独裁者・武田信玄 【第壱章 独裁者への階段】

第十四話 上田原の戦い

真田幸隆（さなだゆきたか）は、夜陰（やいん）に紛れて甲府を後にする。

その目には涙が溢（あふ）れていた。

「母上。

万事うまく行きましたぞ！

晴信様は、それがしが見込んだ通りの御方でした。

協調性に欠け、非常識で、不器用で、特にこれという手腕もありませんが……

損得勘定がなく、まるで子供のような並外れた純粋さを持ち、決めたことを徹底的に実行なさいます。

それがしは……

あの御方に絶対の忠誠を誓い、徹底的に利用して、母上の無念を晴らしてみせましょう。

欲望に駆られて我らを侵略した獣（けだもの）ども……

友でありながら、我らを裏切った人でなしども……

奴らに同じ苦しみを味わわせてやる！

せいぜい、残り短い人生を謳歌していろ。

母を殺（あや）めた者への『審判（しんぱん）』の日は刻々と近付いているのじゃ！」

溢（あふ）れた涙が、止めどなく流れ出した。

「母上。

それがしは、2人の男を罠に嵌（は）めます。

晴信様の父・信虎（のぶとら）に我らを侵略するよう唆（そそのか）し、武田軍を率いて我らに襲い掛かった板垣信方（いたがきのぶかた）と甘利虎泰（あまりとらやす）！

まずはこの2人を血祭りに上げてみせます。

そしていつか、先祖代々の土地も取り戻してご覧に入れます。

母上！

あの日のように……

また、それがしを褒（ほ）めてくだされ」

　◇

あの日。

母と交わした会話を、幸隆は一日も忘れたことがない。

「二郎三郎（じろうさぶろう）［真田幸隆の幼い頃の名前］。

このままでは2人とも殺されてしまいます。

わたくしを置いて、早く逃げなさい」

「何を仰（おっしゃ）いますか、母上。

母上を置いていくことなど、できるわけがありません」

「わたくしの大切な息子、二郎三郎。

いつも病弱な母を思いやってくれていましたね。

とても感謝しています。

わたくしはどうなっても構わない……

あなたが生き残ってくれれば、それでいいのです」

「嫌だ！

嫌です！

一緒に死ぬ覚悟なら出来ています」

突然、母は鬼の形相（ぎょうそう）へと変わった。

持っていた小刀を抜いて自らの喉元（のどもと）へと押し当てる。

「二郎三郎！

母の命令に従えないと申すか！

従わないなら……

この刃で、命を絶ちますぞ。

今すぐ出ていきゃれ！」

母の喉元から、一筋の血が流れた。

息子は呆然（ぼうぜん）となった。

「な、何をなされるのです？

お止めください！」

「二郎三郎。

母の申すことを、よく聞きなさい。

一族は大きな過ちを犯しました。

繁栄に溺（おぼ）れ、己（おのれ）の力に慢心し、平和を保つ努力を怠ったのです」

「……」

「あなたには類（たぐい）まれな才能があります。

必ず生き残って、一族を導くと約束しなさい。

いいですね？」

息子は我に返った。

見上げると、雲一つない星空が広がっていた。

あまりの美しさに息を飲む。

復讐すら忘れるほどの魅力が、そこにはあった。

　◇

1542年2月。

信濃国（しなののくに）の上田原（うえだはら）［現在の上田市］で、攻める武田軍と守る村上軍は千曲川（ちくまがわ）を挟んで対峙（たいじ）した。

歴史書で『上田原の戦い』と書かれているこの合戦で、武田軍は……

外様（とざま）家臣ではなく、譜代（ふだい）家臣の双璧（そうへき）・板垣信方（いたがきのぶかた）と甘利虎泰（あまりとらやす）が先鋒（せんぽう）を務めている。

新入りの外様家臣ではなく、長く仕えた譜代家臣が危険な先鋒を務めるという非常識な状況。

こんな状況を可能にしたのは……

武田晴信と真田幸隆が演じた、一つの『芝居』によるものであった。

　◇

最初に先鋒を申し出たのは、幸隆であった。

外様（とざま）家臣として当然である。

「晴信様。

幸隆殿の申し出、いかがなさいますか？

対岸にいる村上軍の数は明らかに少ないようです。

真田隊だけで勝てるでしょう」

側近の高坂昌信（こうさかまさのぶ）だ。

「昌信（まさのぶ）よ。

村上軍の兵数が少ないのはなぜじゃ？」

「物見（ものみ）の兵［偵察兵のこと］の報告によれば……

『主力』が別の場所にいるからだと」

「別の場所とは？」

「山々の中に築いた、20もの『安全』な城の中です」

「村上連珠砦群（むらかみれんじゅとりでぐん）か」

「はい」

「ところで。

対岸にいる村上軍の旗印を見たであろう？」

「旗印を見るに、新入りの外様（とざま）家臣のようですな」

「つまり。

外様家臣は危険な場所にいて、譜代（ふだい）家臣は安全な場所にいるわけか」

「それが常識ですから……」

「昌信よ。

今まさに新入りの外様家臣が『使い捨て』にされようとしている。

使い捨てにされる哀れな者たちを、我らは殺すべきなのだろうか？」

「仰（おお）せの通りではありますが……

