2nd 初陣は突然に
第9話 美味しいパイ
背の高いビルとビルの間。
薄暗く、しかしスラムに比べればずっと広くて清潔な路地を進んでいくと、どこかの裏口らしい強化ガラスの扉に行き着いた。
自動ドア、という物くらいランだって知ってはいたが、実際に利用するのは初めての経験である。
「ここまでくれば、ひとまずは安心でしょう」
女性はそう言って、ランを抱いたまま建物の中へと入っていった。
まっすぐに伸びた廊下。
無人だというのに、等間隔に並んだ照明は一つも欠けることなく点灯している。要があるかもわからないのに輝き続ける孤独な光を、ワックスがけされた床が反射していた。
天井から壁から新品のような純白で、限界に挑戦しているのかと疑うほどに清掃され尽くした廊下であるが、女性は気遣いもなく土足で踏み入って、手近に設置されていたソファにランを座らせた。
適度なスプリングと肌触りの良いシートに感動したのもつかの間、腹の虫が可愛らしい鳴き声を上げる。
……くぅ
考えてみれば、昨日から何も食べていないから当然だった。
けれども、それにしたって他人に聞こえるように鳴らなくても……と普段なら感じることもない決まり悪さに縮こまっていたら、女性がクスリと笑ってポケットを探る。
「よかったら、これ食べる?」
差し出されたのは、紙の包みだ。
ほのかに暖かく、食欲をそそる匂いがする。包装を解いてみると、黄金色に艶めく生地が顔を見せた。
「わたしイチ押しのアップルパイ。美味しいわよ」
かぐわしいスイーツと女性の顔とを見比べて、恐るおそるかじりついた瞬間、ランは今日で何度目かの衝撃に襲われた。
サクッ、と歯がパイ生地を割ると、トロトロになったリンゴが口いっぱいに流れ込んでくる。
強烈な甘みが舌の芯まで突き刺さり、喉奥まで駆け抜けて、目の中で火花が散った。
濃厚な蜜と果実とバターの香りがお腹の中にあふれて、ため息と一緒に吐き出される。
「美味しい」という言葉の意味を、ランは生まれて初めて知った。
一口食べた時点で我を忘れて、一心不乱に食らいつく。がっつきすぎて、喉に詰まらせ苦しんでいたら、女性がどこからか紅茶のボトルを取ってきてくれた。
そうした様子を、女性はランの隣で横目に眺めていたが、食べ終わって人心地ついた頃合いを見計らって、口を開いた。
「さて、と。落ち着いたところで、だけど、自己紹介がまだだったわね」
電脳サングラスを外して、首を横に向ける。長い髪が肩からさらりと前に落ちて、胸元にかかった。
「わたしの名前はヒツルギ・メグリ。プロのファイターをやっています。よろしくね」
「あっ……っと。は、はいっ、知ってます。……あ、の……“ウリエル”ですよね」
面と向かって名乗られて、高鳴る胸を抑えながらランはつっかえつっかえ答えた。
四大天使が一人、“火天のウリエル”。
その名はスラムにまで轟くほどに有名だ。
モルファイトのプロ選手は星の数だが、中でもトップクラスの実力と美貌と話題性でもって頭角を現している四人の女性ファイターが、オネイロニシア国にはいる。彼女らは年齢が近いこともあって何かと接点が多く、いつしか『四大天使』のあだ名でまとめられるようになっていた。
火天のウリエル。
飛天のラファエル。
天与のガブリエル。
天帝のミカエル。
カケン島で暮らしていれば、四人のうち誰の顔も見ないなんて日はないというくらい、彼女らは様々なメディアに引っ張りだこで、ランも幾度となく遠目に広告を眺めたりレコーダーに録画した映像を見たりしたものだ。
「そっか。うふふ、知ってくれてたんなら嬉しいな」
メグリは幼子みたいにはにかんで、「だけど」と人差し指を唇に当てる。
「その呼び方はやめてほしいかな。今のわたしは変装してるわけだからね」
「え? えっと……あ…………」
「メグリ。それがわたしの名前」
「……メ、グリ……さん?」
「うん。よくできました」
ワシャワシャと髪をかき乱された。
ひとしきり撫でられて、解放されてからランも名前を教える。
「ランくん、か。いい名前ね。……それじゃあ、ランくん。訊かせてもらってもいい? きみに何が起こって、あんなことになっていたのかを」
