りです。

ここは、一刻も早く救援に向かいましょう」


武田軍別動隊は慌てて山を降り始めた。


 ◇


一方……

武田軍本隊8千人を率いている、武田信玄。


「この音は?」

深い霧で何も見えないが、おびただしい人間の足音がすることに気付いた。


そして。

周辺の物見ものみをしていた偵察の兵士がとんでもない報告をもたらす。


「一大事にございます!

無数の上杉うえすぎざさの旗を掲げた軍勢が……

目の前を行軍している模様!」


「目の前を上杉の大軍が?

なぜここに!?」


信玄の側にいた山本勘助やまもとかんすけは、その理由をすぐに悟る。

「上杉軍は……

撤退しているのではないでしょうか?」


「撤退だと!?

なぜじゃ?」


「戦わずに撤退する理由は、一つしかありません。

補給がとどこおっていたからです」


「上杉謙信は……

攻める瞬間を待っているように見せかけて、実は撤退する時期を見計らっていたのかっ!」


「謙信は『堂々』とした振る舞いを好む男だと聞いたことがあります。

撤退を決めたものの、深夜にこっそり逃げることを嫌ったのでしょう」


「ちょっと待て!

?」


「はい」

「馬鹿な!

そんなのは、子供のわがままと同じではないか!」


「進むときも、退くときも、堂々と振る舞うことが……

謙信の、武人としての『矜持きょうじ』なのかもしれません」

「……」


「それよりも。

我らが敵の存在に気付いたということは、敵もまた我らの存在に気付いているはず。

直ちに迎撃の備えを」


「まずは『陣形』を組むべきだな。

どの陣形が良い?」


「残念ですが……


「何っ!?

