第13話 気付けば一夜明けて
ランが目覚めたのは、スベスベとした木板の上だった。
「………………?」
少し違和感。
あまりにも、床がキレイすぎるのではないか。スラムの寝床はもっとホコリっぽくて、砂利でザラザラしていたはずだ。それに被っているタオルケットも、起毛がくすぐったいし洗剤のいい香りがする。
真っ暗でよく見えない。窓からうっすらと明かりが差し込んでいるので、洋室のフローリングらしいということはわかるが、ここはどこだろう?
寝惚け眼をこすり、習慣で隠しポケットのあたりを触る……が、いつもそこにあった、小型レコーダーの感触がない。
サッ、と血の気が引いた。
半強制的に意識が覚醒し、記憶がよみがえってくる。
「そっか……捨てちゃったんだっけ」
唯一無二の宝物だったレコーダーは、ナメレスたちギャングに捕まりかけた際、捨て駒として手放してしまったのだった。
今さらながら、胸に穴の空いたようなジクジクとした痛みに苛まれながら、ランは身を起こす。
すぐ近くにあった物に手を着いたら、フカフカの布団に体重が沈み込んだ。
大きなベッドである。ランはこれの横で寝ていたようだ。シーツの乱れ具合を見るに、始めはベッドに入っていたのがタオルケットを道連れにずり落ちた、といったところだろうか。
風呂で目を回してしまい、脱衣室でパジャマに着替えて休むことにしたあたりまでは憶えているが、そこから先が曖昧だ。きっと、メグリがベッドまで運んでくれたのだろう。
枕元のサイドチェストを見ると、レコーダーと引き換えに手に入れたモルフィングデバイスとカードが置いてあったので、パジャマのポケットに仕舞ってから、ランは部屋の外へ出てみることにした。
ドアを静かに開ける。
ランが寝かされていた部屋は、廊下の突き当たりだったようだ。見える範囲に人影はなく、しかし気配だけは感じられた。
ひたひた、と。
常夜灯を頼りに、控えめに裸足を鳴らして、廊下を進んでいく。
階段があったので下りてみると、前と右の二手に道が分かれていた。どちらにしようかと見比べ、右手ではメイドがモップがけを――今どきモップ!――していたので、気付かれないうちに前方の廊下へ。
迷宮でも探検している気分だ。
知らない屋敷では方向感覚も利きづらく、とにかく人目を避けるようにして歩いていたら、どこからともなく食欲をそそる匂いが流れてきた。
……くぅ、と腹が鳴る。
匂いに誘われてたどり着いた先は、光が漏れる半開きのドアから覗いてみると、厨房らしかった。
調理台やシンクやコンロやで銀ピカな室内に、白い服を着た大人が三人。慌ただしく鍋をかき回したり、包丁を振るったりしている。
米を炊く匂い。煮込まれた野菜の匂い。魚の油が焦げる匂い。鼻いっぱいのご馳走に、ランは比喩でなく涎を垂らして見入ってしまい、後ろから忍び寄る人物に気付かなかった。
「ラーンくん」
「ひわっ!?」
「おはよう。朝、早いのね」
いきなり声をかけられて、心臓が飛び出るほど驚いて振り返ったら、そこにはメグリがいた。薄暗い廊下に仁王立ちして、前屈みになってランに顔を近付ける。感心したような口振りだが、そう言うメグリも化粧から髪形までバッチリ決まっており、眠気など少しも帯びていない。
屋敷内をうろついていたことについて咎めるのか、と首を引っ込めるが、そこには言及することなく視線を厨房へと移した。
「なるほど、お腹空いちゃった?」
昨日はパイを食べたっきりだったもんね、としたり顔で、ドアを押し開ける。突然の訪問にも関わらず、料理人たちは笑顔で彼女を迎え入れた。
「おはようごぜぇやす、メグリさま。どうかなさいましたかい?」
「ちょっと小腹空いちゃって。まだ準備中だと思うんだけど、何か食べさせてくれない?」
「ふうむ……」
お願い! と可愛らしく両手を合わせるメグリと、その後ろにくっついているラン。
一番年配そうな男の料理人は、ざっと厨房を見渡して頭をひねってから、一つ頷いた。
「よござんす。簡単にはなりやすが、軽食をお作りしやしょう。食堂の方でお待ちくだせぇ」
「ほんと! ありがとう」
手を叩いて礼を言うメグリ。釣られてランも会釈をして、その場を後にする。
食堂というのは、厨房の隣にあった。
広い部屋で、壁には大勢の天使が描かれた宗教画。向かいの壁は全面ガラスになっており、夜明け前の暗い海を一望できる。そして中央、巨人が横になれそうなくらい長いテーブルには、すでに食膳が用意されていた。
お待ちする間もない。
二人分の食器を従えた小振りな鉄ナベの中では、程よく煮えたおじやが湯気を上らせている。
「うわぁ……」
「さ、食べましょう。熱いから気を付けてね」
メグリのよそってくれたお椀に、ランはかぶり付いた。警告もむなしく舌を火傷したが、気にならないくらいに美味しい。
たっぷり出汁を吸った発芽米はトロトロに溶けたところを卵とじにされている。具には野菜と白身魚がゴロゴロ入っており、これがまた柔らかいのに歯応えがしっかりしていて色鮮やかな存在感を放っていた。