敵である以上、仕方ないのでは？」

「こういう言葉がある。

『敵の敵は、味方』だと。

あれは真（まこと）の敵なのか？

むしろ味方ではないのか？

わしは……

あの者たちを殺したくはない！」

「殿……」

「幸隆に先鋒を許せばどうなる？

何とか実績を上げようと、互いに死に物狂いで戦って多くの血を流すぞ？」

「……」

「こんなのおかしいではないか！

譜代家臣を守るために、なぜ外様家臣が血を流さねばならん？

そこで流れる血に何の意味がある？

実力なく、何の実績も上げず、ただ長く仕え続けただけで安全な場所に居座る奴ら……

そんな奴らを守る必要が、一体どこにあるのじゃ！」

「……」

「決めたぞ。

軍議の席において……

幸隆の申し出について、わしはこう話すことにする」

「はい」

「『幸隆が先鋒だと？

外様家臣ごときが図に乗るな！

わしが全幅の信頼を寄せるのは、板垣と甘利の2人であって真田ではない。

武田軍の圧倒的な武威（ぶい）を示せるのも、板垣と甘利の2人であって真田ではない。

真田隊はせいぜい板垣隊の脇でも固めておれ！

板垣隊は、危険な場合はいつでも真田隊を盾代わりに使って良いぞ』

とな」

「晴信様。

これは……

板垣殿と甘利殿に先鋒を任せるために、幸隆殿と仕組んだ『芝居』なのでは？」

「ははは！

全て見抜かれていたか。

さすがに、昌信を騙（だま）すことはできんな。

その通りよ」

「板垣隊と甘利隊は武田軍最強を誇っています。

最強部隊が攻めれてくれば、対岸にいる村上軍は戦意を喪失するに違いありません」

「ろくに戦わず、さっさと逃げるだろう」

「むしろ予（あらかじ）め教えてやるのは如何（いかが）？

『先鋒は、板垣隊と甘利隊だぞ。

そちたちが勝てる相手ではない。

安心してさっさと逃げろ！

武田軍最強部隊を相手に負けたとしても、誰からも責められることはない』

と」

「ははは！

それは良い！

そうしよう」

「村上家の外様家臣たちは……

晴信様の配慮に『恩義』すら感じるでしょう」

「うむ。

いずれは我らに寝返ってくれるかもな」

「板垣信方（いたがきのぶかた）と甘利虎泰（あまりとらやす）は、軍の指揮能力では晴信すら上回っていた。

晴信は2人に全幅の信頼を置いていた」

歴史書には、こう書かれてもいる。

　◇

一方の村上軍としては……

平地でまともに武田軍とぶつかる気などさらさらない。

そんなことをすれば、何のために莫大（ばくだい）なお金を投じて山々の中に20もの城を築いたのか、意味が分からなくなる。

城を活（い）かすためにも、武田軍には『城攻め』をさせたい。

城攻めは攻める方の犠牲が圧倒的に大きい。

攻める武田軍に大きな犠牲を払わせ、守る村上軍は安全な場所で戦力を温存する。

これが村上軍の基本戦略であった。

ただし。

武田軍に易々（やすやす）と千曲川（ちくまがわ）を渡らせてしまうのも面白くない。

川を渡っている間の軍勢は無防備であり、ある程度の損害を与えることができるからだ。

そのために使い捨てにできる外様家臣を置いた。

「新入りの外様家臣など『信用』できるか。

味方が不利になれば、さっさと敵に寝返るような連中であろう？

実力あるなしなど関係ないわ。

信用こそが第一ぞ。

だからといって、敵に寝返られるのも困る。

実力ある者は特にな。

実力ある者は、大勢の敵を道ずれに死んでくれた方が良い」

と。

こういう論理で外様家臣は使い捨てにされた。

いつの時代でも、どんな組織でも、こういう論理は必ず働くものだろう。

実力ある者が必ず重宝される『保証』など、どこにもない。

　◇

上田原の戦いは、板垣隊と甘利隊の突撃で始まる。

突撃を開始すると……

対岸の村上軍はあっさりと敗れた。

蜘蛛の子を散らすように、四方八方へと逃げ出した。

「板垣殿、甘利殿。

お2人の旗印を見ただけで、敵は我先にと逃げ出しましたぞ！

見事な勝利にございます」

幸隆の称賛（しょうさん）に、板垣信方が応える。

「真田殿。

敵は、戦う前から逃げ始めていたではないか。

こんなものは勝利でも何でもない！

それにしても……

四方八方へ逃げるとは厄介じゃ。

追撃したところで、兵が分散してしまう」

「板垣殿。

それがしに、一つ考えが……」

「考え？」

「四方八方へ逃げた敵を追撃するよりも……

もっと大きな戦果を上げる方法があるかと」

「大きな戦果？

それは何じゃ？」

幸隆は、一番手前の山を指して言った。

「あの城を……

砥石城（といしじょう）を、落とすのです」

【次話予告　第十五話　独裁者への階段】

板垣隊と甘利隊は敵地の奥深くへと入って行きます。

二番手の板垣隊が敵に襲われますが、一番手の真田幸隆はこう吐き捨てて立ち去るのです。

「どうせ死ぬなら、被害を最小限にして死ね」

と。