優しく少年を愛でていた眼差しに、鋭い知性が光る。
ランは少しだけ躊躇したが、意を決してすべてを打ち明けることにした。
ギャングのメンバーが、人目を忍んでモルフィングデバイスを焼却処分しようとしていたこと。
デバイスを掠め取ったのがバレると、ものすごい剣幕で奪い返しにきたこと。
大勢のギャングに追われて小川を越えたことと、ギャングには越えられなかったこと。
そして、ギャングと通じた警務官に捕まったところでメグリが助けに現れたこと。
「うん、うん……なるほど、ね」
ランの話す一部始終を、メグリは険しい顔で聞いていたが、話し終わってから眉間のシワが消えるまでにはほとんど時間を要しなかった。
パチンッ、と静まり返った廊下に指鳴りが響く。
「ねえ、ランくん。きみはこれから、どうしたい?」
「え?」
「とりあえず、きみは無事に逃げ切れたわけでしょう? これから先は、どうしようって思う?」
「それは……」
かけられた問いに、ランは思案する。
確かに、スラムから抜け出すという目標はすでに達成したと言える。では、次にやりたいことは何だろう?
そう考えると、自然と答えは浮かんできた。
「……モルファイト、やってみたい」
「うん」
「僕も、あのキラキラした世界で、戦ってみたい、です」
メグリは真剣に聞いていた。
バカにすることなく、ランの訴えに耳を傾けて、そして力強く頷いてくれる。
「わかった。だったら、うちにいらっしゃい。試合にも出られるように、お姉さんがお世話してあげる。ご飯や着る物や寝る場所も、ね」
「えっ……いいの……?」
「もちろん。最初からそのつもりで訊いたんだし……それに、白状しちゃうと、きみに選択肢なんてないのよね」
都合の良すぎる申し出に目を丸くしたら、メグリはむしろ申し訳なさそうに眉尻を下げて、ランの首元を指した。
「きみのデバイスだけど、それは持っていてはいけない物なの」
曰く、モルフィングデバイスを所持、使用する際には、当局から認可を受ける必要があるのだそうだ。
管理の厳しさは銃火器や劇毒にも準じるレベルで、違法な手段でデバイスを手に入れたり、許されていないところでモルフィングしたりしようものなら、非常に重い罪を科せられるのだ、と。
「知ったからには、わたしも通報しないといけないのが本当ね」
「それは……」
ランとしても、困る。
元から警務隊は好かないのだが、スラムのギャングと繋がっているらしいとわかった今ではなおさらだ。
無論のこと、ランの心配はメグリも承知していて、通報義務を脇に置いてくれている。
「警務隊は信用できないけど、きみとそのデバイスを野放しにするわけにもいかない。そこで代わりに、わたしの家で捕まえておくことにしようと思うの。あまり自由にはさせてあげられないし、場合によっては然るべきところに引き渡す必要だってあるかもしれない。だから、お世話してあげるっていうのは、せめてものお詫びね」
言い換えるなら、「警務隊に突き出されたくなければ身柄をメグリの管理下に委ねろ」といったところか。
実質的には一択で、選ぶ権利など想定されていない。
スラムでは日常茶飯事だった理不尽であり、しかし理想的な提案でもあった。衣食住に加えて、夢に見ていたモルファイトにまで参加できるのであれば、何をか拒否するというのだ。
「どうかしら、ランくん。わたしを信じて、ついて来る気はある?」
ここに至っても強制するような言葉は使わず、あくまでもランの意思を尊重するようにしてメグリは訊ねる。
憧れのスター選手だからとか。
窮地を救ってくれた恩人だからとか。
心を開く理由はいくらでもあったけれど、最終的に背中を押すこととなったのは、真心のこもった彼女の姿勢だった。
メグリになら身を委ねても構わない。
今度はなすがままではなく自分で考えた上で、ランは頭を下げた。
「よろしく、お願いします。……メグリさん」
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