昨日のアップルパイのような強烈なインパクトはない代わりに、飲み込むごとに胃が温まり、栄養が全身の血管を駆け巡るような活力に溢れる味わいだ。
「ふふ、可愛い……けど、テーブルマナーを教えないといけないわね」
無我夢中でおじやをかき込むランに微苦笑しながら、メグリは上品にスプーンを口に運ぶ。
鉄ナベは瞬く間に空っぽになって、ランがナベ底まで舐めようとしたら、さすがに止められた。
手を出せないようにと奥に押しやられた食器を恨めしげに見つめていると、汚れた口周りにナフキンが押し当てられて、半ば力づくでメグリの方へと首をねじ曲げられる。
「ご飯はいったんおしまい。そろそろ別の話をしましょう。きみのこれからについて、モルファイトを始めるための話をね」
モルファイト、と聞いてランは目の色が変わった。
食べ物への未練を切り捨てて、体ごとメグリに向き直る。
「話すって……何を、ですか?」
「そうね。どこから始めるべきか、だけど。……先に悪いニュースから済ませちゃおうか。きみの持ってるデバイスについて」
メグリは頭の中で組み立てるように思案してから、即決するとランの首元を指差した。
今は何も着けていない、比較的日焼けの浅い首をランは撫でて、ポケットから件のモルフィングデバイスを取り出す。日常を変えるキッカケとなった、特別な拾い物だ。
「そのデバイス、ランくんが寝てる間にちょっとだけ触らせてもらったんだけどね。当局の認可番号が振られてなかったのよ。昨日話した通り、違法な物だったみたい」
「えっと……つまり……?」
「モルファイトの試合に出るのに、そのデバイスは使えないってこと。持ってるのが知られちゃっただけでも、逮捕されちゃうからね」
「えっ!? それじゃ僕、どうしたら……」
「大丈夫。慌てない慌てない」
パチンッ!
うろたえるランの目の前で、メグリが指を鳴らした。
「悪いニュースだけじゃなくて、良いニュースもちゃーんと用意してるからね」
そう言って、電脳空間サングラスをかけると何かのハンドサインを作る。
「受信準備……モルフィング開始……」などと、指を何度か動かすとサングラスがチカチカ光って、視線の先に虚ろな穴が出現した。
モルフィングによる、テレポート配送である。
空間の穴からは白色のケースがにじみ出してきて、コト、とテーブルに着地した。
「これって……」
ケースの形に、ランは見覚えがあった。
このデバイスを、ゴミ山の広場にギャングの二人組が捨てに来た時の容器と同じ形状ではないか。
果たして、メグリが蓋を開けてみせると、中にはやはりチョーカー型のモルフィングデバイスとカードのセットが入っていた。微妙にデザインは異なるものの、シックで洗練された造形である。
「LM12-1620。昨日じいやに頼んで取り寄せてもらったの。当局から正式に認可されたデバイスよ。こっちなら何も怒られることはないから、きみのと交換しましょう」
ランに否やはない。
取り換えてくれるというなら、出所の怪しい物より正規品の方がいいに決まっている。
迷わず拾い物のデバイスを差し出すと、メグリは別に用意していた空のケースに収めてロックをかけた。
「よし、と。これで道具については解決したわね。後は戦いの舞台さえあれば、いつでもファイターとしてデビューすることができるわ」
「っ……。は、はい……!」
改めて、ランは固い唾を飲み込んだ。
いよいよ前置きは終わり、モルファイトの話に入ろうというのだ。緊張しないわけがない。
顔を強張らせ、生身の戦争にでも臨むかのように拳を握りしめるランに、メグリはついつい噴き出してしまう。
「ふふふ。ランくんったら、ガチガチじゃない。そんなに気負うことはないわ」
「う……そんなこと、言われても……」
「まあ、初めてなんだから仕方ないか」
力みを抜こうにも抜き方がわからないのを見て取って、メグリは肩を竦めると次のように提案した。
「頭の中だけで考えたって、どうなるものでもないわ。試しに一度、戦ってみるのはどうかしら? 今日の午前中に、ちょうどよさそうな試合があるのよ」
「し、試合!?」
「心配ないって。初心者も大勢参加するから、ランくんが混ぜてもらったって平気なはずよ。どうかしら、もちろん無理に戸は言わないけど、やってみない?」
「うぅ…………」
いきなり実戦という選択肢を示されて、尻込みする。
しかし、首を横に振るのをためらったのは、風呂での会話がよぎったからだ。
「欲張りになりなさい」
あの時のメグリの言葉が、ランの背中を押した。
モルファイトをやりたいというのは、彼自身の望みだ。やるからには徹底的に、できることにはできる限り挑戦していかなければならないのではないか、と。
「わかり、ました。……やってみる」
「そうこなくっちゃ!」
弱々しい返事ではあったが、それでも及第点だったらしく、メグリは会心の笑みで親指を立てた。
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