陣形を組まずに戦えば、『無秩序な乱戦』となるではないか」


「致し方ありません。

せめて向きだけでも変えておきましょう。

左方向にいる上杉軍に備えるため、左へ向きを変えるのです」


「……」

「それともう一つ。

行軍中の我らは、万が一の奇襲を警戒して前方と後方に精鋭を配置しておりました。

この精鋭を前に出し……

信玄様と信繁様、義信様のいる中央は少し下がるのが良いかと」


「理由は?」

「鉄砲や弓矢などの部隊を前に出す時間稼ぎをするためです。

突破してきた敵に、一斉射撃を見舞ってやりましょうぞ」


「なるほど。

使番つかいばん[伝令のこと]、各隊へ命令を出せ!」


命令は速やかに伝達された。

左へ向きを変えつつ、前方が右翼に、後方が左翼になり、中央がやや下がってUゆーの字のようになる。


見た感じ『鶴翼かくよくの陣』っぽくなった。

読んで字のごとく、鶴が翼を広げたような陣形である。


本物と比べれば粗悪極そあくきわまりないものではあるが。


 ◇


この直後。


武田軍本隊8千人と上杉軍1万3千人が戦闘を開始する。

武田軍は、陣形を組む余裕がなく秩序的な防御ができない。

上杉軍も、陣形を組む余裕がなく秩序的な攻撃ができない。

信玄の言った通り……

たちまち敵味方が入り混じった『無秩序な乱戦』となった。


無秩序な乱戦の中。

ある兵士が、多くの戦場を共に過ごした友と戦っている。

これほどの乱戦は初めての経験であり、互いの背中を守って戦うことにした。


目の前の敵と格闘戦になった。

何とか相手の動きを封じ、落ちていた武器を拾って止めを刺すことに成功したものの……

そのわずかの間に友の背中が無防備となった。

一本の槍が、友の身体を貫通した。


思わず友の名を絶叫したが、友の死を悲しむ余裕はない。

自分の背中を守ってくれる者はもういない。

前後左右の敵から、自分で自分の身を守らねばならない。


「どの敵から倒す?」

見渡していたら左足に激痛が走った。

右の敵を見ている間に、左の敵から斬り付けられたようだ。

あまりの激痛に膝から崩れ落ちる。


前にいた敵がこちらを向いた。

目の前を刀が一閃し、大量の血が噴き出す。


のどを……」

激痛が襲う前に意識が飛んだ。


ある兵士の人生は、いとも簡単に終焉しゅうえんを迎えた。


 ◇


戦場は地獄じごくと化していた。


斬られた者の血しぶきが舞い、腕を無くし、足を無くした者たちがあちこちにいる。

加えて脳天を叩き割られる鈍い音が、何度も繰り返されている。


経験が浅い兵士たちは……

たちまち『発狂はっきょう』した。


妻がいる者は、妻の名前を叫んだ。

妻がいない者は、母の名前を叫んだ。

奇声きせいを発して武器を放り出し、ひたすら逃げ回る者すら現れた。


無秩序な乱戦とは、こういうことである。


「何たる無様ぶざまいくさぞ!

ただの消耗戦ではないか!」


信玄も、謙信も、同じくこの偶発的な激戦を呪った。

早く止めたくて仕方ないが、そうもいかない。


そもそも陣形を組んでいないのだから。


 ◇


陣形を組めば『秩序的』な戦闘が出来る。


敵を押したい場合は、全員で前進する。

犠牲を抑えたい場合は、全員で後退する。

こうして『戦線』が維持される。


敵味方が入り混じった無秩序な乱戦では……

兵士たちは自分の身を守ることが精一杯で、命令を聞ける状態にない。

命令を出しても一部の兵士にしか届かない。


そもそも。

兵士たちは、乱戦という危険極まりない状況から抜け出したがっている。

そんな状況で『後退』や『左右』に動く命令を出せば、兵士たちはこれ幸いと大きく後退し、大きく左右に動くだろう。


これを見た他の兵士たちは、疑心暗鬼に取りかれ始める。

「これはもしや……

戦線が崩壊したのでは?

つまり、いくさに『敗北』したのじゃ!」


「敗北したとなれば……

敵の追撃を受けるぞ?

一刻も早く逃げろ!」


兵士がどれだけ犠牲になろうと……

秩序的な戦闘になるまで、指揮官は『前進』の命令を出すしかない。


 ◇


「この状況を一刻も早く終わらせねばならん」


無秩序な乱戦を嫌った謙信は、すぐに命令を出した。

「敵の対応は早く的確ではあったが……

実際には隊列の向きを変えただけに過ぎない。

行軍中は前方と後方に精鋭を配置するものと考えれば、敵の精鋭は右翼と左翼にいるはず。

次々と新手を送り込んで右翼を右に、左翼を左へ押し込め!」


上杉軍は数の利をかして次々と新手を送り込み、武田軍の両翼を左右に押し込み始める。

まるで中央から送り込まれた新手の兵が、左右へ車輪のように回転しているように見えた。

これを見た者は、『車懸くるまがかりの陣』と名付けた。


定説にある上杉軍の車懸の陣っぽいものは、こうして誕生した。


こんなまがい物の陣形が使われたことは……

川中島合戦の以前も、それ以後も、一度もない。


 ◇


信玄の弟・信繁のぶしげは、咄嗟とっさに上杉軍の意図を察知した。

「兄上。

敵は、我が軍の中央に『隙間』を作ろうとしています」


「隙間を?

何のために?」


「中央突破を図るためでしょう」

「まさか……

謙信は、乾坤一擲けんこんいってきの突撃を仕掛けるつもりだと?」


「間違いありません。


「なんという奴よ。

無秩序な乱戦の真っ只中で……

しかも、こちらが鉄砲や弓矢で構えているにも関わらず……

自ら陣頭に立って突撃することが、どれほど危険な行為か分かっているのか!?」


「兄上。

おのればかりを安全な場所に置いて、他人をひたすら危険な場所へ追いやる者を何と呼ぶかご存知ですか?」


「……?」

「『卑怯者ひきょうもの』と呼ぶのです。

将たる者は……

常に陣頭に立って、おのれの命を危険にさらさねばなりません」



【次話予告 第二十二話 将の中の将、武田信繁】

「国を守るために……

我らが始末してきた大勢の者たちも、我らと同じ『人』であった」

武田信繁はこう言います。

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